侍、海に散る。

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【日本連合艦隊の壊滅】

ペリリュー島が玉砕した翌年の昭和20年(1945)3月26日には硫黄島が玉砕します。

その翌月、日本連合艦隊は沖縄特攻作戦により事実上の終焉をむかえることになります。

「戦艦大和の最期」

下記は、東京帝国大学で学び大和に乗り込みんでいた生存者のお一人、吉田 満 さんが書かれた著書内容です。

命令受領後 1945年(昭和20年)4月5日15時
我々は徳山で燃料を入れ瀬戸内海を出た所で、乗組員が甲板に集められ、

『本作戦は特攻作戦である』と初めて伝えられた。

作戦の内容は、「揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする」

しばらくの沈黙のあと、我々はは動揺することなく『よしやってやろう!』『武蔵の仇を討とう!』と逆に士気を高めた。

ただし、戦局の逼迫により、沖縄への出撃が事実上の特攻作戦になることは、誰もが出航前に熟知していた。

4月6日、夕刻に君が代斉唱と万歳賛唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。

艦内あちこちで、激論がかわされた。

進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ

日本は進歩ということを軽んじすぎた

私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める

それ以外に、どうして日本は救われるか

今、目覚めずしていつ救われるか

俺たちは、その先導になるのだ

日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか!

戦争のまっただ中でもがきながら、

われわれの死をのりこえて平和の日がやってくることを、

願わずにはいられなかった。

戦いは一方的なものだった。

肉体が焼け、弾け飛び、砕け散る修羅場、大和は、米軍の航空戦力の前になすすべがなかった。

腹の底に響く爆弾の衝撃。
魚雷は左舷ばかりを執拗に狙い、艦は左へ大きく傾いた。

総員最上甲板、退去、さらに特攻作戦中止を命令し、艦橋に残った。

『国のために生きろ!』

伊藤長官は、兵士らに声を掛けると軍刀を下げて艦長室に入っていった。

1945年4月7日14:22、大和は、主砲の弾薬庫が爆発し、吹き飛んだ。

大和はゆっくりと横転していった。

14時23分、お椀をひっくりかえすように横転した。

直後に大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。

戦艦大和ノ最期 より著者吉田満

大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたそうです。
日本民族の血と汗と技術の結晶として、圧倒的な敵の矢面に立ち、全力をふるって戦い、
ついに刀折れ矢尽きて倒れた。

その最後の悲しさと雄々しさこそ、 “サムライ” 武士道です。

“戦艦大和”以下の第二艦隊はよく戦いましたが、人員3,500名が命を失い、
戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻 が撃沈され事実上連合艦隊は壊滅しました。

<海上特攻の損害>

戦艦「大和」 2740名 沈没、生存者276名、うち負傷者117名
軽巡洋艦「矢矧」 446名 沈没、生存者503名(第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、艦長原為1大佐を含む)、うち負傷者133名
駆逐艦「磯風」 20名 大破・自沈、負傷者54名
駆逐艦「浜風」 100名 沈没、負傷者45名
駆逐艦「雪風」 3名 被害なし、負傷者15名
駆逐艦「朝霜 」326名 沈没、全員戦死
駆逐艦「初霜」 0名 負傷者2名のほかは被害なし
駆逐艦「霞」 17名 大破・自沈、生存者285名、うち負傷者47名
駆逐艦「冬月」 12名 小破、負傷者12名
駆逐艦「涼月」 57名 大破、負傷者34名

今、日本に生きる我々は、
このように生き、死ぬことをなしえた人々が、我々以前にいた。
かつての日本人は、このように行動しえた。

その事実を知ることを忘れてはいけないと思います。

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾投下。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分、長崎に原子爆弾投下。
1945年(昭和20年)8月15日 ポツダム宣言受諾終戦。

エピローグ

 

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-酒楽笑生

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