【blog小説】すべてあなたのために(All for you)

目次

前書き

気付いたら、63歳..

日本人の平均寿命、男性は、

81.64歳(残り、18.64年)

勤めている会社も、なかなか退職させて
もらえそうに、ありませんが..

残りの余生、どのように
過ごせばよいのか、考える時間が
多く、なりました。

贅沢を望まなければ、食べる事に
心配することもなく、住む家もある..

おかげさまで、衣食住に、
困る事は、ありません。

自由で、不自由のない
環境なハズなのに、なんだか
心に穴が空いたように、

寂しい気持ちに、なる事が、
多々あるように、なりました。

私は、何のために、

生きているんだろうか?

本当の幸せとは、何か?

心に空いた穴を埋めようと、

趣味、旅行、欲しい物を買う、
美味しいものを食べる..

このような事を行っても、
それは、そのときだけ..

穴を埋める事は、できません。
色々考え、行きついた答えが、

All for you.
(すべてあなたのために。)

だったのです。

エピローグ

ここは、瀬戸内海に面した田舎町、

歴史は古く、この小さな町の中に神社が
3つ、寺が2つ、酒蔵が3つもある。

今は、呉原市街地の方が遥に
開けているが、それは明治時代に
海軍の拠点となってからの事だ。

この時期、夕刻になると風も

ピタっと止まり
暑くてたまらん!

凪(なぎ)だ、冷蔵庫から出した
ラムネの瓶が水滴だらけだ。

ラムネの栓抜きは、
どこに、しまったっけ?

指で、いいや!
俺は、強制的に塞がっていた
ラムネ玉を、押し込んだ!

玉が瓶の中に、落ちて行くと同時に
ラムネが、ふきだした。

あわてて、瓶の口をくわえこんだ。

以前、戦艦大和の艦内には、
ラムネの製造機があり
飲み放題だったと、聞いたことがある。

俺は、団扇うちわを煽りながら
ラムネを一気飲みした。

しかし汗は、吹き出るばかりだ
くそ暑いと、感じるということは、

まだ俺も、ぼけていないようだ。
名前は、脇屋わきや 義直よしなお

古くから、続く旧家だそうだが
俺には、まったく関係ない。

中学生まで、授業のノートさえ
とった事もないし、自慢じゃ無いが、
とうぜん成績は、下の下、

学年最下位だ。

それと、些細な事で
喧嘩ばかりの、毎日だった。

歳が8つ離れた、弟がいるが
親戚の従妹含め皆、頭がよく
優秀な優等生ばかり..

俺は、親戚中から、

「一族一の、大バカ者!」

と、言われていた。

中学生に、なったとき、
「腐った根性を、叩き直してやる!」
と、強制的に
剣道部へ、入部させられた。

運動音痴ではないが、
特段に足とか、速いわけでもない
むしろ、遅い方だ..

体育のとき、蛙飛びで進み
速さ競走したことが、あったが、

俺に、かなうやつはいなく
驚いた事があった。

運動といったら、それくらいが
唯一の自慢だった。

剣道の強さは、足が速いとか、
殆ど関係ない、

瞬発力と動体視力、反射経、

それと、一足一刀の間合い(一歩
踏み込んだら攻撃でき、一歩引いたら
相手の攻撃をかわせる距離)を、

いかに、保つかが重要だ。

竹刀は、タオルを絞るように振り
左手が重要で、右手は、

軽く、添えるだけだ。

気を抜いて、竹刀を杖にして
突っ立っていると、

先生に、「切っ先をつけるな!」と
しかり飛ばされた。

足は、素足で、冬なんか体育館の
床の冷たさが、身にしみた。

ただ、少し動くと温かくなり、

気にならなくなるが、
硬い床に、長時間、正座さされるのは、
すごくこたえた。

初めて防具をつけたとき、俺は、
その重さと、思うように軽々しく
動けない事に驚いた。

ガキのころは、悪さをしては、
暗い蔵に、よく閉じ込められたものだ。

子供だった俺には、蔵の中に
4つの、恐ろしい物があった。

1つめは、

蔵の中にある井戸だ、今思えば大した
深さではない、

ガキの俺としては、暗く飲み込むような
深さに、恐怖を感じた。

みんなも、感じた事があると思うが
子供のころ駆け回った、神社の境内
公園など、大人になって見たら、

「あれ?こんなに、狭かったっけ?」

と、思ったことは、ないだろうか?

この前、井戸を覗いて、

「こんなに浅かったっけ?
なんで、こんな物を怖がって
いたんだろう?」

と、今となっては、
逆に懐かしかった。

2つめは、

本当か噓か、しらないが、
日本橋で、3人斬ったと
言われていた刀。

3つめは、

陣笠じんがさ(時代劇で侍が、よく被っている
木でできた帽子)黒い漆が塗ってあり
内側には、丁髷ちょんまげの跡が残っていて、

子供の俺としては、なぜか、
それが怖かった。

4つめは、

いちばん、恐ろしかった”甲冑”だ、

何といっても 、顔を守るために
つける、鬼の形相をしたお面、

頬当ほおあてだ。

包丁を持ち、

「悪い子供は、いねぇか~」..

秋田のなまはげは、
怖いに決まっている。

反則だ!

その頬当には、ウサギの毛で作られた
髭があり、
タンポポの綿毛を吹き飛ばし
遊ぶように、抜いては吹いて遊んでいて

大目玉を、くらったことを
今でも、忘れられない。

甲冑のほとんどの部分は、鉄の鎖網で
作られていて、あんな物を装着したら

クソ重く、よく身動きがとれたなぁ?

と、思う。

攻撃より、防御の方が、
大事だったの、だろうか?

俺には、興味のあるものもあった、
それは、銅で造られた鏡だ、

表面は、ツルツルの金属だが裏には、
鋳造された、模様があり

『天正元年 藤原光長 作』

と、書いてある。

天正と言ったら、時代は、
安土桃山時代であり、織田信長、
武田信玄.. など、

歴史的人物が、生きていた時代だ。

俺は、そんな古い時代この鏡に
どんな人の顔が、映っていたんだろう..

と、想像するだけで、

ワクワクした。

剣道の防具も、初めて装着したとき
身動きが取れず、重いと感じたが、

毎日つけて、練習していたら
まったく、気にならなく
なっていったことを、思い出だした。

俺だけかも、しれないが..

いちばん驚いたのは、
不思議なもので、相手の竹刀が
止まって見える、ことだった。

そのことを、皆に話したが、

「義直、そんなこと、
あるわけ、ないだろうが!」

と、笑われたが、俺には、
本当に、竹刀が止まって見えた。

交通事故など、経験した人には、
わかって、もらえるかも知れない、

事故にあった瞬間、「周りが、スロー
モーションに、見えるのと同じだ。」

と、言ったら
信じて、もらえるだろうか?

この世で、おこる自然現象に
興味があり、理科の実験のとき俺は、

「地球に存在している、全水の量は、
決まっていて、水蒸気になって、

雲ができ、雨が降り、水として
川に流れ、海で熱を加えられ蒸発し
又、雲になる..

その、繰り返しだと思う。」

と、先生に言ったら。

「お前、授業で詳しく、教えてもいない
のに、面白い事を言うなぁ..

じゃぁ、なぜ水は、地球に閉じ込められ
ていると思う?」

と、聞かれたので

「多分、重力に引っ張られて
いるからだと、思います。

だって水の重さ、

1Lは、1kgでしょ?

重さがあると言う事は、重力に
引っ張られている
からだと、思います。」

と、言ったら、

「その通りだな!
じゃぁ無重力の宇宙で、水の重さを
測るには、どうすれば良いと思う?」

と、質問されたので、

理科実験室に有った、天秤測りを
指さして、

「多分.. あれを使い、基準になる物と
比べたら、良いんじゃないかと
思います..」

と、自信なく言ったら..

