【blog小説】ウト・ガリアラカロ・ココ 第四章

初めての石巻原

防大医科では、
相変わらず、しごかれた..

早いもので、3年目の8月が
やってこようとしていた。

夏休暇あけには、専門進路
選択をしなければならない。

夏休暇明けから、
本格的に“防衛医科大学病院”で、
医療専攻研修が始まる。

自分自身、母ちゃんに、
会いたかったのもそうだが、

僕の親友”笠原”を母ちゃんに
合わせたかった。

「”笠原”石巻原では、
仮設暮らしだが、

この夏は、僕の田舎に
きてみないか?」

僕の提案に笠原は、即答で答えた。

「東北には行ったことがないし、
テレビで見る震災が、どがいなものか、
この目で見てみたいゎ!」

笠原は、二つ返事で、
OKしてくれた。

僕は、親友、笠原をつれ、
石巻原に帰省することにした。

<石巻原>
石巻原市は、宮城県の
東部に位置し、
人口約は15万人、
(震災前は21万)

仙台市に次ぎ県内で、
2番目に人口の多い街、

石巻原湾に注ぐ、
旧北上川の河口にあり、
三陸海岸の最南端に位置する。

牡鹿半島や金華山を
含む風光明媚な街、

東北新幹線で仙台まで行った。

はやぶさ 9号、
東京発 9:08 ~ 仙台着 10:40

所要時間 1時間32分で、
仙台駅に到着した。

笠原は、広島から
仙台まで遠いので、

東京から遠いものだと、
思っていたようだ..

「ビックリしたわ!
仙台は、街じゃのう~」

僕は、言った。

「仙台は、宮城県の県庁所在地で、
政令指定都市、人口107万人の
東北地方の最大都市だから..」

笠原は、自分の知っている、
広島と比較しながら言った。

「107万か!広島市は、
100万じゃけん、
仙台の方が大きいわ!

それと、一時間32分ゆうたら、
広島 → 新大阪 じゃのぅ..

東京 ⇔ 仙台は、そが~に、
近かったかのぅ..」

と、つぶやいていた。

震災前は、仙台駅から
JR仙石線に乗り換え、
石巻原に向かうルートがあったが、

震災の影響により、
いまだに、

高城町~陸前小野駅間の
運転を見合わせている。

石巻原へ、仙台駅からから、
高速バスで、

イオンモール石巻原まで
行くことにした。

瓦礫は、片付いていたが、
まだ、震災の爪痕が、
あちらこちらに残っていた..

1時間強で、イオンモール
石巻原に到着した。

笠原に石巻原市は、人口約21万人、
くらいの規模であることを告げた。

笠原は、言った。

「偶然じゃのぅ~ 21万ゆうたら、
呉原と同じくらいじゃ!」

笠原に、震災でを受け、
他県に疎開し人工が少なく
なっている事を説明した。

「現在は、石巻原市外に、
非難している人がいて、
15万くらいだ..」

笠原が、驚いたように言った。

「今でも、6万人が市外に
非難しちょるんか!政府は何を、
もたもた、しちょるんじゃ!」

と、怒った。

僕は、言った。

「母ちゃんは、仮設大橋団地、
石巻原市大橋1丁目にある、

224戸の2DK仮設住宅に、
暮らしている。

イオンモール石巻原から、
仮設大橋団地までは、

タクシーで帰った。

イオンモールから、
15分と言ったところだ、

母ちゃんは、
洗濯物を干していた..

「母ちゃん!
”和美”只今、帰りました!」

笠原のまねをした。

その声を聞き、母ちゃんは、
驚いたように振りむいた..

「誰かと思った、たまげだ、
和美!ずいぶんおがったね~
(ずいぶん成長したね~)」

と微笑んだ。

対馬を紹介した。

「防大医科 同期一、
ひょうきんもの、の親友、
“笠原 寛治”君、」

母ちゃんが、
日頃、使っている言葉で
挨拶をした。

「とろっぺず、和美が、
お世話様でござりす。
(いつも和美が、
お世話になっております。)」

「がが(母ちゃん)標準語で
話さないと、だめだっちゃ!
(だめだよ)」

母ちゃんが、標準語でしゃべった!

