【blog小説】ウト・ガリアラカロ・ココ 第三章

呉原 帰省

「呉原線は、単線じゃけん
ここから40分、
呉原原駅から家まで
約20分、1時間かかるのぅ~

そう言や~終戦間際、
広島⇔呉原間 複線にする工事の
真っ最中じゃった。

それが、完成する前に終戦を迎え、
そのままになっちょる。

今から電車で呉原まで行くが、
電車も通りもせんのに
トンネルが二づつ掘っちゃる。

線路を敷く前に、
終戦を迎えたんじゃ!

トンネルは、その名残よ!」

笠原が言うとおり、トンネルが、
2つあった。

又、駅ですれ違い電車を待つ為、
時間がかかった…

矢野原と言う駅を出てから、
車窓に夕日に輝く
瀬戸内海が広がった。

夕日に輝く瀬戸内海、

赤くシルエットになった島々、

海に浮かぶ、
シルエットの牡蠣いかだ..

僕は、生まれて、
このような、

美しい景色を、
見たことがない..

感動して時間を忘れ、
車窓を眺めていた。

暮れゆく瀬戸内海を見て、
理由は、わからないが、

おだやかな、
幸せな気持ちであふれた。

しばらく走ると、
すり鉢状の呉原湾が
目に飛び込んできた。

列車は、川原石駅と言う
離合できない、
無人駅に止まった。

まるで民家の中にある、
駅だった。

笠原の口が開いた。

次が呉原駅じゃ、
対馬 降りる準備をしちょけよ、

線路の横に点々とある
コンクリートの、
土台のような物を指差して、

「あれが何かわかるか?」

と、僕に質問してきた。

それが、何のために、
あるのか僕には、

まったく想像できなかった。

笠原は言った。

「戦争中、呉原海軍工廠では、
秘密裏に、戦艦大和が造られた。

それと呉原湾には、
数多くの、
軍艦が停泊しちょった。

汽車から、
呉原湾が見えんように

それらコンクリートの上に、

目隠しのボードが、
張られていたそうじゃ。

電車は、数分もしないうちに
呉原駅に到着し、

呉原駅からタクシーで、
笠原の実家に向かった。

笠原が言ったとおりタクシーは、
約20分で笠原の家に着いた。

驚いた!

そこは、大きな門構えの、
旧家だった。

インターホンごしに、

「寛治、ただいま帰りました!」

と、挨拶した。

それは、さっきまで、
目にしていた
笠原の態度と、
まったく違っていた。

明るい声で、

「おにいちゃん、おかえり!!」

と、笑顔で妹が、
かけだしてきた。

笠原から想像さえできない、
美人の妹が現れた..

しいて言えば、

『綾瀬はるか』
と、言ったところだ!

笠原を見て、
綾瀬はるか
は、
絶対に想像できない..

大きな家だった。
僕は、応接室に案内された。

笠原のお母さんが、
お茶を運んできた。

「遠い所をはるばる、

よくいらっしゃいました。

寛治に対馬さんの事は、
よく聞いています。

寛治が、いつも
お世話になっています。」

と、言われた。

「いえいえ、笠原君に世話に
なっているのは、僕の方です。

笠原君には、
頭が上がりません。」

と、言いながら、
母が持たせてくれた

『萩の月』と言う、
手土産を渡した。

萩の月とは、

仙台名物のカスタードクリームを
カステラ生地で包んだ、
饅頭型の
お菓子である。

電話で、広島の友達のところに、
遊びに行くと言うと、
母が送ってきてくれた物だ。

笠原が

「おぉ~い 順子!」

と、妹さんを呼んだ。

順子こいつは、
わしの親友じゃ!

名前は、つしま かずよし、
和美と書いて
"かずよし"と読むんじゃ。

同期の中で、一番の秀才で
心優しいやつじゃ。

いっつも、こんなに
助けられちょる!」

そう言って、妹さんに
僕を紹介してくれた。

「和美と書いて、
かずよし さんか..

いい名前ですね!

私は、学校の先生になりたくて、
地元の女子大にかよってます。

ほいで、お兄ちゃん、
対馬さんて、

堂林タイプの、
イケメンじゃね!」

と、言って笑った。

笠原が言った、
『親友』と言う言葉、

初めて女の子から、
イケメンと言われた事、

『和美』が良い名前..

どれも、生まれて初めて、
耳にする言葉だ..

笠原が言った。

「対馬 お前、これまで、
後ろ向きの事ばかり考え、

自分の欠点ばかり、見て
生きてきたじゃろうが!

対馬 は、のぅ~ わしが、
逆立ちしても真似できん、

良い所が、いっぱいある
優しい男なんよ。

広島に連れてきたんわのぉ、
お前に、自信を
持って、もらいたかったんよ。

対馬は、わしの大事な、
とぎ(友達)じゃけんのぉ~」

と言って大きな声で笑った。
呆然とした。嬉しくてだ!

僕は、我にかえった。

そういえば、
堂林さん?芸能人?誰?

いくら考えても、
心当たりがなかった..

笠原に、堂林さんてだれ?と
小さな声で聞いてみた。

それを聞いた笠原は、
大きな声で、

「堂林を知らん!!
堂林と言ったら、
CARPのプリンス、

イケメン選手よのぅ!