「もしかして、お前、
天才かも知れんな!?」

と、褒められた
ことを、思い出した。

16歳の転機(伊豫仙人のお告げ)

伊豫仙人と、呼んでいるが、

16歳の春ごろから、人生の節目のとき
突然、爺さんの声が
聞こえるようになった。

人は、爺さんのことを
背後霊と呼ぶのかも
しれない。

初めて聞こえた、言葉は、

「人は、誰しも、この世の中に
生まれるとき、約束をして生まれる、

ただ、今の次元は、
必ず、約束を守らなくてもよい、

しかし!お前は石槌さんと
3つの約束して生まれた為、

人生の中で約束を、必ず守らなければ
いけない!」

忘れもしない、
荒井由実 ミスリムという、
アルバムの「12月の雨」

と、いう曲を聴きながら
うとうとして、いたときだ。

『12月の雨』

歌 : 荒井由実

作詞・作曲:荒井由実

『12月の雨』リリース: 1974年

「3つの、約束とは?」

と、聞いたけど、

「時がくれば、わかる!」

と、教えてもらえなかった。

考えてみたら、落ちこぼれの俺が、
努力することなく、無意識のうちに
大学まで進学し、一般企業に就職し、

無事、勤められていること事態、
すべて、伊豫仙人の
おかげだと、感謝している。

化学の授業で、全ての物質は、
分子が集まって、できていて、

お互いが、手を繋ぎ
形になっている、と習ったとき、

「ヤッパそうか!」と思った。

さらに、先生は言った..

「光の正体は、質量(重さ)を
もった粒で、常に振動していて
波のように進む、

それが、分子が結合した
物体にあたると、光の振動で
手を繋いでいた、者の中に、

手を放す、ヤツが出てくる、

その状態を
俺らが見たら、液体に見える。」

「さらに、光を当てたら
手を繋いだ、分子どもは、
バラバラになり、空間に飛んでいく、

俺らが見る、
その、状態こそが気体だ!

つまり、洗濯物が乾くわけだ。」

「その、気体を冷やし
分子が、振動するのを止める。

そうするとよ!
中に手を繋ぎだす、ヤツが出てくる..

水滴!

つまり、気体から液体に
変身する、わけだ!」

「さらに、冷やしていったら
どうなると思う?ヤツラは、
ガッチリ、手を繋ぎ合い、

個体に、なるわけだ。

冷凍庫で、水を冷やすと
氷に、なるだろ?

世の中は、なぁ..

すべて、この原理で成り立って
いるんだ!どうだ、面白いだろ!?」

電子レンジの中には、マグネトロンと
言う、マイクロ波を発信する、

ものが、仕掛けられている
そいつが水を、振動させるんだ..

さっき、話したように
分子を、振動させたら熱くなる!

方法は、どうであれ、
分子を、振動させればいい!

人間の体だって、分子が集まって
できている。

手を、こすりあわせたら
温かくなるだろ?

分子を、振動させるわけだ。
鉄の釘だって、そうだ、

こうして、ハンマーで殴る!

つまり、鉄の分子を
振動させるわけだ、

先生が釘を、連続的に
叩き始めた..

ほら、触って見ろ!
熱く、なっただろ?

そして、平たく伸びてきた、

液体に近づき、
柔らかく、なったわけだ!

どうだ!面白いだろ?

俺は、話を聞いて
妙に、納得した事を、
憶えている。

ヤッパ数学や理科は、いいよな..
ちゃんと、理由が有るんだから..

それに比べ、
とにかく、覚えなければ
いけない、国語の漢字や、

英語の単語は、なんだ!

理屈がない、物なんか
覚えられるか!と、

俺は、こじつけをした..

俺にとって、長い人生を振り返って
「良かったなぁ..」と思う時代は、

悪さばかりし、

「一族一の、大バカ者!」

と、言われ、

「お前なんか、行く学校はない!」

と、いわれていた、

落ちこぼれ、時代だ。

悪で、馬鹿で、落ちこぼれの俺に
勉強を教えてれ、不可能だと、

言われていた、俺を
高校に、進学させてくれたのは、

YUKIKO先生 と 珠美 に
ほかならない。

そんなわけで、
恩師 YUKIKO先生と 珠美 には、

今でも、頭があがらない。

俺の住んでいる、呉原市では、
市内全中学生の、運動部を集め、

中体連 と、なるものが
毎年、開催される。

どんな人間にも、何か取り得が
有るようで、何の努力もしなくても、

俺は、集まった
剣道部、新人戦の試合で、

1番に、なった。

これは、先天的なもので 、
足が速い とか、歌がうまい とか
絵がうまい などと、一緒だと思う。

俺が、人生の中で、
一番になったのは、

これと、小学生のとき
行われた、知能テストだけだった。

知能テストに、関しては、
義務教育内容とは、全く関係なく、

〇〇✕△✕とくれば、次は何?とか、
絵を見て、何を想像し、何がわかる?

とか..

なぞなぞのような、問題ばかりで
面白く、解けた記憶がある。

しかし、職員室に呼び出され、

「なぜ お前は、これができるのに
勉強を しないのか!」

と、こっぴどく叱られたことを
思いだしてしまう..

もちろん、
そのことを、家で話したら、

又、お袋に 叱られるので
内緒にしていたが、保護者面談で
発覚し、こっぴどく叱られた。

アインシュタイン
叔父さんの、話では、

光のスピード(3*10の8乗)m/s
光の速度に、到達すると
時間は“止まる”と言う事だから、

前に述べた、

「竹刀が、止まって見える!」は、

まったくの嘘では、
ないのかも知れない..

アインシュタインの特殊相対性理論ウラシマ効果

ウラシマ効果とは、物体が移動する
速さが高速で、あればあるほど
その系の、時間の流れが、

遅くなるという現象のことだ。

特殊相対性理論式では、

光の速さに対する
物体の速さの、比の2乗を
1から引いた、平方根の分だけ、

時間の進み方が、
遅くなると、されている。

わかりやすく、数字を当てはめてみると
光の速さの60%で
飛んでいる、ロケットの場合、

0.6の2乗は、0.36となるため
それを、1から引くと、

0.64となり、

平方根は、0.8となり、
ロケットが、1秒間に飛ぶ間に
ロケット内部では、0.8秒しか

進んで、いないことになる。

地球上とロケット内部で、同時に
生まれた子供が、いた場合、

地球上の子供が50歳になったとき
ロケット内部で生まれた子供は、
40歳ということだ。

難しく考えることはない
電卓で、計算してみればわかる。

  • 光の速さの60%のとき、

    ロケット内部では0.8秒
  • 光の速さの80%のとき、
    ロケット内部では0.6秒
  • 光の速さの90%のとき、
    ロケット内部では0.44秒
  • 光の速さの99%のとき、
    ロケット内部では0.14秒
  • 光の速さの100%のとき、
    ロケット内部では0秒

結果は、光の速さに近づくにつれ
ロケット内部の進む時間は、
遅くなってくる。

つまり、
光の速度に到達すると、時間は、

”止まる” と言う事だ。

宇宙のすべての物体は、分子の集まり
から形が形成されている。

その分子を細かく、突き詰めていくと
最後は、量子といって、

質量は、あるけど
物質とは、言えない、

常に、振動している
エネルギーの、粒になってしまう。

これが、密集してくると
我々の肉眼でも、確認できる
物体になる。

つまり、複雑に分子が密集し
形作られている、肉体であろうと、

分子単体の 水(H2O)であろうと
突き止めていったら、

同じ物体である
量子だと、いうことだ。

例えば、
ここに、水の入ったコップがあり
Aさんが、いたとする。

現時点では、
コップの中に、入っている水と
Aさんは、別のように見える。

次にAさんが
コップの水を、飲んだとする。

すると、コップの水と
Aさんの区別は、なくなってしまう。

全体的(宇宙的)に、みたら
コップの水であろうと、

Aさんであろうと、根源は同じ
量子であり、

増えも減りも、していない。
形が、変わっただけだ..