「和美から笠原さんの、事は、
いつも聞いています。

このまえは、広島まで
おじゃまして、
大変お世話になりました..」

「仮設ですけど、
ごゆっくりして行ってください。」

電話では、長くなるので..

広島旅行の事を、母ちゃんに
写真と一緒に、
レターパックで送っいた。

端的にまとめたつもりだが、
A3のレターパックが、
いっぱいになった。

母ちゃんも、広島の話には、
人生で一番、感動したとの事。

涙が止まらなかったらしい。

ものすごく、勇気づけられた
との事だった。

仮設のみんなに、見せたところ、
反響が大きく、

広島旅行に行く計画が、
あるらしい。

それより、
僕が防衛大学校医科生徒で
あることが、

仮設内では、
もっぱらの評判らしかった。

笠原が照れ臭そうに言った。

「いや~ “対馬”君には、
テストの前にみんな、
お世話になっています。

”対馬”君がいなかったら、
僕らは、進級できていません!」

笠原は、頭をかきながら..

「広島土産、穴子竹輪です。」

と言って、
紙袋ごと母ちゃんに手渡した。

僕はビックリした、母ちゃんも、
あの、笠原も..!
標準語をしゃべっている..

母ちゃんには、
広島旅行の写真を
見せていたので、

笠原が一目で、
わかったらしい.、

「それでは、遠慮なく、
おじゃましま~す!」

と、言いながら、
笠原が僕の家(仮設住宅)
に、上がった。

感動した!

友達が仮設に
上がったのは、初めてだ!

○ ずんだ餅
○ ホヤの酢の物
○ ホッキ飯
○ 牛タン

母ちゃんは、笠原に食べさせたく、
宮城特産のご馳走を、
いっぱい用意していた。

墨廼江酒造の八反錦と言う
地酒を用意していた。

母ちゃんなりに、
広島について勉強したらしい..

<墨廼江酒造(すみえ しゅぞう)>

墨廼江酒造は、石巻原市の蔵元、
地震当日は、大きな横揺れで、
蔵の壁はかなりやられてた。

黒い波が、押し寄せているのに
気がつき、

直ぐ社員全員と家族で、
冷蔵コンテナの上に、
避難し難を逃れた。

この地区は、海から
2Kmも内陸にあり、

明治の3陸大地震でも、
チリ地震の津波の被害は、
受けなかったが、

今回は、旧北上川を
さかのぼってきた津波が
押し寄せたそうだ。

80cmの高さの泥水が、
蔵全体を
埋め尽くし、
3日間水が引かなかった。

震災後も水道の復旧に2週間、

電気の復旧は、
さらに時間がかかり、

本格的な普及作業に
入れたのは、

20日後だったそうで、

汚泥の処理が完全に
終わったのは、

秋までかかったそうだ。

4月に入り震災後、
初めて搾りをしたそうだ。

搾った酒は、日本酒度が+15、
アルコール19度もあったけど、
だれずにピンとしていたので、

これで助かったと、
思ったそうだ。

震災後の皆さんの、応援で、
トータル生産量の20%減で
おさまったのは、

奇跡と言えるかもしれない。

不要なタンクなどを整理し、
2012年から、完全に
再スタートができたそうだ。

こんなに支援してもらったことが、
ありがたく思えたことは、
無かったそうで、

現在、その恩返しで
頑張っているそうだ。

<八反錦(はったんにしき)>

広島県産好適米八反錦を
100%使用の純米吟醸酒、

気品ある香りと、
柔らかな味わいが特長。

呉原の三宅酒造の酒「千福」も、
同じ広島県産好適米、
八反錦を100%使用している。

母ちゃんは、広島で、
いろいろ案内してもらった事、

お爺さんの、話、
カープの話、
僕が写した写真の数々..