対馬 よう聞ぃちょけよ、
順子こいつに、

CARPの事を語っちゃれえや!」

笠原の言い方を聞いて、
昔、DVDで見た、

"仁義なき戦い"を思い出した。

笠原が、
菅原文太に見えてきた..

私は、リーグのお荷物球団と
バカにさ続け、
球団創設26年目に
初優勝した
話を聞き、

感動しファンになりました。

広島の優勝は、
巨人中心のプロ野球勢力地図が
大きく変わる球界の大地震でした。

古葉監督が市民球場で、
最初に言った言葉です、

「本当に優勝したんですね..」

人生、あきらめてはいけない!
明けない夜はない!

長嶋選手が、現役時代、
何度も味わった、

歓喜の瞬間を、
同級生の古葉監督は、

優勝を静かに、
かみしめました。

苦労された、
初代監督 石本秀一さんは、

療養されていた、
自宅のテレビの前で、

声を振るわせ、
泣かれたそうです。

歓喜のVから5日後の10月20日、
優勝パレードは実施されました。

球団が雇った警備会社の
ガードマンが、
道路の両脇をびっしりと固め、

すぐ近くを選手を乗せた。
マツダ社の特製車8台が、
ゆっくり通り過ぎていく..

紙ふぶき、大声援、

沿道の隅にしゃがみ込み、
遺影を抱えて涙する被爆者、

原爆犠牲者の遺族も、
たくさんいました。

「見ろ、優勝だ!」と、
遺影を車に向けて突き出す人も..

大人も子供も、
万歳を繰り返しました。

まさにファンとカープが一体!

県警は、人出を
30万人と発表しました。

ヘルメットの色が
赤くなったのは、この年からです。

以来、カープは、赤ヘル軍団と、
呼ばれるようになりました。

カープは、
赤字を補填してくれる

親会社を持たない、
独立採算球団です。

でも球団は黒字経営です。
私は、偉いと思います。
素晴らしいと思います。

選手に高額年俸は払えません..
若い選手を育てる以外ないのです。

せっかく育った選手は、
FAで他球団に一本釣りされ、
もって行かれます..

津田 恒美

対馬 和美

津田恒美、和美さんと同じく、
女性のような名前です。

カープには、
こんなにも惜しい人がいました。

彼の勇姿を知らない、
私達の世代でも語り継がれる
炎のストッパーです。

病魔が彼を襲います。

手術で摘出できない位置に、
悪性の脳腫瘍があることが判明。

1993年7月20日14時45分入院中だった、
済生会福岡総合病院において、
32歳の短い人生を閉じました。

東京ドームでは、
オールスターゲーム第1戦が
行われることになっていました。

逝去の知らせは、開幕のセレモニー直前、
両軍関係者に届きました。

津田選手の訃報は、試合中継の途中に
アナウンスされると共に、

地元広島のテレビ各局で、
津田選手と親交のあった
アナウンサーは、

涙ながらに、訃報を伝えました。

炎のストッパーの命の灯火が
消えたことに、セパ両軍の選手は、
言葉を失いました。

特に広島の選手は正直なところ、
球宴どころではなかったそうです。

特に津田選手が任意引退した後、
ストッパーに、
再度転向した大野豊投手は、

津田選手の名前が、
誰かの口から出るたび、
涙で目の前がにじんだそうです。

広島では、山崎隆造選手会長が、
すぐに、
全選手を集め、
その事実を知らせるとともに、

「津田のために優勝しよう!
津田を優勝旅行に、
連れて行ってやろう!」

と、涙ながらに訴えました。

広島ナインは、これに奮起し、
この年チームは、
夏場まで独走していた

中日ドラゴンズを逆転でかわし、

5年ぶりの、
セ・リーグ優勝を果たしました。

この年を最後にカープは、
優勝していません。

私はカープの優勝を知りません..

でも、負けても負けても
こんなカープが好きなのです。

いつか この目で、
必ず優勝を見る事が、
できると信じています。

私は、お金に不自由しない
生活をしても、

幸福になれないと思っています。

それは、家族かも知れません、
健康かも知れません、
友達・仲間かも知れません。

幸福とは、空気のような存在で、
あるのがあたりまえ、無くなって初めて、
有り難さに気づく物だと思います。

幸福の青い鳥は、身近にいます。

それに気づくことこそが、
大事だと思っています。

僕は、彼女の話に感動した..

津田 恒美、
僕と同じような名前に、
すごく、親近感を感じた..

カープの歴史に、
僕が、歩んできた
人生が重なった。

純朴な球団だ!と思った。

宮城(仙台)にも、
東北楽天イーグルスがあり、

島選手の言葉や、球団が、
日本一になったことに

東北人として感動したが、

カープへの市民の熱い思い、
歴史の奥深さ、スケールの大きさ、
全然違うことを知った。

僕たちの世代は、
失われた20年と言われるように、
活気のあった日本を知らない..

みんな、将来に
希望が持てないのである、

自信が持てないのである、
そんな毎日をおくっている..