般若心経では、このことを 不生不滅、
(増えも減りもしない)と表現していて
量子が充満した空間の事を、

”空”と表現している。

もう一つ不生不滅には意味がある。
それは、

そもそも(生まれていないのだから
死ぬことはない!)と言うことだ。

般若心経には、

「我々は、一度も生まれた、ことも
ないのだから、死ぬこともない!」と
書いてある。

般若心経は、お経の形をしているが、
釈迦と弟子の会話を、描写した奥の深い
学術論文だと思っている。

一言で言えば、

我々は、ゲームの中で踊らさせている
キャラクターに過ぎず、

全てが 実態のない、無であり、
仮想現実だと、言うことで、

お釈迦さんは、
「その事に、気づけよ!」
と、言っている。

「その事に、気づけよ!」とは、
仏教界では、悟りを開くと言う事だ。

学生のころ、このような量子力学という
学問を学んだが、量子力学の事を、

語っていると、
どうしてもスピリチュアル(霊的)な
話になってしまう。

なぜなら量子力学は、
この世の構造を、解明しようという
学問だからだ。

傷害事件

試合が終わり、バスで帰ろうと
剣道部全員で、バス停に着いたとき、

体操部の女子が、他校の中学生に
からかわれていた。

左のほおから耳にかけ、あざがある
幼なじみの、”珠美たまみ” だった。

「おい!お前、
なんだ、その顔の痣は..」

「俺たちに、うつったら
どうして、くれるんだ?」

「化け物!お前は、
同じバスに、乗るんじゃねぇ!」

珠美は、
罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられ
耐えていた。

生まれたときからあった(単純性血管腫)

生まれたとき、最初は、
両親も顔の痣を見て、驚いたそうだが、

しばらくして、
お母さんの口から、でた言葉は、

「あなた、どこの家に生まれて
こようか、ず~っと探してたんだね..

私たちを選んでくれて、ありがとう。」

だったそうだ。

痣のある、単純性血管腫で
生まれた、我が娘に、

「 私たちに、とっては、
珠のような、赤ちゃん!」

だと言う事で、

そのとき ”珠美” という名前が
つけられたそうだ。

単純性血管腫は、
顔の毛細血管が、拡張しているため、

痣のように、血の色が皮膚に
浮き出て、見える症状で、

珠美の場合、顔にあり
顔が赤く、腫れたように見え
顔のパーツが、左右非対称に見える。

珠美にとって、単純性血管腫は、
生まれつきのもの..

生まれた時から
この顔で、生きてきたので、

自分にとって、これが普通.. だと
思っていたが、

幼少期、
不慮の事故で、お父さんが亡くなると、

珠美の周りから、友達がいなくなり
幼稚園のときの、俺の印象としては、

いつも一人ぼっちで、砂遊びをしていた
女の子という、印象しかない。

しかし、俺は、珠美の痣を
全く気にした事は、無かった。

からかうのを、止めるよう
3年生の主将が、注意したところ、

ヤツラ5人は、
主将に、つかみかかってきた。

俺は、気付いたら持っていた竹刀で
ヤツラ5人を殴り倒していた。

「珠美!大丈夫か?」

珠美は、うつむいたまま
悲しそうな目をし、風の音に
かきけされそうな、小さな声で言った。

「うん、大丈夫..
私、からかわれるの慣れているから..」

俺は、その言葉を聞いて、痣のせいで
珠美が、今までずっとつらい思いを
していた事に、

気づかされた。

思えば珠美は、痣を隠すように
髪を長くし、目立たないようにし、
学校では、いつも、

一人ぼっちで、本を読んでいた。

クラスの席替えや、行事のグループ
分けのときも、そうだった。

珠美は、みんなから避けられて
いるようで、どこのグループにも
入れてもらえず、最後まで決まらず、

先生が、むりやり決めていた..

無神経な 俺は、その事に
まったく、気づいていなかった。

話は、そこで終わらなかった..

俺は、暴力事件をおこしたと
警察沙汰にされ、呉原の教育委員会に
呼び出され、反省文を書かされた。

後で、わかったことだが、

俺に対する処分が、反省文だけで
すんだことは、YUKIKO先生が、

教育委員会と話をつけてくれた
おかげで、この程度の処分で、
すんだそうだ。

ちなみに YUKIKO先生は、

大学を卒業して、先生に
なったばかりの、22歳で、

部活では、体操部の顧問をし
教科は、国語を教えていた。

又、自分と同じ町内会で
家も近く、息をのむような
超美人で、

両親もよく、知った間柄だった。

親父との初めて行った映画

家の親父は、頭がよく男前で
温厚で運動もできたそうだが
俺は欠片かけらも、似たところがない。

俺が、唯一勝っていることは、
ハゲて、いないところだった。

超温厚な親父には、

生まれてから、
一度も叱られたことは、
なかった。

暴力事件を起こし俺は、

呉原の裁判所に
保護者と一緒に、呼び出された。

何かの書類に、
親父が署名していたのを
覚えている。

今思えば、それは、
略式起訴処理、
だったのかも知れない..

親父に、言われた言葉は、
今でも、ハッキリ覚えている。

そのときでさえ、親父は、
怒らなかった。

言われた言葉は、
「義直、短気!は、損気!」
だった。

帰り道、親父は、
初めて映画館に
連れて行ってくれた。

いつもの親父より、特に優しかった。

親父なりに
俺を、気づかっていたのだろう..

チケット売り場の隣に、売店があり
お菓子や飲み物..

色んなものが、売られていた。

「義直、なんでも、
好きな物、買ってもいいぞ!」

俺は、板チョコが赤箱に入った
ガーナチョコレートを選んだ。

「それだけでいいのか?
もっと買っていいぞ!」

「ほら!ここにある、
ポップコーンなんかどうだ?」

「だが、母さんと 義治よしはる
(8歳下の弟)には、ないしょだぞ!」

「映画の事は、
父さんと、義直との 秘密だ!」

そのとき 観たのは、呉原で公開された
ばかりの ”トラ・トラ・トラ” だった。

俺は、強烈に憶えているシーンが、
3つある、

1つめは
映画の冒頭で、山本五十六が連合艦隊
司令長官に、赴任するシーンで、

五十六 が、戦艦長門の甲板に上って
いき、礼式ノ部ラッパが高らかに響き、

号笛にて、
『海行かば』の演奏が開始され
甲板上の 幕僚たちが、

五十六 に、敬礼するシーンだ。

海 ゆ か ば
If I Go Far Away To The Sea

【歌詞】
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍

大君の 辺にこそ死なめ
顧みへりみはせじ

【意訳】
海に行ったならば
水に漬かった屍(死体)になり

山に行ったならば
草の生えた屍になって

天皇の お足元で死のう
後ろを振り返ることはしないぞ

If I go far away to the sea
I shall leave my bones there
If I go far away to the mountains
I shall leave my bones there
Without one regret
I shall die for His Majesty
And for my fatherland

2つめは
真珠湾には、米空母がおらず、

「眠れる巨人を、
起こしたようなものだ..」

と、むなしそうにつぶやく
山本五十六..

3つめは、
空母赤城の艦長が、水戸黄門だった。

そんな、ことで、
俺も、2年生に進級した。

YUKIKO先生、担任になる。

YUKIKO先生は、
初めて担任を、受け持つことになった。

クラス替えで俺は、YUKIKO先生の
クラスになり、珠美もいた。

新しいクラスになり、
みんなが、顔を合わせたとき
珠美が俺の、ところにやってきた。

悪友は、

「おいおい!義直!
珠美が、近づいてきたぞ..
どうするんだ?」

と、言っていたが、

俺は、まったく気にならなかった。

「おう!珠美 おはよう、
今日から同じ、
クラスだな!ヨロシクな!」

そう言うと 珠美は、
蚊の鳴くような声で、

「義直 君.. 私のために、
迷惑をかけてしまって、
ごめんなさい..

私ずっと、気になっていたの..」

と、超暗い顔をして言うので、

「俺って、馬鹿で日頃から悪さばかり
して、いつも怒られているじゃん?
気にすることないって!」

と、笑いながら言ったら、

珠美も少し、表情をくずし、

「こんど必ず、お礼するね..」
と、言って、
自分の席に、帰って行った。

珠美が、いなくなると悪友達に、

「おい!義直、
お前 、珠美と親しいのか?」

と、聞かれたが..

「珠美とは、幼稚園からの
おさななじみ、
ただ、それだけだよ!」と言って、

その場を、かわした。

しばらくすると、扉が開き
YUKIKO先生が、教室に入ってきた。

超美人は、オーラが違う!

先生の周りは、
違う空気で、光り輝いていた。

黒板に名前を書き、
自分は、この中学の卒業生であること
去年、広島大学の教育学部を卒業し、

始めて生徒を、受け持ったこと、

12月の雪の降る日に、生まれたので
YUKIKOという、名前になったこと、

一通りの自己紹介をしたあと、
出席番号をとり、50音で座っていた
席替えを始めた。

くじ引きか何かで、席を決めるのだと
思って、余裕をかませていた俺は、

最初に呼ばれ..