全て、感動したらしい…

母ちゃんは、

「和美を宜しく、
お願いします。」

と、言いながら、
僕が撮った写真を
見せながら、
笠原と話をしていた。

「カープの歴史を聞き、
一変に
カープファンになりました。

カープ叔母さんと、
呼んでください!」

と、冗談をいっていた。

「和美に、こんな立派なお友達が、
できるなんて…」

と、言いながら涙ぐんでいた。

笠原は、

「こりゃ~ まいりました!」

と、大笑いしながら、
又、頭をかいた。

「笠原!宮城にも多く銘酒がある、

八反錦は、その中から、
母ちゃんが
吟味した酒だ、
まぁ 飲んでくれ!」

そう言いながら、
ゆっくり酒を注いだ、

笠原は、ホヤの酢の物を、

「これは、なんですか?」

と、不思議そうに、
つまんでいた。

確かに広島では、見た事が無い、

「これは、貝の一種だよ!」

水揚げ量の多い石巻原では、
酒の肴として一般的で、
その色形から、

海の「パイナップル」と、
呼ばれていることを話した。

笠原が不思議そうに言った。

「海のパイナップル?
初めて食しました!いなげな、

いや、へんな物ですね..」

と、ホヤをつまんだ。
笠原にとってホヤの、ほろにがい味は、
初めての経験だったらしい。

笠原は、豪快に、
「うまい!うまい!」と、言いながら
ホッキ飯を3杯もお変わりした。

牛タンも一皿、たいらげた。

その腹で、ずんだ餅を、
これまた、「うまい!うまい!」と、
口いっぱいに押し込んで、

ペロリと平らげた。

どんな、胃袋をしているんだ!?

それを見ながら、
嬉しそうに母ちゃんが、
笑っていた..

母ちゃんが、思い出したように
話し出した。

「そうそう、和美..」

震災のとき治療して頂いた、
藤井 竜二さん、
宮城に帰っていらして、

広瀬川 近くの
仙台市急患センターに、
勤務されているのよ。

震災のとき、藤井さんに
母ちゃんが治療してもらい、
お世話になったこと。

進路の相談にのってもらい、
僕に防大医科を進めてくれたこと。

藤井さんは、
防大医科18期、大先輩であること。

今までの経緯を、笠原に話した..

僕は、仙台市急患センターに
勤務されている。

藤井さんに、電話してみた。

藤井さんは、忙しいらしく、
なかなか捕まらなかったが..

15分ぐらい待っただろうか..

やっと、話をすることができた。

防大医科の友人をつれ、
石巻原の仮設に、
帰省していることを告げ、

明日、13時半頃、
伺う旨を伝えたが..

いつ、救急患者が運ばれて
くるか判らない為、

時間の確約は、
できないとの事だった。

翌日、バスで仙台の
仙台市急患センターに向かった。

少し早かったが、13時過ぎに、
急患センターへ到着した。

昨日の電話では、

「明日は、24時間の勤務明けなので、
特別な救急が飛び込まない限り、

業務引継ぎをして、
13時30分過ぎには、
勤務から開放されるハズ?」

と、おっしゃっていた。

藤井先生は、救急対応で、
オペの真っ最中だった。

ナースステイションに、
問い合わせてみると、
いつもの事で、

「おそらく15時過ぎには、
フリーになられるでしょう?」

と、のことだった。

15時過ぎか..

青葉城

ここから、仙台城(青葉城)は近い、
笠原を城に案内することにした。

仙台城(青葉城)

現在の宮城県仙台市青葉区、
青葉山にある
平山城で、

雅称は、「青葉城」「五城楼」
との別名もある。

慶長年間に伊達政宗が築造してから、
廃藩置県・廃城令までの
約270年に渡り、
伊達氏代々の居城、

仙台城は火災や地震により、
何度か建物や石垣の一部を失い、
その都度再建された。

戊辰戦争でも、仙台が戦場に
なることは、
なかったため、
仙台城は創建以来、

一度も攻撃を受けず、
要塞としての役目を終えた。

しかし、第二次世界大戦時の
仙台空襲により焼失した。

広島城が、原爆で
倒壊したのと同じ、

第二次世界大戦が原因だった、

「笠原、青葉城は、
今は、なにも残っていない..」

戦後、第二師団の跡地に
アメリカ陸軍が
進駐し、

トラックの通行を可能にするため、
三の丸巽門が破却され、

仙台城跡にあった、
現存する江戸期の
建築遺構は、
すべて失なわれた。

二の丸跡地に、東北大学が入り、
東北大学川内キャンパスになっている。

川内北キャンパス、
川内南キャンパスのうち、

南部の文系4学部と、
付属図書館、
付属植物園の
ある場所が二の丸にあたる。

阪大が核融合では、
世界TOPレベルだが、

東北大工学部機械知能航空学科での
常温核融合実験において、
大きな変革が起ころうとしている。

相対論問題とともに..