金銭面に恵まれなく、
遥に契約金の低い若い選手達が、
負けても負けても、

全力プレーで金満球団に
立ち向かっていく姿が、
人を引き付けるのだろう…

周りにカープ女子が増えてきた
理由がわかった気がした。

僕は、彼女に言った。

「話を聞き、いっぺんに
カープ ファンになりました。

僕も立派な、
カープ男子になります!

ご指導のほど、
宜しく御願いします!」

と、答えた。

それを聞いてた笠原が、
満面の笑みで言った。

「順子 また、カープ ファンを
一人
増やしたのぉ、

今度の土曜日は、
巨人戦じゃのぅ、

対馬を連れて、
野球でも見に行くか!

実物の堂林も、見れるけんの..」

と、大笑いした。

江田島海軍兵学校

「ところで対馬、
お爺ちゃんに、会ってみんか?」

笠原には、海軍上がりの、
ガンコなお爺さんだと、

いつも聞かされていた。
正直、あまり乗り気はしなかった..

「お爺ちゃん、寛治です。
只今帰りました。」

と、部屋のドアをノックをした。

「おぉ~ 寛治か、よう帰ってきたの、
入りんさい」

部屋の中から声が聞こえた。
僕達は、中に入った..

「こいつは、防大医科で同期の
対馬と言います。同期一の秀才です。

今は、東北大震災で、母親一人で
仮設暮らしを、されちょります!」

と、僕の事を紹介した。

「それはそれは、
ひどい目に合われたのぅ、

遠いところから、
疲れんさったじゃろう、

まあ、腰掛けんさい」

と、僕達2人を椅子に座らせた。
立派な洋室だった..

お爺ちゃんは、
江田島(旧海軍兵学校)の出身で
和室じゃのうて洋室育ちなんよ。

お爺さんは、話し始めた..

江田島では、
"宮城県石巻原中学校"出身の

藤井 順三と言う、

同期の戦友がおって
やつとは、みょうに馬がおうた..

藤井は、農家の三男で金銭的には
恵まれていなかったが、

同期の中でも、頭がよく
出世も速かった..

江田島では、給金4円50銭、
帰省時、
旅費が支給された、
やつは全額仕送りしちょった。

僕は、思わず答えた..

「石巻原中学校は、現在、
石巻原高校になっています。

僕は、石巻原高校を卒業しました!」

それを聞いたお爺さんは、

「偶然じゃのう~ 対馬さんも、
石巻原の御出身だったとは..』

と、驚かれた。

昭和16年12月1日、604名が入校、
戦時体制下のため、
父兄の参列は、許されんかった。

入校後1週間目の12月8日、入校教育の
最中に連合艦隊がハワイ真珠湾を強襲、
米英との戦闘状態に突入した。

「12月8日以降は、
自分を無き者と思ってください!」

これがクラス全員の決意じゃった。

海軍兵学校は、数学、物理、英語、
帝国大学の授業とかわらんかった。

違うのは、
戦術と言う学科があったことじゃ。

江田島には、五省と言うものがあり、
精神力を徹底的にきたえられた。

『五省(ごせい)』

一、真心に反する点はなかったか

一、言行不一致な点はなかったか

一、精神力は十分であったか

一、十分に努力したか

一、最後まで十分に取り組んだか

海軍兵学校の伝統を叩き込まれた。

今は、危急存亡の時だ!
俺達は太平洋に出て大いに暴れるから、
貴様達は俺達の屍を乗り越えて来い!

73期が海軍兵学校各期のなかで
最も獰猛なクラス"と言われた。

卒業

昭和19年3月22日、898名が卒業、

卒業式は、高松宮殿下ご臨場のもと
執り行われたが、入校式同様に
父兄の参列は許されんかった。

戦地に赴かんとする、
卒業生達の覇気が、

生徒館に充満し異様な
雰囲気を醸し出しちょった。

「卒業おめでとう」

と、いう言葉は、
誰一人として言わんかった。

止めどもなく涙が涌き出た..
激情ほとばしる卒業式じゃった。

練習巡洋艦[香椎][鹿島]に乗艦し
大阪に上陸、列車に乗り継ぎ
伊勢神宮に参拝の後、

一週間の、休暇が与えられた。

卒業と同時に、
前線に配属され、

祖国に殉ぜんとする
若武者たちが、
肉親にそれとなく、

最後の別れを告げる
ための休暇じゃった。

出陣

昭和19年3月31日、

東京品川の海軍経理学校に集合、

4月1日、海軍機関学校54期、
海軍経理学校34期、海軍省へ伺候、

4月2日、宮中に参内し、
天皇陛下に拝謁、

その後、それぞれの
配属先へと別れた..

艦船要員400名のうち、
第一機動部隊へ配属される300名は、
呉原に入港中の戦艦大和に乗り組み、

5月1日にシンガポール南方の
リンガ泊地へ到着、

各艦に配乗され、

航海士、
砲術士、
通信士、
電測士、
甲板士官、

などの配置についた。

夏頃まで教官だった、
関 行男大尉(70期)は、10月25日、

神風特別攻撃隊、
敷島隊の隊長として、
敵艦に体当りした。

教え子へ

「教え子よ 散れ山桜 此の如くに」

海軍兵学校を繰上卒業し、
国難に馳せ参じて一年五ヶ月、
短い戦歴に対して損失は大きかった。

海軍兵学校、73期生の
卒業生902名のうち、

戦没者284名、

20~21才、
余りにも短い生涯じゃった..