なんと、教団の真ん前の席に
強制的に、させられた。

何か、言おうとしていたら..

「珠美は、義直のとなりね!
勉強を教えて、あげてね!」

予想もしない攻撃に
開いた口が、ふさがらない..

畳みかけるように、慎吾 と シンコ は
後ろの席で、同じグループね!

慎吾とは、俺の悪友で山本やまもと 慎吾しんごと言う
シンコとは、これまた幼稚園からの
くさり縁で、山科やましな 信子のぶこと言う。

しばらくすると、間髪入れずに
じゃぁ、学級委員を決めなきゃ!

義直と珠美 学級委員をしてくれる?
みんなも良いわね!

鶴の一声だった.. と言うか、

トラ・トラ・トラ 奇襲攻撃だ!

数分前には、夢にも思ってもいなかった
事が、目の前で起こっている展開に、

俺は、整理ができず、
開いた口が完全に、
ふさがらなかった。

中学2年の春、こうして俺と
YUKIKO先生と、珠美 & 慎吾 と シンコ
を含めた、学校生活が始まった。

家に帰り、
そのことを話したら、お袋は、

「YUKIちゃんは、大胆なことを
するねぇ.. この大バカ者が、

学級委員 だなんて!」

と、言っていたが、

親父は、

「短気!は、損気!」
まぁ、頑張れ!

と、微笑みを うかべていた。

珠美は、
存在感を隠すように、一人ぼっちで
行動することが多かったが、

成績は常に、学年トップで
俺とは、天と地の差があった。

隣が席と言う事で、
珠美と、話すことも 多くなった。

話の中で、小学生のころの遠足で、

珠美に
『グリコのアーモンドキャラメル』
をやったらしい、かすかな記憶では、

珠美は皆から離れ、一人ぼっちで質素な
弁当を食べていた。

それと、決められた
範囲内で、買う事が
出来た、おやつを
持っていなかった、

みかねた 俺は、

「珠美どうした?おやつ持ってくるの
忘れたのか?」と聞くと

「うんん、私ひごろから、おやつ食べ
ないからいいの..」

と、悲しそうな目をして言うので、
持ってきていた、キャラメルを
やったのだと、確か思う。

珠美は、初めて、
男子から、物をもらったと喜んでいた。

又、虐められていた珠美を、俺が助け
たそうだ、その事は全く記憶がない..

進路決定

2年生になると、
進路を決める時期になる。

日ごろ一緒に遊びほうけ、悪さばかりして
いた 慎吾に「お前どうするんだ?」
と、聞いたら、

珠美と同じ、広原高校に行くと言う。

シンコは、どうするんだ?と聞いたら、
将来ファッション関係の仕事が
したいので、

呉原商業に、行くと言う..

「馬鹿は、俺だけじゃん!」

そのときになって、初めて、俺一人が
馬鹿だと言うことに気づく..

出席番号順に、YUKIKO先生と進路に
ついて、話をすることになった。

出席番号さいご、俺の順番が
やってきた、

「義直、進路について
どう考えているの?」

と、聞かれたので

「俺は馬鹿だし、悪だし、勉強も嫌い
だから、高校には進学しないというか..
行けないと言ったら、」

YUKIKO先生は、真剣な顔をして
「義直、ご両親もそれで良いと言って
るの?あなた脇屋の跡継ぎでしょ?

言っておくけど、あなたは思うほど
馬鹿じゃない!大学まで進学しなさい!

各教科の成績は、見せてもらった、

数学 と 理科 は、

人並みに、できるじゃない?」

「問題は、国語、英語、社会ね!
わかった、私が国語は教えてあげる。

社会 と 英語 は、
珠美に、頼んでみるわ!

問題は、あなた自身のやる気ね!
時間は、ないけどやる気はある!?」

まくしたてられる圧力に負け、
「頑張ってみます..」と
言ってしまった..

次の日、YUKIKO先生に
職員室に、呼ばれた。

「珠美、喜んで手伝うと
言っていたわよ!

あなたが、
他校の生徒に、からかわれていた
珠美を助けてくれたこと、

一生わすれないってよ!」

先生は、嬉しそうに語っていたが、

次の瞬間、

「時間が無いんだから、
今年の夏休みはないよ!明日9:00 に
私の家にきなさい!以上!」

そう言って、開いていた出席簿を
バタン!と閉じた。

これまで、超美人だと思っていた
YUKIKO先生が、鬼に見えた..

夏休みの勉強

9:00 と言われたが、家も近く
余裕をかまし、先生の家には、

9:10 に着いた。

「ピンポ~ン♪」

恐る恐る
玄関のインターホンを押した。

「ハ~イ!」YUKIKO先生の声だった。

次に聞こえた声は、

「遅いじゃない!
トットト入って来なさい!」だった。

玄関の扉を、恐る恐る開けたら..

赤いジャージ姿の YUKIKO先生が、
仁王立ちしていた。

「9:00って言ったわよね!?珠美
早く来て待っているわよ!勉強は
学校でするけど、

海軍方式で、10分前に集合ね!」

と、言うなり、

2階の、
YUKIKO先生の部屋に、案内された。

部屋には、どでかいピアノがあった
珠美は、長テーブルの端に座って
ノートに何か書いていた。

俺を見るなり、うつむいたまま、

「義直 君 おはよう..」と
蚊の鳴くような、小さな声で言った。

「珠美、俺のために
せっかくの夏休み、悪いな..」

珠美は、顔を上げないまま言った、

「うんん.. 私、
夏休みの予定なんか、ないし..」

そうこう話していたら、YUKIKO先生が

先ほど、珠美と作ったという
勉強の予定表を持ってきた。

月・水・金 9:00~9:50 国語
10:00~10:50 英語、11:00~11:50 社会
家に帰って昼食を取ったら、自己学習、

火・木・土 は、参考書によるテスト、

学習期間は、7月21日~8月31日まで。
8月13日~8月16日は、盆休み..

珠美、悪いけど、月・水・金の
10:00~11:50は、ヨロシクね!

「そんなぁ.. 俺は、
日曜日しか休みが、
無いじゃん!?」

するとYUKIKO先生は、間髪入れず、

「仕方がないじゃないの!
小学校から、今まで、
勉強さぼったんだから!

とにかく時間がないんだから、
男なら文句は、言わない!以上!」

苦しいこともあるだろう

You may feel painful,

言いたいこともあるだろう

You may want to say something,

不満なこともあるだろう

You may have dissatisfaction,

腹の立つこともあるだろう

You might get angry,

泣きたいこともあるだろう

You might want to cry,

これらをじっとこらえてゆくのが、
男の修行である.

Enduring these,Are the man’s training

日本帝国海軍 司令長官
山本 五十

超美人のYUKIKO先生が、
完全に、鬼に見えた!!

YUKIKO先生の教え方は、
変わっていた。

国語に関しては、小学生の問題から
させられた、流石に小学生の問題は
直ぐに、できるようになった。

文法を学んだが、動詞とは、
最後が で終わる言葉だと言う
ことを、初めて知った。

こんな感じだ、

投げる()、見る()、
走る()、歩く()、
行く()、泣く()、
笑う()、起きる()、
寝る()、叫ぶ()..

述語は で終わる言葉、

寒い()、熱い()、
痛い()、辛い()、
甘い()、冷たい()、
悲しい()、嬉しい()、
高い()、低い() ..

「なんだ!簡単じゃん!でも
YUKIKO先生、こんな事が
わかって、何の役に立つの?」

俺が、そう質問すると、
YUKIKO先生は、真っすぐ俺を見て、
こう答えてくれた。

「義直に好きな子がいて
彼女にラブレターを出したいとする。

100%自分の気持ち、
彼女に伝えるには、彼女が感動する
文章を書かないと、いけないよね?

その武器を
今、学んでいるんだよ!以上、」

確かに、そうだった。

国語が苦手な俺が、今こうして長文が
書けるのも、YUKIKO先生のおかげだ!

しかし漢字は、とにかく覚えなければ
いけなく、苦労した..