核融合

核融合反応が起こると、
反応の前後で質量が変化する。

ここで、軽い原子同士の
核融合ならば、
質量の差分が、
アインシュタインの特殊相対性理論の

質量とエネルギーの等価性、
(E=mc2)に従い、

エネルギーとなって放出される。

核融合の結果発生する、
エネルギーは、

高エネルギーの粒子、
陽子、中性子などガンマ線、
ニュートリノなどの形で放出される。

これを発電に利用する方法が、
現在研究されている。

エネルギーは、質量*高速
(3*10の8乗)m/sの2乗に等しい。

残念な事に、
広島の原爆で、この式が立証された..

<常温核融合>
通常の核融合のように、
1億度以上の
温度を必要とせずとも、

核融合が常温で起こるという現象。

笠原が口を開いた。

「対馬、詳しい事はよう判らんが、
常温核融合は、そがいに 凄いんか?」

僕は言った、

「1年生のとき、一般教養で,、
核融合の事を習っただろう?」

笠原も記憶していた、

「確か核融合反応を起こすには、
1億度、
安定的に起こすには、
1億2,000万度の
炉が、

必要じゃと記憶しちょる..」

さすがに笠原も記憶していた、

「その通りだ、常温核融合は、
1億度以下で
核融合が、
安定的に起ると言う事だ。

核融を起こす為の、合実験で温度が、
今、何度まで到達しているか、
知っているか?」

笠原は、現在どうなっているのか、
知らないようだった..

「詳しいことは、わからん..」

僕は言った、

「9千500万度だ!

核融合炉の実現に向け、
超電導型核融合
実験装置、

JT―60SAの建設が、
1月に那珂核融合研究所で始まった。

[文部科学省 提供]

2019年の運転開始予定だそうだ..

大きく報道されていないが、
まさに日本で、
人造太陽が、
出来ようとしているんだ!

それと、核融合がもたらす、
エネルギー量をしっているか?」

笠原は、興味が無かったのか、
詳細については知らなかった、

「これも、詳しいことは、
わからん..」

できるだけ端的に説明した、

「核融合を人工的に、
起こしやすいのは、

重水素と三重水素の反応で、

この場合、燃料1グラムに対し、
石油8トン分の
エネルギーが得られる。

原子力発電で利用される
核分裂反応よりも、

わずかな燃料から、

7倍ものエネルギーを生みだせる。

解りやすく言うと、1トン前後の水で、
サンフランシスコ(80万人)くらいの都市が
1年間に消費する電力を、生みだせる。」

笠原は、疑問を持った、

「その重水素は、
どこにあるんじゃ?」

僕は、こう来ると予測していた、

「海の水の0.015%が、
重水素と酸素が、
くっついたものだ。

特に深い海の海水には、
多く含まれる。

少ないようだが、海水は、
たくさんあるから、

重水素も使い切れないほど、
たくさんある。

三重水素は、
リチウムという物質から
作ることができる。

リチウムは、銀白色の金属で、
薬や電池に
使われている、
身近なものだ!

リチウムも鉱山や海水中に、
たくさんある。

日本では将来、核融合発電が、
実現されたときのために、
海の水から重水素や三重水素を、

よりたくさん取れるように
研究が始められている。」

笠原が次の質問をした、

「ほいじゃが、重水素を取りすぎたら、
のうならんのか?」

僕は、調べていた、

「核融合発電で、重水素を使っても
1億年は、なくならない!