祖国に捧げた青春!

"寛治"達と同じ年じゃ..

同期の3人に1人が、戦死..

僕達は、唖然とした。

わしは、少尉どまりじゃったが、
藤井は、
少尉に昇進したと思ったら、
すぐ中尉になった。

江田島出身は、同じ釜の飯を食った
同期の結束は強かった。

丘に上がれば、わしは少尉、
やつは中尉だが、

貴様と俺と、中が良かった..

今まで言えんかったが、
寛治.. わしは大和の生き残りじゃ、

「お爺ちゃん!あの、戦艦大和 に
乗っておられましたか!」

笠原が敬語で言った。

「いかにも!!」

死んでいった、戦友に
申し訳なくてのぅ~

言えんかったんよ..

対馬さんが、宮城でつらい
目におうたと、
話を聞き、
やっと言うことができた。

藤井は潜水艦乗りになった。
伊-400と言う潜水艦で、
終戦をむかえたそうじゃ。

『伊-400』

3機特別攻撃機(晴嵐)搭載、地球一週半の
航続距離を持った最新鋭の潜水空母

戦艦大和

わしは、大和を見たとき、
その大きさにびっくりした..

絶対沈まんと思うた。

大和には、当時の最新技術が
多数使用されちょった。

46cm主砲、
正式名称94式45口径46センチ砲、
当時世界最大の主砲じゃ。

射程距離は実に42kmというもので、


砲弾は、長さ約2m、
重さは1.46tという巨大さじゃった。

一発撃つのに使う火薬の量は、330kg、

撃ちだされた砲弾は、
時速2,808km(秒速780m)という
速さで飛び出し、

砲身の内側に刻まれたライフルにより、
1分間に60回転しながら飛んでいき、

遙か水平線の彼方の敵艦を
攻撃する事ができた。

3連装の砲塔一基の重さは2,510tで
駆逐艦一隻分の重さにあたる。

砲身長は、20.7mもあり、
1門あたり165tにも及んだ。

使用された46cm砲弾は、

  • 対艦用の91式徹甲弾
  • 3式通常弾
  • 対航空機用の零式通常弾

の3種類で、徹甲弾は、
目標の手前で着水しても
そのまま水中を直進し、

艦腹に当たるような工夫が
されちょった。

しかし、どんな砲身でも寿命があり、

戦艦大和の主砲は、1発撃つたびに
砲身内に約3,300気圧が
かかるため、

約200発で砲齢が尽きた。

大和の艦体の舷側は厚さ41cm、
そして甲板は厚さ23cm、

砲塔は65cmという甲鉄で覆われ、
20km位先から打ち込まれる。

大和なみの砲弾や200kg爆弾による
急降下爆撃にも十分耐えられる
防御じゃった。

魚雷防御の為、
舷側に大きくバルジ(膨らみ)を張りだした。

艦体全体に鋼鉄のアーマー(板金鎧)を
張ると艦の重量が増加してしまうことから、

居住区等部分は、できるだけ細かく
仕切られて(1,147個)防水区画を作り、
爆撃や浸水から身を守った。

わしらは、金玉と呼んじょったが、
球状艦首(バルバス・バウ)で
速度が増加するようになっちょった。

大和の最大速力 : 32ノット(64km)

観測用の測距儀も非常に
巨大なものが採用されちょった。

電波探信儀(レーダー)日本製の
電探としては、比較的良好な性能を
発揮したそうじゃ。

艦内通信は、主に電話で、
大和は直通電話491本を有し、

外部電話回線1本も装備され、
艦内が広く、防毒の観点から

伝声管については146本と少なめで、
空気伝送管も14本装備されてちょった。

[空気伝送管]

カプセルに入れた書類をパイプの中に入れ、
圧縮空気の力で艦内の他の部署に
速く送る気送管。

大和の烹炊所は上甲板に設備され、
6斗炊き蒸気釜6個、
6斗炊き副食釜2個が設備され、

1つの釜で500人分の炊飯が可能じゃった。

栄養価は1人2,800~3,000カロリー、
1日6合(米7:麦3)、野菜300g、肉180g、
魚150gと決められてちょった。

冷暖房完備エレベーター付で居住区は広く
兵員の寝起きに大抵の軍艦が釣床
(ハンモック)
じゃったが、

大和では寝台を使用し、

サイダーを造る装置も完備され、
飲み放題じゃった。

大型の洗米機や自動的に
野菜類などを刻む

機会合計5基をはじめ、

6斗炊きの炊飯釜6基
(3重釜回転式)、

同じ大きさの料理釜2基、

茶湯製造器2器
(能力毎時400リットル)、

さらには223.4立方メートルの
容積を持つ
冷蔵庫などが、
取り付けられていました。

大和は出撃する前 船内の木製部が
戦闘用の金属製へと入れ替えが行われた。

閣議で大和は片道燃料で、
沖縄特攻する事になった。

特攻作戦であることは、
乗組員には事前に伝えられんかった。

この前、"なんでも鑑定団"を見ちょったら、
出撃する前にはずした
艦内食堂椅子の板が出ちょった。

民家の納屋の中で埋もれていて、
足場板に使っちょったみたいじゃが、

なんと鑑定の金額は、200万円!