先生は、こうも言った、

表現も含め、文章は芸術作品で
歌詞だってそうだ、

先生は、学生時代ニューフォークと
呼ばれていた”トワ・エ・モア”の
曲の文章を、かみしめながら聴き込ん
だそうだ、

『虹と雪のバラード』と言う曲が有るが
スキージャンプで金・銀・銅を独占した

『日の丸飛行隊』でさえ、

少しの間、話題になったが、
じき人々の記憶から
消えて行った。

しかし、文章を持った詞は、
人々に歌い継がれていく。

それは、文章事態が記録として残る
芸術作品であり、いつでも人を感動させ

記憶を蘇させる、力があるからで、

理由はどうあれ、とにかく詞や本を読み
続けるよう、強く釘を刺された。

「英語と違い、
日本語には、歴史的重みがあり、
文章や言葉には、人を勇気づける力が
あるの!

義直は、いまそれを勉強しているの..

本当は、テストの点なんか、まったく
意味がないの、学習した事を使えてこそ
意味があるんだよ。」

「中学では、習わないけど、
大和言葉と言って、

『傘かしげ』

と、言う言葉があります。

これは、雨の日に人と人が、
ようやくすれ違える、ような
狭い路地を歩いていて、

向こうから同じように人が来た時に
すれ違いざまにお互いの傘を外側に
傾け、申し合わせたかのように、

ぶつからずに
すれ違う所作のことです。

自分が多少濡れても
相手に雫が、かからない様にする配慮
日本語独特な、言葉です。」

バカな俺でも、その話を聞いて少しは
わかったような、気になった..

社会の歴史に関しては、
歴史漫画本を渡された。

珠美が、教科書に書いてある事と
比べながら丁寧に教えてくれた、

珠美は、
周りから冷たくされる経験から
相手の気持ちを察する能力が高く
教え方が上手い!

問題は公民だ、漢字と同じで
社会ルールを、とにかく覚えないと
いけない。

国民の三大義務、

『教育の義務』
『勤労の義務』
『納税の義務』

憶えられない..

10分も経たないうちに、

教育の義務、
勤労の義務、

もう一つは、なんだったけ..

こんな感じだ、、

英語に関しては、
簡単な英語で書かれた、童話を渡され
珠美がわかりやすく読み方等、優しく
教えてくれた。

書くことが最大の壁で、
とにかくスペルが、書けない..

漢字と同じだ!

こんな感じで、長いと思った、

YUKIKO先生と、珠美との夏休みも、
終わろうとしている..

外では、

つくつくほうしが 何があっても
最後まで、鳴き終えなければ!

と、鳴いていた..

映画 トラ・トラ・トラ で、

ハワイ米海軍基地に、停泊していた
軍艦が、米国国旗掲揚中、

日本軍の奇襲を受け、演奏の速さが
超早くなり、最後は、水兵が楽器を
投げだし、逃げる姿と同じだ!

勉強に使った歴史漫画本や、英語で
書かれた、童話本を購入するのに

必要なお金は、親父が
工面したとの事だった。

そのことを、親父に話すと

「義直、短気!は、損気!」

と、笑っていた。

あのくそ暑かった夏も終わり、
最近めっきり涼しくなってきた。

10月になると楽しみにしていた
秋祭りがやってくる、

いつものように珠美は、
目立たないように、一人ぼっちで、

本を読んでいた。

俺は、珠美から教わった英語で、

サイレント珠美と
あだ名をつけてやった。

珠美との秋祭り

金木犀の香りがしてくると、
楽しい秋祭りがやってくる!

「おい!珠美!10月の祭は、
どうするんだ?誰かと行く予定に、
なっているのかなぁ..

もしだよ、もし都合がよかったら
俺と祭りに、行かないか?」

なかなか、口を開かない 珠美を見て..

「そっか!人が多い祭りは嫌いだよな..
それと馬鹿で、悪の俺なんかとでは、

無理か!?

余計なことを、言っちまったなぁ..
忘れてくれ!気にしないでくれよな!」

と、笑って見せたが、

内心では、口を開かない、珠美を見て
結構、ショックだった。

相変わらず、珠美は、
沈黙していた。

しばらくし、珠美が口を開いた..

「私なんかといたら、義直 君に迷惑が
かかるよ.. 祭りに行ったのは、
幼稚園のときかなぁ..

祭りは、私でもすごく楽しみ、」

珠美は、小さな声で、
話し始めた。

「幼稚園のときね、お母さんに
祭りに、連れて行ってもらったの、

わたしんち母子家庭で、貧しいんだけど
少ないお金の中から、母さんが真っ赤な
りんご飴を、買ってくれたの、

そのときの、
りんご飴、おいしかったなぁ..」

考えてみたら、珠美は、毎日、
俺の家の前を歩いて、帰っているが、

家が、どこなのか知らない..

仲間の話では、古いアパートに
親子二人で、暮らしているらしい..

そういえば、
隣町の、山手屋で、

『りんご飴のキーホルダー』

売っていたのを、思い出した。

「去年の事だからなぁ..
まだ、売ってるかなぁ..」

俺は、チャリンコにまたがり、
立こぎダッシュで、
隣町にある、山手屋に向かった、

駐輪場にチャリを止め、
2階のファッション・アクセサリー
コーナーへ、のぼるエスカレーターを
駆け上がった。

「確か去年、りんご飴のキーホルダー..
ここで、見かけたんだよな..」

そう言いながら、探していたら、

「お客さん、探している
りんご飴のキーホルダーって
これでしょうか?」と、言いながら、

店員さんが奥の倉庫から
持ってきてくれた。

「ヨッシャぁ!
りんご飴のキーホルダー!GET!」

祭りの日、
俺は、強引に、珠美をさそった。

「珠美、俺と祭りに、行ってくれ!

いや、行くんだ!

夏休みの お礼だ、

俺に、りんご飴を買わせてくれ!」

「でも.. 私なんかといると
義直 君に、迷惑が、かかるし..」

と、言う珠美の腕をつかまえ、

学生服のまま、
祭りに強引に、引っ張っていった。

祭りは、大勢の人でごった返していた。

確かに俺たちを
見る人の、視線は感じたが、

そんなことは、
全然気にならなかった。

祭りの太鼓や笛の音、高く掲げられた幟
火薬ピストルの火薬を破裂させた匂い、

醤油が焦げた香り、金魚すくい、風船釣
綿飴、焼き栗の屋台、輪投げ、いが餅屋

心地よい
ひんやりとした空気..

俺は、りんご飴を売っている
屋台を見つけた。

「こっちだ、珠美!

どれも、美味そうだなぁ..

どれにする!?」

俺は、数ある中から
一番デカイりんご飴を選び、

店の親父に「これ下さい!」と渡した。

「ハイ 200円になります!」

と、言いながら親父は、

「兄ちゃんも、中々やるじゃないか!
彼女かい!?」

と、笑いながら
ナイロン袋に、詰めて渡してくれた。

なぜか、その言葉が妙に嬉しかった。

照れくさそうに、
珠美に、りんご飴を渡した。

「小学校の遠足でもらった、
アーモンドキャラメル以来だね..」

と、大事そうに抱え込んだ。

「ちょっと待って!?
もう一つ、プレゼントがあるんだ!」

俺は、そう言うと、ポケットに
しまっておいた、

りんご飴のキーホルダーを
珠美に渡した。

「珠美!ハイこれ!」

「え~ぇ!これすごく可愛い!」
珠美が、嬉しそうに笑った。

俺は、「おぅ!」と言うのが
やっとだった。

こんな、珠美の笑顔を見たのは、
いつだっただろうか..

理由は、わからないが
すごく温かい、気持ちになった。

2学期中間テスト

祭りの後は、中間テストか?
俺は憂鬱ゆうつな気持ちで気が晴れなかった。

珠美が教室に入ってきた。
隣の席に座った珠美は、

「義直 君 15日からの、
テスト、夏休勉強した結果が、
出るといいね..」と、

声をかけてきたので、
「なんとか、なるんじゃない?」と
ごまかして、おいた。

実は、夏休みが終わった9月から
いつものように、ろくに勉強など
していない..

中間テスト、国語・英語・社会、
これまで、15点以上取った
ことのない俺が、

なんと、平均50点も点が取れた、
俺としたら奇跡だ!