それぐらい、海の水は多い。」

笠原は、興味を持ったようだ、

「ほいで、簡単に1億度というが、
どうやって暖めるんじゃ?」

これも調べていた、

「暖め方は、色々あるのだが、
一番わかりやすいのが、電波を当て
温める方法だ。

電子レンジも電波を使い、
いろいろなものを
温めるだろう?
これと同じ原理だ。」

笠原が素朴な質問をした、

「単純な質問じゃが..
1億度もの温度が、
なんで必要なんじゃ?」

僕は、記憶している事を言った、

「2個の原子核をぶつけて、
くっつけてしまうのが核融合だ。

でも原子どうしをぶつけても、
原子核がぶつからない、
なぜかというと、

原子の中の、原子核の周りには、
電子が回っていて、原子核が
ぶつかるのを
じゃまするからだ。

そこで、1万度以上に温度を上げ、
原子から
電子をはぎとって、
原子核をはだかにする。

この状態を、
プラズマというのだが、

この状態では、
まだ核融合はおこらない、

原子核どうしを、
秒速1000キロメートルの速さで

走らせて、ぶつけないといけない。

そのためには、
温度をもっと上げて、

1億度にする必要が、
あるわけだ。」

笠原は、
まだ不明な事があるようだ、

「1億度じゃぁ、地球上に
入れる炉は、
ないじゃろう?
どうするんじゃ?」

これも端的に答えた、

「確かに、1億度に耐える
容器などない、

太陽は、無重力空間に浮かんで、
核融合を継続している。

地球上では、
磁場を炉にするんだ。

正確には、磁石の「かご」を使う。

プラズマの、中の原子核も
電子も、
磁石からでる、

磁力線に朝顔のツルのように
巻き付いて、からみつく、
性質を持っている。」

だから磁石を、ドーナッツの
形に並べると、
原子核も
電子もドーナッツにそって、

グルグル回って外に、
にげ出せない、

原子核や電子を、
にげ出さないように、

することを、

プラズマを閉じこめる
と、いうんだ。

プラズマを、うまく
閉じこめるために、

形のちがう磁石の「かご」が、
いくつか考えられているが、
日本が開発した

ヘリカル型のカゴが、
(ひねりをいれたドーナッツのかご)
世界一なんだ。」

それと、先ほど言ったが、
東北大学は、
常温核融合では、
世界TOPレベルだ。

笠原.. いままで、
話した意味が判るか?

解りやすく言うと、
遠く中東まで
油を買いに、
行く必要がなくなる。

シーレーン確保なんか、
どうでもよくなる。

日本は、エネルギー輸入国から、
一大エネルギー大国に、
なるという事だよ!

シェールガス革命と、
さわいでいるが、

そんな、レベルじゃ
ないんだよ!」

笠原が、驚いたように言った、

「そこまで、進んじょるとは、
知らんかった..」

笠原は、まだ疑問があるみたいだ..

「1つ質問があるんじゃが..
そんなら、今、な~んも 気にせんと
使っちょる、

プラスチックなど石油製品は、
どうなるんじゃ?」

石油を使わず、プラスチックを
作る方法は、
わかるので答えた、

「化学の授業でも習っただろう、
ニトロ セルロースだよ!

ニトロ セルロースは、
そこらへんの雑草から、

いくらでも作る事ができる。

今は、石油精製段階で
副産物(ゴミ)として、

プラスティックができる。

とても、安価なわけだ。

核融合が実現すれば、
核融合で発電を行い、

その電気を使って、
ニトロ セルロースを

精製すると言うわけだ!

日本は、馬鹿げた、
エネルギー争奪合戦を、

する必要がなくなると、
いうことだ!

東工大
理学部・物理学科、

九州大学
工学部・エネルギー科学科、

このあたりも、世界TOPレベルだ!」

笠原が、頭をかきながら言った、

「わしにゃ~ 難しすぎて、
ようわからんわ..

対馬おまえ、医者になるより、
物理学者に
なったほうが、
ええんと違うか?」

目の前にある、
”伊達正宗”公の銅像を
見て思い出した。

「話はかわるが.. 青葉城に、
あるのは、
この(伊達正宗)
公の銅像だけだ。

この銅像が、映画スター・ウォーズの
ダースベーダーの基に、
なったという説が、あるんだ..

江戸時代は、西の広島に、
ゆかりのある、
長州と東北は、
敵対関係だった..