軍艦大和 食い-11と墨で書かれた、
ただの板きれがじゃ!

ビックリしたのを憶えちょる。

内容は、

揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して
陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

だったそうじゃ。

3000名の命を軽々扱い、
無駄死にさせる命令を下した奴は、
どんな神経をしちょるかと思う。

命令受領後 1945年(昭和20年)
4月5日15時

徳山で燃料を入れ、
瀬戸内海を出た所で、

乗組員が甲板に集められ

「本作戦は特攻作戦である」

と、初めて伝えられた。

しばらくの沈黙のあと、
動揺することなく

「よしやってやろう!」

「武蔵の仇を討とう!」

と逆に士気を高めた。

ただし、戦局の逼迫により、
沖縄への出撃が事実上の特攻作戦に
なることは、

誰もが出航前に熟知していた。

4月6日、

夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、

それぞれの故郷に帽子を振った。

艦内あちこちで、激論がかわされた。

進歩のない者は決して勝たない。

負けて目覚めることが最上の道だ。

日本は進歩ということを
軽んじすぎた。

私的な潔癖や徳義にこだわって、
真の進歩を忘れていた。

敗れて目覚める。

それ以外に、どうして
日本は、救われるか。

今、目覚めずしていつ救われるか。

俺たちは、その先導になるのだ。

日本の新生に先駆けて散る。

まさに本望じゃないか!

戦争のまっただ中でもがきながら、
われわれの死をのりこえて

平和の日がやってくることを、
願わずにはいられなかった。

『戦艦大和ノ最期』より著者 吉田満

圧倒的なアメリカ軍の攻撃

米軍の波状攻撃が、
始まったのは翌七日昼ごろ。

低く垂れ込めた雲から
艦載機が次々に現れ、

機銃掃射を仕掛けてきた。

敵機を操縦している、
若いパイロットの顔が、

肉眼でハッキリ見えた。

なぜか恐怖を感じんかった。

「チューン、チューン」

鉄板をはじく弾丸の音が耳に
鋭く飛び込んだ。

突然、隣にいた兵士が被弾し、
ひざから崩れ落ちた..

一瞬で絶命、

鉄かぶとごと、頭を打ち抜かれた
死体も見た、
左の眼球が
飛び出しっちょった..

甲板には無数の薬莢と一緒に
死体や、腕、足、肉片が、
ごろごろ転がっちょった。

人の脂で滑る為、
それらをホースを使い、
海水で流した。

戦いとも呼べぬ、
一方的なものじゃった。

肉体が焼け、弾け飛び、
砕け散る修羅場。

大和は、米軍 367機の
航空戦力の前に、

なすすべがなかった。

腹の底に響く爆弾の衝撃。

魚雷は左舷ばかりを狙い、
艦は左へ大きく傾いた。

「総員最上甲板!退去!」

攻作戦中止を命令し艦橋に残った。

「国のために生きろ!」

伊藤長官は、兵士らに
声を掛けると、

軍刀を下げて、
艦長室に入っていった。

1945年4月7日14:22,
大和は、
主砲の弾薬庫が、
爆発し,吹き飛んだ。

大和は、
ゆっくりと横転していった..

14時23分、お椀を、
ひっくりかえすように横転した。

ボイラー室に、海水が入り
大爆発を起こし、
艦体は
2つに分断されて海底に沈んだ。

大和が、爆発した際の
火柱やキノコ雲は、

遙か鹿児島でも、
確認できたそうじゃ。

閃光が、分厚い海水と
閉じたまぶたを貫き、

目の前が明るく輝いた、
次の瞬間、
水中爆発し、
海水が膨れ上がった。

水圧で胸が締め付けられ、
たまらず海水を飲み込んだ。

その時、全身に浮力を感じた..
手足をばたつかせていると海面に出た。

「ああ助かった!空気がうまかった」

一転、生への欲求が強烈になった..

上空が何かが、
キラキラと光った。

爆発で吹き飛ばされた、
金属の破片じゃ。

真っ赤に焼けた破片は、
ものすごい勢いで落下し、

命からがら脱出した、
将兵の体を
容赦なく、

切り裂いた..

海面は、重油でぎらぎらと
黒光りしちょった。

大勢が漂いながら、
もがいちょった..

力尽き、なすすべもなく
沈んでいく者もおった。

「海行かば水漬(みづ)く屍、
山行かば草むす屍(かばね)」

『海行かば』

どこからともなく、
歌声が聞こえた..

どれだけ漂流したじゃろう..

気がつけば、
周りで浮かんでいた者が、

かなり少なくなっちょった。

四月の海の冷たさに、
力を奪われ、

何度も気を失いかけた。

睡魔が襲ってきた..

目の前で、
浮かんでいた者が眠った..

「おい!寝るな!」

その声を遮るように..

「もぅ良い.. 行かしてやれ..」

目を閉じ、気持ちよさそうに、
海中に沈んで行った..