珠美は、やはり学年トップだった。

それでも 天と地の差が、天と下の上
くらいの差に、なった事が素直に
嬉しかった。

さっそく、YUKIKO先生に
教員室へ呼び出された。

「国・英・社の平均が50点か..
義直、あんた勉強、さぼったね!?

もっと行けると、
思ったんだけどなぁ..
でも良くやった!

12月の期末テストは、
目標60点台だよ!以上!」

もう超美人という言葉は止めて、
鬼と呼ぶことにしよう..

YUKIKO先生が、机に積まれている
テストの採点をしながら言った。

「あっ!それから 義直、 祭り..」

俺は、とぼけて、
「祭り?」と言い返したが、

先生は、俺の方を見ることなく、

「祭り、珠美を連れて行ってくれて
有り難うね!

りんご飴、買って、キーホルダーも
あげたんだって?

なかなか、良いとこあるじゃん!」

と言いながら、嬉しそうに笑っていた。

その言葉を耳にして、照れ臭かったが
素直に嬉しかった。

それと勉強というものは、
やれば結果が出る事を知った。

できないからやるんじゃなく、
好きだから、やるものなんだと思った。

国語は、本を読みまくり、
社会の歴史は、
歴史漫画を読みまくり..

地理に関しては、旅行会社で入手した
パンフレットを読みまくった。

英語は、イソップ物語の英語で
書かれた童話が、だいぶ読めるように
なっていった..

しかし、
漢字・英語のスペル・社会の公民は、
散々だった..

そうこうしてるうちに、
12月の期末テストの時期がやってきた。

2学期期末テスト

おっ!予想したところが、
出てるじゃん!

しかし、いつものように
漢字・英語のスペル・公民は、
ひどいものだった、

戻された 国語・英語・社会、
答案用紙の
平均点を計算した。

62点だ!よっしゃ!
これで、鬼のYUKIKO先生に
怒られずにすむぞ!!

さっそくYUKIKO先生に、職員室へ
呼び出された。

俺は、平均点が
62点だったことに、余裕をかませ、

ダッシュで職員室に行った。

「義直 今回は、褒めてあげる!
勝負は、3年生になってからだよ!

この調子で、頑張るんだよ!」

高校に進学できないと、言われて続けた
この俺が、現時点で普通に行ける学校が
あるまでになってた。

学級委員として 俺と珠美は、運動会の
準備の手伝や、

ちょっとした、行事の手伝いも
させられた。

俺の中学校では、
3年生になると 進学などなにかと忙しく
なる為、クラス替えや担任替えもない、

ただ 修学旅行が5月にあり、
それが中学3年、
最大のイベントだった。

修学旅行の準備係

俺は、恐る恐る、YUKIKO先生に
話を持ち掛けた、

「先生に、お願いが有るんだけど..」

先生は、いつものように
テストの採点をしながら、

俺の方を、見ることなく言った。

「義直 なに、御願いって?
男ならハッキリ言う!」

「3年になったら進学とか..
色々あるじゃないですか?

学級委員は 誰かに、かわってもらい
たいんだけど.. と言うか..

替えて下さい!御願いします。」

YUKIKO先生は、手を休めず即答した。

「よしわかった!
但し 交換条件がある、
3年1学期の中間テストは、

目標平均70点かなぁ..

それと、慎吾、シンコ、珠美、義直

4人で、
修学旅行の、準備係やってくれる?
それが、約束できるのなら、

考えてあげる..」

「それと義直 わかってる?

最終目標は、12月の期末テスト、

平均 80点だからね!以上!」

YUKIKO先生が、完全に鬼に見えた。

「ねぇ珠美..
義直の野郎、最近やけに
テストの点が、良いじゃないの?

高校入試も近いし、私にも勉強、
おしえてよ!」と、言いながら

シンコが、俺と 珠美の間に
割り込んできた。

手に挟んだペンを、
器用にクルクル回しながら

シンコが言った。

「珠美、私.. 呉原商業に
行きたいんだけど、理科と数学
超苦手なんだよなぁ..

特に数学なんか、数字を見るだけで
寒気が、するんだよね、」

「理科と数学なら、義直 君だって 
得意だよ.. 義直 君に教えてもらったら
どおかなぁ..」

そう、珠美が言うと、

「義直!?
あいつは、絶対に、ムリムリ..」

「シンコ悪いんだけど 私、義直 君に
英語・社会を教えるので手いっぱい..

それと YUKIKO先生とも、義直 君を
教えること、約束したし..」

「そうだ!シンコ、慎吾 君に
理科と数学、教えてもらったらいいよ..
彼ああ見えて、結構、頭いいし..」

シンコは、指を鳴らした、

「そうか!珠美、その手があったか!
早速、慎吾に 話してみるよ!」

シンコは、いつもの調子で
上から目線で、話しかけた、

「慎吾、私に理科と算数、
ちゃんと、呉原商業に、
受かるよう教えてよ!」

いつもの調子で、
シンコが慎吾に言ったら。

「お前に?まさか?俺が..」

シンコが、食い下がる、

「そんなに 嫌がる事、ないじゃん!」

そのような、やりとりが、
しばらく続いた..

最後は、

「わかったよ!但し、俺の話を
ちゃんと聞けよ!」

と、迷惑そうに言っていたが、
慎吾の口が、笑っていたのを

俺は、見逃さなかった。

もしかしたら、慎吾のヤツ
口には出さないが、シンコに、

気が有るのかもしれない..

そんなこんなで、俺たち4人組、
3年の1学期が始まった。

修学旅行の準備

今年の修学旅行は、
5月20日(土)からに決まった。

各クラス
修学旅行の準備係 2人づつが集まり、

準備して、おかければいけない物の
確認と、観光バスの車内で、

どのような、イベントを行うかの
話し合いが行われた。

我がクラスの代表として
俺と珠美が、出席した。

さすが珠美だ!

書き出された、準備しなくては、
いけないものを、細かくノートに
整理し記録していた。

俺と言えば
ただそれを、見ていただけかな..

その内容を持ち帰ったら、絵が得意な
シンコが、イラスト入りの表に、

まとめた。

俺のクラスは、これでバッチリだ!
と、余裕をかませていたら、

シンコにきつい、一撃を

おみまいされた。

「義直!あんた、金魚のフンのように
珠美に、ついて行っただけじゃん!

バスの車中でのイベント、

何にするか、ちゃんと考えてね!」

「申しわけない..
おっしゃる通りです。シンコ殿..」

弁解の余地、0 だった、

話し合った結果、アンケートをとり
我がクラスの、歌本を作ろう!

と、話がまとまり、好きな歌10曲が
書けるよう、慎吾が、ガリ版で人数分の
アンケート用紙を作成した。

アンケートを集めてみたら 、

野口五郎(青いリンゴ、オレンジの雨)西城秀樹(チャンスは一度、情熱の嵐)郷ひろみ(男の子女の子、裸のビーナス)、天地真理(水色の恋、二人の日曜日)・南沙織(17才、哀愁のメロディー、ともだち)・麻丘めぐみ(芽生え、私の彼は左きき、女の子だもん)・小柳ルミ子(瀬戸の花嫁、わたしの城下町)・あべ静江(水色の手紙、コーヒーショップで)桜田淳子(私の青い鳥、天使の誘惑)・山口百恵(としごろ、青い果実)森昌子(先生、中学3年生)・尾崎紀世彦(また逢う日まで、さよならをもう一度)浅田美代子(赤い風船)・ビリーバンバン(白いブランコ、さよならをするために)・吉田拓郎(結婚しようよ).. 歌番組の常連がリクエストされた。それとYUKIKO大先生が好きな トワ・エ・モワ(虹と雪のバラード、ある日突然、空よ)..

後は、 堺正章の曲!最近売れている ・湯原昌幸(雨のバラード)・三善英史(雨)も加えておこう。

俺の大好きな曲、森田健作の(さらば涙と言おう、友達よ泣くんじゃない)山中ひとみ(薔薇物語)

ミミ萩原(おしゃれな土曜日)は、絶対に載せるよう念を押した。

「しかしだよ、義直!単純に歌本を
つくるだけじゃ、芸がないじゃん?