笠原と対馬は、
敵どうし、だったということだ!」

戊辰戦争

1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、
維新政府軍と旧幕府側との間に、
16か月余にわたって戦われた内戦。

正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した、
政府軍は、4月江戸城を接収、

上野にこもる彰義隊はじめ
関東各地で、旧幕府主戦派を討滅、
奥羽越列藩同盟を結んで対抗する。

諸藩も会津戦争を頂点に
10月には帰順させた、翌年5月、

最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、
内戦は終結、

明治絶対主義国家確立への途が開かれた。

奥羽越列藩同盟

朝廷から、仙台、米沢をはじめとした
東北諸藩に、会津討伐の命が下った。

「なぜ会津が朝敵なのか?
先帝孝明天皇から最も厚い信頼を
受けていたのは、会津ではないか!

会津が賊軍など、
官軍が作った偽りにすぎない!

会津は 朝敵にあらず!
我らが会津を討つ道理はない!」

と、仙台、米沢が強く反発、
これに他の東北諸藩も賛同、

「ならば奥羽が1丸となって、
官軍と戦おうぞ!」

と、団結の意を示した。

会津戦争

秋田戦争、北越戦争と並行して、
白河口の戦いが行われ、
会津藩は敗北。

二本松の戦いでも破れ、新政府軍は、
慶応4年(1868年)8月23日、

朝に若松城下へ突入した。

若松城に、ひと月あまり籠城したが、
明治元年(1868年)11月6日、

遂に降伏、

<若松城の籠城者数>
5,235人(病人570人、奥女中64人、
婦女子575人を含む)だった。

箱館戦争

榎本武揚ら、旧幕府海軍を
主体とする勢力は、

奥羽越列藩同盟の敗色が、
濃くなった、

8月19日、江戸を脱出した。

8月26日、仙台藩内の
浦戸諸島・寒風沢島ほか

松島湾内に寄港し、

同盟軍及び、
大鳥圭介・土方歳三等、

旧幕府軍の残党勢力、
約2,500人を収容し、

10月12日に蝦夷地、
北海道へと向かった。

10月26日榎本は、
箱館五稜郭など、
拠点を占領し、
12月5日、北海道地域に
事実上の、

権力を成立させた。

榎本らは、北方の防衛開拓を
名目として、

朝廷の下で自らの、
蝦夷地支配の追認を
求める
嘆願書を朝廷に提出したが、

新政府は、
これを認めず派兵した。

新政府軍は、明治2年4月9日、
江差の北、乙部に上陸した。

6月27日、土方歳三は戦死し、
榎本武揚らは、
新政府軍に
降伏し戊辰戦争は終結した。

<こぼれ話>
昭和61年(1986年)に、
長州藩の城下町である

萩市が会津若松市に対して、

「もう120年も経ったので..」

と、会津戦争の和解と
友好都市締結を
申し入れたが、

会津若松市側は、

「まだ120年しか経っていない!」

と、これを拒絶した。

笠原に言った、

「長州藩の元祖は、広島だけど、
長州藩 = 萩市 のイメージが強いから、

会津若松市は、原爆で
打ちひしがれた、

広島市への、遺恨は、
ないと思う..」

笠原が重い口を開いた、

「戦だけでは、武士道があるかぎり、
遺恨は、残らんと思う..

勝って官軍!長州は、
会津に対し、おそらく、

非人道的な事を、したんじゃろぅて..」

『実るほど、
頭(こうべ)をたれる、稲穂かな、』

日本には、ええ、
言葉があるのぅ~

わしも、
気をつけんにゃぁ~ いけん!

『喉元過ぎれば、熱さを忘れる、』

人間は、ついつい、
日々の生活の中、

プライドや価値観の違いで、
過去学習した事を忘れてしまう..

体験の風化も、大きな問題じゃ!

戦争は、憎しみと悲しみしか、
のこらんと言うことじゃ!」

気がつくと、
14時半を、回っていた。

「笠原、急患センターへ戻ろう!」 

僕達は、急いで、
急患センターに向かった..