その時、駆逐艦"雪風"が、
近づいてきた。

約百メートルを、
無我夢中で泳いだ。

米軍の攻撃を警戒し、
雪風は、完全には
止まってくれんかった。

投げ込まれた縄ばしごに、
我先に取り付こうと
する生存者たち。

縄ばしごに腕をかけた。

体は、自由が利かず、
重く動かんかった。

「わしの背中を使って上がれ!」

何人かを先に行かせた。

別の乗組員が、

「次はお前だ!」

と、言ってくれた。

懸命に上った。

海上に、
取り残されたまま漂う者、

甲板まで、
たどり着きながら、

命を使い果たして
息絶えた者..

日没が迫った。

雪風は、
数少ない生存者を乗せ、

長崎県の、
佐世保軍港へ向かった。

戦艦『大和』以下の
第二艦隊は、
よく戦ったが、

人員3500名の命を失い、

戦艦1隻,巡洋艦1隻,
駆逐艦4隻が撃沈され壊滅した。

[海上特攻の損害]

戦艦「大和」 2740名 沈没、
生存者276名、うち負傷者117名

軽巡洋艦「矢矧」 446名 沈没、
生存者503名うち負傷者133名

駆逐艦「磯風」 20名 大破・自沈
負傷者54名

駆逐艦「浜風」 100名 沈没、
負傷者45名

駆逐艦「雪風」 3名 被害なし、
負傷者15名

駆逐艦「朝霜 」326名 沈没、
全員戦死

駆逐艦「初霜」 0名 被害なし、
負傷者2名

駆逐艦「霞」 17名 大破・自沈、
負傷者47名

駆逐艦「冬月」 12名 小破、
負傷者12名

駆逐艦「涼月」 57名 大破、
負傷者34名

海軍兵学校(73期生)33名 戦死。

お爺さんは静かに言った..

このように生き、
死ぬことをなしえた人々が、
我々以前にいた。

かつての日本人は、
このように行動しえた。

その事実を知ることを
忘れないでもらいたい..

1945年(昭和20年)

8月6日午前8時15分、
広島に原子爆弾投下。

1945年(昭和20年)

8月9日午前11時02分、
長崎に原子爆弾投下。

1945年(昭和20年)
8月15日 わしは、

呉原海軍病院(現 呉原国立病院)で、
終戦をむかえた。

藤井は、
ポツダム宣言受諾の休戦により、

電信で作戦中止、停戦命令を受け
内地へ帰投する途中、

東京湾北東500海里(950km)で
米軍に拿捕されそうじゃ。

藤井は、わざわざ東京から
見舞いに来てくれた。

原爆により、
焼け野原になった広島は、

駅から4.5km先の、
海が見えたそうじゃ。

無数に沈没座礁した船、

米軍がそこらじゅうに、
投下した機雷、

呉原湾も、
さんざんの有様じゃった..

日本は、さんざん痛めつけられた、
米国を、

いつまでも、憎むことをしない..

無条件降伏(ポツダム宣言)を、
受諾したからじゃ!

武士の約定じゃ!

日本には、
武士道の精神があるが、

戦争には、勝者も敗者もない!
こりごりじゃ!

どんなことがあっても、
戦争だけは、
しちゃぁいけん..

対馬さん、つまらん年寄りの
長い話を
聞かせて、

すまんかったの..
ゆっくりしていってくださいよ!」

笠原と僕は、言葉を失った..

「対馬、強烈な話をきいたのぅ~
気を取り直して、

飯じゃ!飯じゃ!」

笠原は、僕の肩を強く叩いた。

夕食

 食卓には、瀬戸内の、
ごちそうが用意されていた。

  • ワタリガニの塩茹で
  • オコゼのから揚げ
  • 小いわしの刺身
  • 鯛めし
  • 鯛の潮汁

[小いわしの刺身]

うまい!小いわしの刺身が、
こんなに美味いとは..
宮城では、刺身で絶対食べられない。

[オコゼのから揚げ]

グロテスクなのに、
こんなに、白身で美味いとは!

[鯛めし]

鯛のうま味で炊き上げた、
炊き込みご飯だ。

冗談抜きで美味い!

何杯でも食べられる。

[鯛の潮汁]

味付けは塩だけと聞いた。
なんて奥深い味がする汁物か!

「お兄ちゃん“おこぜ”のから揚げ、
うちが揚げたんよ!」

妹さんが、ニコリと笑った。

玄関の方から、

「ただいま!」

と、大きな声が聞こえ、
お父さんが、
食卓に入ってこられた..

僕は、座っていた、
椅子から立ち上がり、

「初めまして、
対馬 和美と申します。

お邪魔致します。」

と、挨拶をした。

となりにいた笠原が、

「夏休暇で帰ってきたんよ。
こんなぁ、宮城の人間で、
仮設暮らしじゃけん、

いっしょに連れてきたんよ!」

と、紹介してくれた。

小さな声で、

「親父は、ますおさん
(養子)じゃけん..

家の中じゃ、
小さくなっちょる。」

と、笑った。

「対馬 君、地震、
えらい災難じゃったね..

遠慮せんと。
ゆっくりしんさい..」

と、風呂場に行かれた。

「親父は、
呉の市役所に勤めちょるんよ、

大和ミュージアムと言う展示館が
あるんじゃが、

そこの、プロジェクトチームにおった。

爺ちゃんが、
大和の乗組員じゃった事は、

戦艦大和搭乗員一覧を見て、
知っちょったと思う..