あんた何か、いい知恵はないの!?
少しはアイデア、出しなさいよ!」

シンコが、まくしたててきた..

修学旅行でギター伴奏

「そうだ!慎吾、
音楽室に確か、ギターがあったよな?
それを確保してくれ!」

慎吾も音楽室で確か、
クラッシックギターを、見た気がした。

「ギター?義直 そんなものどうする?
誰が弾く..?」

義直が、得意げな顔をして言った、

「俺が弾く!ギター伴奏つきで
みんなで、バスの中で歌ったら
楽しいだろ?」

シンコ が、コイツ何を言ってる?
という顔をして言った。

「そりゃそうだけど義直 、あんた
ギターなんか、弾けたっけ?」

俺は、いきなり弾いて
ビックリさせて、やろうと思った。

「弾けるか弾けないか
みんなの前で、披露してやる!
明日放課後、音楽室に集合な!」

翌日の放課後、皆の前で堺正章の
「さらば恋人」を、弾き語ってやった。

『 さらば恋人 』

歌:堺正章

作詞:北山修 作曲:筒美京平

『 さらば恋人 』
リリース: 1971年

さよならと 書いた手紙
テーブルの上に置いたよ
あなたの眠る顔みて
黙って外へ 飛びだした

いつも幸せすぎたのに
気づかない二人だった

冷たい風にふかれて
夜明け町を一人行く
悪いのは僕のほうさ
君じゃない

ゆれてる汽車の窓から
小さく家が見えたとき
思わず胸にさけんだ
必ず帰って来るよと

いつも幸せすぎたのに
気づかない二人だった

ふるさとへ帰る地図は
涙の海に捨てていこう
悪いのは僕のほうさ
君じゃない

いつも幸せすぎたのに
気づかない二人だった

ふるさとへ帰る地図は
涙の海に捨てて行こう
悪いのは僕のほうさ
君じゃない

いつもは、冗談の固まりのような
シンコが、真剣に聴いていた。

弾き終わると口を開いた。

「義直すごいよ!あんた!
いつのまにギター、弾けるように
なったの!?」

シンコは、目を丸くした。

「実は俺、剣道をやっているだろ?
剣道は左手を使うわけよ、それで
難しいと言われている F コード

指一本で、全ての弦を押さえる必要が
あるんだけど、

知らないうちに、握力が鍛えられて
いて、一発で音が出たのよ!」

「それで、嬉しくなって 親父に安い
ギター 買ってもらったんだ。」

「平凡とか明星の付録、歌本が
あるじゃん!?それを見ながら

書いてあるコードを押さえて、
弾く練習をしていたら、

自然と弾けるように、なったわけ!」

「譜面とか音楽の事は、わからないよ..
一番最初に、弾けるようになったのは、
麻丘めぐみ 芽生えかなぁ..」

『芽生え』

歌:麻丘めぐみ

作詞:千家和也 作曲:筒美京平

『 芽生え 』 リリース:1972年

もしもあの日あなたに逢わなければ
この私はどんな女の子に
なっていたでしょう

足に豆をこさえて街から街
行くあてもないのに
泪で歩いていたでしょう

悪い遊び憶えていけない子と..
人に呼ばれて泣いたでしょう

今も想い出すたび胸が痛む..
もうあなたのそばを離れないわ
離れないわ 離れないわ

もしもあの日あなたに逢わなければ
この私はどんな女の子に
なっていたでしょう

白い薔薇の匂いも鳥の声も
まだ気付く事なく
ひっそり暮していたでしょう

誰か人に心を盗みとられ..
神の裁きを受けたでしょう

今も想い出すたび恐くなるわ..
もうあなたのそばを離れないわ
離れないわ 離れないわ

こりゃいける!
みんなも、YUKIKO先生も絶対驚くぞ!
4人超やる気モードになった..

珠美のアパートへ集合

珠美んちは、パートで お母さんは、
昼間いないと言う..

それなら、みんなで集まったって
迷惑に、ならないじゃん!

急遽きゅうきょ、平凡と明星の歌本をかき集め
珠美の家に、集合する話になった。

重苦しい表情を、している珠美を見て
シンコが言った。

「大丈夫だよ、珠美、
私たち、騒がないように
気負つけるから..」

それでも、珠美の表情は硬かったが、

珠美が、どんなところに
住んでいるのだろうと、

俺は、興味津々だった。

「確か、珠美が住んでいるアパートは
この丘を越えた、ところだよ?」

シンコは、抱えていた歌本を
慎吾に持たせ、住所を確認した。

丘を越え少し行ったところに
2階建ての古い、アパートがあった。

屋根は赤色だったようだが、
くすんで、
何色か、わからない..

シンコは、住所を再度確認しながら..

「確かここの2階、202号室の
はずだよ..?」

俺たちは、これまた錆びついた
鉄階段をのぼり、202号室を探した。

シンコが、それらしき部屋を見つけた。

「多分.. ここだと思うんだけど..」

表札があった。村上 和江・珠美
しかし静かだ.. いるのかなぁ?

見ると玄関扉の横に
小さな呼び鈴の、押しボタンがあった。

「義直!あんた押してみろよ!」

シンコが、そう言うので、
まるで、腫れ物に触るように
押してみた。

ガチャ!
しばらくすると、

扉が開く音がした。

ホットパンツで T、シャツ姿の
珠美が立っていた。

俺は、学生服以外の 珠美を
初めてみた。

いつもと違う珠美の姿に、新鮮さを
憶えたし、別人に見えた。

「おぉぅ.. 珠美.. この下に
二重焼を売っている、店があるじゃん、

みんなで、食いながら
作戦をねろうかな?

と思って、買ってきた。」

珠美は、なぜか目に
いっぱい涙を、ためていた。

「二重焼、嫌いだったかなぁ..?

それなら、

悪いこと、しちまったなぁ..」

俺がそう言うと、珠美は、
涙を流しながら、俺たちに言った。

「二重焼は、大好き..
私んちに、クラスメイトが来るの
初めてだから..

それに、おんぼろアパートだし..
みんなに、悪くて..」

「シンコ、慎吾!俺たち、ただの
クラスメイトじゃないよなぁ..
友達だよな!?」

そう言うと、シンコが言った。

「あたりまえじゃん!
珠美 、水臭いこと言わないでよ!

それと あたしたち、おんぼろ
アパートだなんて、全然気にして
いないし!

それより、珠美!
そんなところに、突っ立っていないで
いいかげん、私たちを、

中に入れなさいよ!

慎吾も、歌本の重さで、
手が、ちぎれそうだってよ!?」

絶対に慎吾は、
シンコの尻に、敷かれる..

「義直!あんた、なんか言った!?」

「なにも言っていませんよ~」
と、小さな声をだしながら、

珠美の、アパートに上がった。

玄関をあがると、すぐに小さな
キッチンとトイレがあり、

そこをぬけると、6畳の和室、
その奥にふすまで仕切られた

8畳の和室があった。

風呂は、ないそうで、
下にある銭湯に、通っているとの
事だった。

下の銭湯と、いっても
歩いて、10分はかかる、

寒い冬なんか湯冷めを
するんじゃないかと
心配になった。

トイレは、水洗だったが、
和式便器に、かぶせたら洋式になる、

ななんちゃって、洋式トイレだった。

孤独で、いつもおとなしく、

音を立てないノラ猫が、
腹を見せたように思った。

俺たちに、珠美が、
腹を割ってくれたことが
嬉しかった。

8畳の和室に、小さな机があり
珠美は、そこで いつも
勉強している、ようだった。

鴨居には、ハンガーに掛けた、
珠美の制服が、吊るされていた。

俺は、机の上にあった

『りんご飴のキーホルダー』

を、見逃がさなかった。

「珠美 もしかしてこれ..

あのときの
りんご飴のキーホルダーか..?」

「うん、私の宝物だから..」

その話を、横で聞いていた慎吾が、

「りんご飴が、どうしたって?」と
俺に、きいてきたので、

「りんご飴のキーホルダーが
珍しかっただけだよ!」

「そんなことより、修学旅行の歌本
どんな曲をのせるか、早く決めようぜ!

二重焼も、早く食わないと
冷めちまうしな!」と、

話を、はぐらかせた。

アンケートの内容を書きだし、

載せる曲を自分達の
好みの曲順にしてみた。

しっくりいかない..