藤井さんとの再会

15時前に、「急患センター」に着いた。

ちょうど、藤井先生は、
救急オペを終わられ

手術服のまま、

コーヒーをすすられていた、
藤井先生が、
僕たちを見つけられた。

「対馬 君、すまん!
緊急オペが入ってしまって..」

飲んでいたコーヒーカップを
机の上におかれた、

「それにしても、対馬 君!
見違えたぞ!
防大医科で、
ずいぶん鍛えられたな~」

と、笑われた。

僕は、 あいかわらず
運動音痴で、
仲間に、
迷惑をかけている旨をつたえた、

「ハイ! 自分は運動音痴なので、
いつも、みんなに迷惑かけています!

こいつ、笠原は、
体力伴に運動神経もよく、

いつも、助けられています!」

藤井先生は、防大医科18期の卒業で、
自分達 34期生など、
対等に話すことは許されない。

それを察し藤井先生が、
おっしゃった。

「二人とも、そんな所に
突っ立っていないで、

椅子に腰かけてくれ!

ここは、防大医科の中ではないぞ!
そんなに硬くならないでくれ..」

そう言いながら、
藤井先生は、笑われた。

「所で笠原 君..
君の田舎は、どこかね?」

緊張しながら、笠原が答えた。

「自分は、広島県呉原市の、
出身であります!

祖父が、江田島海軍兵学校 出身で、
只今、防大医科で学んでおります!」

海軍兵学校と言う言葉を聞き、
藤井先生は、話し出した..

「お爺さんは、江田島のご出身ですか..
亡くなった祖父も、江田島の
出身だったのですよ..

確か.. 73期 だったとの、
記憶があります。」

笠原は、即答した。

「73期ですか!
祖父も73期であります!」

73期、藤井..

笠原は、何かに、
気がついたように質問した。

失礼ですが..

もしかして、お名前は、
藤井 順三さん?では、
ございませんか?」

藤井 先生は、
少し驚かれたように話された。

「いかにも、祖父は、藤井 順三です。
4年前 85歳で他界しました..

そう言えば、生前祖父は、
呉原に同期の親友が、いると言ってました。

確か名前は.. 笠原さん? でした..

もしかしてあの、笠原さんの、
お孫さんですか!!」

こんな偶然があるんだ、、
横で聞いていて、僕は鳥肌がたった。

笠原の、お爺さんが話した、
宮城県石巻原中学校 出身の
藤井 順三は、藤井先生の祖父だった!

藤井先生は、詳しく話し出した..

「僕の実家は、石巻原です。
祖父は、石巻原中学を卒業しました。

兄弟は、8人いたそうです..

祖父は貧乏農家の三男でしたが、
尋常小学校では、頭がよく
先生達がお金の工面をしてくれ、

石巻原中学に行ったと、
聞かされました。

祖父には、
大変可愛がってもらいました..

しかし、戦争の事は一言も
話してくれませんでした..

苦楽をともにした、
戦友を多くなくし、

申し訳ない気持ちや、
生き残った負い目で、

いっぱいだったんだと思います。

私も、防大医科の同期を、
多くなくしたと
想像するだけで、
祖父の気持ちは、痛いほどわかります。

話は変わりますが、

東北大震災では、石巻原が、
大変な事になっていました。

当時、防衛医科病院(緊急救命)に
勤務していました。

出動命令がおりたのですが..
陸路は寸断されて、
ドクターヘリで駆けつけました。

石高の隣にある、
(運動総合公園基地)に、

ひどい火傷をおった、
被災者がおられました。

それが、対馬 君の
お母さんでした..」

僕も、苦楽を共にしている
同期の仲間や、

笠原が戦死したと、
想像するだけでも、

間違いなく、自分が
生きのびている
申し訳なさで、

いっぱいになってしまう..

笠原も、藤井先生も、
見えない糸でつながっていた!

いったい、僕の約束とは、
何なのだろう、

自問自答する自分がいた..

『愛しき日々』

歌 : 堀内孝雄

作詞:小椋佳 作曲:堀内孝雄

リリース: 1986年

【第四章】 著: 脇屋 義直

【最終章】へ続く..

この小説はフィクションです。
実在の人物や団体などとは、
関係ありません。

新政府軍と旧幕府軍の戦いについては、
歴実に基づき執筆しました。

 

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