親父は、言わんかったが、
今まで爺ちゃんが、

言えんかった気持ち、
よ~ぅわかるわ!」

そうじゃ!
明日、
大和ミュージアムに
連れてっちゃる!

ワタリガニの塩茹では、
日本酒のつまみに

持って来いなんじゃ、

この酒は(千福)言っての..
呉の三宅酒造の酒なんじゃ。

大和にも積まれちょった。

わしゃ~『雨後の月』と言う
酒の方が、
好きなんじゃが..

まぁ、飲もうで! 」

ガハハハと笑いながら、
笠原は、
僕に酒を注いだ。

大和ミュージアム

大和ミュージアムは、中に入ると
いきなり10分の1の、

「戦艦大和」の模型が、
展示されていた。

僕は、この10分の1模型展示が、
秀逸だったことに、

後々気づかされた。

少し階段を下りて下から、
見上げる大和、

甲板の高さで見る大和、

2階に上がって、
艦橋ほどの高さの大和、

3階に上がって、
上から見下ろす大和、

上下左右さまざまな角度から、
大和を堪能した。

3階まで上がったときに気づいた。

この角度から、
見下ろす大和というのは、

どこかで見た覚えがある..

大和に爆撃を加えながらも余裕で
写真撮影していた、

米軍機から、
撮影された写真を思い出した。

「大和の最後」を説明する
展示の写真は、

そのほとんどが、
米軍の撮影したものだった。

そう思ってみると、
1階の下から見上げる角度は、
大和を転覆に至らしめた

魚雷の角度じゃないかと..

そう気づいたとき、いいようのない
「せつなくて物悲しい」気持ちが
湧き上がった。

ミュージアムに展示されている
戦艦大和 搭乗員一覧 の中に、

お爺さんの名前、
“笠原 寛蔵” があった。

笠原が、ミュージアムで売られていた
“最後の戦闘配食”を再現した
おむすびを買ってきた。

おいしかったが..

そしてそれを食べて、
死んでいった

方々に思いをはせるにつれ、

お爺さんから聞いた、
生々しい話で、

湧き上がる、
せつなさを隠せなかった。

あらためて、すべての、
戦争で犠牲になられた、
皆さんたちに、

黙祷と、哀悼の意を、
ささげたいと思った。

生まれて初めての野球観戦

呉原駅で順子さんと、落ち合った。

「お前!このかっこうで、
マツダスタジアムまで行んかぁ!
ほんま、カープ女子じゃの!」

笠原は、苦笑いをしていた。

まぁ、こいつもワシも人と同じ事を
するんが、嫌いな、

天邪鬼のB型じゃけんの..

「対馬は、几帳面じゃけん、
A型じゃろうが?」

僕は、即答した!

「笠原、僕は同じB型だ!」

笠原は、対馬のことを、
今までA型だと

思い込んでいたらしい..

「ほうか!!わしゃ~ずうっと、
A型じゃと思うちょったわ!」

僕は、話題を変えた..

「順子さんが着ているユニホームの
55番、SHIMA さんて、?

「55番は、今、
エルドレッド選手がつけています。

私は、人間的にも、
嶋選手の大ファンです。

嶋選手は、仙台の東北高校で、
左ピッチャーで、
甲子園を
沸かせた選手で、

ドラフト2位でカープに、
入団して来ました。

私が中学生のときで、彼の特技は、
野球ではなく英会話でした。

左投手として入団したのですが、

プロの世界は厳しく、
野手に転向しました。

その野手でも、思うような
結果が出せず、

一時は、自由契約寸前まで、
追い込まれます..

打撃コーチは、
彼のバッティングセンスを

感じていました。

2004年、ついに花開きます。

55番と言う事で、
赤ゴジラ”と称され、

彼の努力もあり、

.337 首位打者

189 最多安打

ベストナインにも選ばれました。

その後、持病の腰痛やケガもあり、
今年から交換トレードで、
埼玉西武ライオンズに移籍しました。

でも、私は、
嶋選手の温かい
人間性が大好きです。

球団を移籍しようとも、
選手を引退しようとも、

彼を球界は、彼をほって
おかないと、
信じています。

だから、私は、
応援し続け、
55番 SHIMA
ユニホームを着続けます!

嶋選手が、同じ、
宮城県に関係する事も有るが、

B型人間の僕としても、
順子さんの熱意を

十分理解することができた。

試合開始は18:00からじゃ、

広島駅から、球場まで
歩いていける。

「野球を見たら、夜遅うなるけん、
今晩は、市内に泊まりじゃ!」

「次の朝、ゆっくり、
新幹線で、東京に戻ろうや。」

10分くらい、歩いただろうか..
マツダスタジアムが姿を現した。

どこかで、見覚えが..

“大和ミュージアム”を思い出す色で、
造られて間もない、
天然芝の新しい球場だった。

堂林選手は内野手らしく、
内野指定Aのチケットが用意してあった。

3万人収容できる球場だそうだが、
8月10日(土)巨人戦 超満員だった。

カクテル光線に照らされたスタンドは、
美しく、臨場感がすごい!

球場には、
”燃える赤ヘル僕らのカープ” が、
流れていて、気分を高揚させた。

『燃える赤ヘル僕らのカープ』

“カ~ン”乾いた打球音、
絶対!この臨場感は、
テレビでは味わえない。

カープの選手が、
バッティング練習を始めた。

赤は映える!

順子さんによると、
堂林選手は、
2010年-2011年は、
一軍出場は無かったが、

去年から一軍で、
活躍している、
入団、
3年目の若い選手とのことだ。

フルネームは、
堂林 翔太(どうばやし しょうた)

背番号7 三塁手 、
愛知県出身 21歳

バッティング練習をしている
選手の中に背番号7をみつけた。

僕の知る、野球選手の中では、
記憶がない、クールな好青年だった。
僕が彼と似てる?

すごく晃栄だった..

試合は定刻どおり、18時に始まった。

初回から村田のタイムリーと
阿部のツーランで、

いきなり、3点を
追いかける展開に加え、

巨人の先発は杉内..

5回終了、グラウンド整備中、
バックスクリーン大型テレビジョンに、

「勝利を我らに!〜Let's win!〜」
CCダンスの動画が映し出され、

売り子さん達のキレキレ、
ダンスが始まった。

『CCダンス』

ちびっ子たちも、
振付をまねしていた。

なんて楽しい球場なんだ!

6回に阿部の2本目の本塁打で
追加点を奪われ、
バリントンはノックアウト。

「わりゃ~なんしょうるんじゃ!」

笠原は怒りまくっていた。

それに比べ順子さんは、
冷静に観戦していた。

4点ビハインドの7回裏、
カープの反撃は始まった!

キラ&松山&小窪の3連打、
ノーアウト満塁から、
堂林&倉の連続タイムリーで同点!

順子さんと笠原は、
メガホンが壊れんばかり、
たたき、応援していた。

僕の存在は、
間然に忘れ去られていた..

ルイスのタイムリーで、
勝ち越しに成功!

球場全体が「宮島さん」の大合唱!

球場全体が1つになった。

1点ビハインドの巨人は9回表、
ロペスのソロHRで、
試合を振り出しに戻す..

「永川のボケが!
また、試合をぶち壊わしゃ~あがった!」

笠原は怒りまくった。

こうなれば山口、マシソン、
西村を擁する、
巨人のリリーフ陣は盤石。

一方のカープは、
横山、今村、梅津という陣容。

10回11回は、両チームとも
リリーフが踏ん張り無得点に終わった。

15回表、
昨日、
敗戦投手となっている今村だが、

この日もツーベース、敬遠、ボーク、
敬遠で、満塁のピンチを背負う。

「今村、わりゃ~
なんしょうるんじゃ!」

笠原が吠えまくった。

「お兄ちゃん、なんとかなるけん!
大きな声で騒がんでや!」

順子さんの、言った通り、
今村は、次打者の大田から
三振を奪い無失点で切り抜けた。

これでカープの負けはなくなり、
最終回の攻撃を残すのみだが、

相手は西村、

丸、岩本への投球は、
甘い球もあったが、
西村の球威が勝り、

あとひと伸びを欠いて
得点ならず、

引き分けに終わった。

「西村!わりゃ~
広島の人間のくせに、

ええ根性しちょるの~
憶えちょけよ!」

笠原は、吠えまくった。

0対4から一時は逆転し、
サヨナラのチャンスで本塁憤死もあり
惜しい引き分けだと思うが、

試合の内容は決して悪くない。
手に汗握る試合だった…

前にも書いたが、それにしても、
球場での観戦は、臨場感が全然違う!

本当に祭りの後の静けさだ..
僕たちは、先程までお祭り騒ぎだった、
マツダスタジアムを後にした。

順子さんとは、広島駅で別れた..

そのとき、お爺さんの話、

「広島駅から海が見えた。」

を、思い出した。

今は、ここから近代ビル群しか見えない..
「海が見えた」とは..

平和のありがたさと、
復興した広島を実感した。

同じに、必ず宮城(石巻原)も
必ず復興する!と心から思った。

笠原と近くのコンビニで、
ビールと、
つまみを買い、

今晩、泊まる、
ビジネスホテルに向かった。

さすがの笠原も、
引き分けたと言うことで、

応援疲れで、疲労困憊していた。

部屋に入ってしばらくは、
ごそごそしていたが、
ベットの上で大の字で、

大いびきをかいていた。

今回の広島旅行では、
言葉で言い表せないくらいの経験をした。

それもこれも、横で寝ている、
こいつのおかげだ。

僕にとってこいつは、
一生の友達、親友だ!

なんて、幸せな気分なんだ!
僕は、充実した気分に酔いしれた..

『蛍』

歌 : サザンオールスターズ

作詞:桑田佳祐 作曲:桑田佳祐

リリース: 2013年

【第三章】 著: 脇屋 義直

【第四章】へ続く..


この小説はフィクションです。
実在の人物や団体などとは、
関係ありません。

戦艦大和に関しては、
大和ミュージアム見学により、
執筆しました。

先の大戦で亡くなれた先人の方々に、
心より哀悼の誠を捧げます。

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