試行錯誤しているなか、
珠美が、小さな声で言った。

「歌手の50音順が、良いんじゃ
ないかな..?曲が見つけやすいし..」

それを横で聞いていた、
シンコが、指を鳴らした。

「さすが、珠美だね!
それだよ!それ!」

載せる順は
シンコの鶴の一声で、決まった。

「それじゃぁ、俺からの注文!」

二重焼に、かぶりつきながら
シンコが、めんどくさそうに言った。

「義直!なに!注文って!?」

「ギターを弾くのに、ほら!
ここに書いてある、C#7とかB♭とか
押さえるのが難しいんだよ、

で、カポタストと言うギターの
フレットを、はさむ洗濯ばさみ
みたいな、道具が有るんだけど、

それを使うと、押さえるコードが、
簡単になるのよ」

「そんな事で、ここに変換表が、
あるんだけど、手分けして変換して
もらいたいわけ..」

めんどくさそうな 顔をして
シンコが言った。

「それで私たち、どうすれば
良いんだよ!?珠美 わかる?」

日頃、勉強している珠美も
ギターの事に関しては、わからない
ようだった。

「全然、わからない..」

慎吾に、話を振った。

「慎吾は?」

「珠美が、わからないもの
俺が、わかるわけないっしょ!」

両方の、手のひらを上に向け
肩をすくめた。

シンコが仕切った。

「義直!もったいぶらずに教えろ!」

用意していた、コード変換表を広げた、

「俺も 音楽の理屈が、わかるわけ
ないんだけど、簡単な法則さえ知れば
すぐにできる。」

「弦をカポタストで挟む
フレットの位地で、押さえるコードが
変わり、みやすくできるんだ..」

例えば、

「E♭~Cm~A♭~B♭7 で書かれて
いるコードは、押さえるのが
すごく難しい」

「3フレットをカポタストで
はさんだら、簡単に押さえられる。

C~Am~F~G7で弾けば、
良いことになる。」

「変換するのは、簡単!」

「この表に、カポの位置と
書かれている、

縦列が、カポタストで挟む
フレットの位置、」

「カポタストを まったく挟んでいない
状態が 0 フレットと言う意味、」

「ほら!0 フレットがE♭の場合、
3つ下がったところに、Cと書かれてる
じゃん!」

「3フレットを、カポタストで挟めば
Cで弾けばE♭と同じ音になるって
言うわけ!」

「Cmは、Cと書かれているところを
下がっていくと、Aと書かれてる
じゃん?

この場合、Aにmをつけて
Amとすれば、良いわけ!」

慎吾が、のせる曲数を数えた。

「義直、アンケートをとったら
確か、30曲くらいだったよな?

さっきみんなで話して、きめたら
追加して、50曲になったじゃん!?

50全曲、変換しなければ
いけないのか?」

「心配するな!慎吾!」

「さらば恋人、くらいなら
押さえるのは、簡単だから

変換しなくても、そのままでOKだ!

俺が、難しいと思う曲に丸をつける
多くて15曲くらいかなぁ..

それだけ頼む!」

シンコも、これなら行けると
思ったのか、仕切り始めた。

「よし!わかった!変換作業が
終わったら、ロウ原資に鉄筆で書き写し
ガリ版印刷するよ!

珠美は、字が綺麗だから 曲の詞と
コード書いてくれる?

私は、その曲に合ったイラストを書く、

慎吾は、ガリ版印刷を頼む!
刷り上がったら、4人で製本だ!」

「シンコ、俺にもなにか
手伝わせてくれよ!?」

テンポよく、シンコが言った。

「義直には、一番大事な作業が
あるじゃん!

ギターの練習だよ!

ミスしないように頼む!

以上!珠美!腹減った..

なにか食べるものある?」

珠美は、嬉しそうに笑った。

「私いつも、卵焼きやいてるの!
何にもないけど、それと赤ウインナー
で良いかなぁ?」

シンコも、嬉しそうに言った。

「家の親父の口癖!
もちのロン!だよ!」

珠美は米が少し、しかない事に
気付いた。

「あの.. 言いにくいんだけど..

うち、母さんと二人だけだから、
買うお米少なくて、みんなが食べる
量ないの..」

シンコが言った。

「なぁんだ!そんな事か!
慎吾んち、米屋だったよね!?

悪いけど速攻で、米段取りして
くれないかなぁ..」

その言葉をきくなり、
伸吾もテンポよく、

「ヨシ!わかった!」

「今から、うちに電話して
持ってきてもらうわ!

珠美わるい、電話借りるぞ!」

そう言って家に電話し、
米の段取りをした。

15分くらい、かかっただろうか?
店の配達員が、米を持ってきた..

「山本精米店です!大将に言われ、
米を、お持ちしました!」

珠美が、心配そうに言った。

「あのぅ.. 慎吾 君.. お米の
お金は、いくら?」

珠美がそう言うと、慎吾が言った。

「お金はいいって、親父のおごり
だそうだ!それと特別美味い、

新潟魚沼産の米を、持って来たって!」

「そんな.. 慎吾 君、わるいよ..」

俺は、歌本にのせる曲のギターコードを
確認しながら、珠美に言った。

「珠美!慎吾が、いいって
言ってんだから、

いいんだよ..

ここは、慎吾を男にしてやろうぜ!
そんな事より、俺も腹減った!

珠美、早く飯つくってくれよ!」

「でも 珠美.. 俺たちが冷蔵庫にある
卵と赤ウインナー、食っちまったら

今晩の夕飯の、おかず、
なくなっちまうよなぁ..

そうだ!春さんが買い出しに
行くとき一緒に珠美んちの食材買って、
配達して、もらうように頼んどくわ!」

「珠美!作るの簡単だから
今晩のメニュー、”すき焼き”で
いいよな!?」

珠美は、すごく遠慮した顔をして
言った。

「私んち、

すき焼きなんか、1年以上食べた
ことないし..

そんな高価な物、悪いよ..」

俺はコード変換してもらいたい曲名に、
〇をつけながら珠美に言った。

「春さんは、俺が生まれる前から、
俺んちで、手伝いしてくれてる
んだけど、

春さんが今夜、すき焼きにするって
言ってたから、材料2人分 少し多く
買うだけだよ..

珠美、遠慮することないって!
これで問題解決だ!何度も言うけど、

俺たち、友達だしな!」

「今夜は、特別美味いしい

新潟魚沼産の、お米と
すき焼きだなんて..

お母さんも、すごく喜ぶと思う..」

珠美と俺のやりとりを、
黙って聞いていたシンコが口を開いた。

「義直の良いとこ、1つミッケ!
ただ、飯のこと言い出したのは、
私だからね!

珠美!私にも何か手伝わせてよ..」

「おっと!シンコでも手伝う事が
ある!?」

俺は、このときばかり
からかってやった。

いい匂いがしてきた..

いつも作っているといった、
珠美の手際よさには、感心した。

1時間後、美味しそうな米が
炊きあがり、珠美が作った卵焼きと
並んだ。

となりには、焼いた
赤ウインナーがあった。

「いただきま~す!」

美味い!今まで食べた卵焼きの中で
一番美味い!それと炊き立ての

魚沼産の米は、艶と粘りが有って
甘くて凄く美味い!

「慎吾、すごくうまいよなぁ!」

慎吾も、めいっぱい、
ほおばり、美味そうに食べていた。

「ちょっと、あんたたち!

こっちの 赤ウインナー
私が、焼いたんだからね!」

「ウインナーを焼いただけで
それ、料理と呼べるのかよ?」
と、言ってやったら、

「義直!あんたは食べなくても良し!」
と、切り返された、

「赤ウインナー.. それで慎吾は、
どうなのよ!?」と、話を振られた

慎吾は、

「赤ウインナーも
すごく美味いです..」と

口いっぱいに、米をほうばりながら
言った。

腹が減っていたせいか、
焼いた赤ウインナーも、本当に美味い!

絶対にこいつ、シンコの尻にしかれる..

シンコは「はぁ?義直!あんた
また何か言った!?」と言いながら、

卵焼きを、口に放り込んた。

「ちょっと珠美!
この卵焼き、すごく
美味しいじゃないの!

私にも作り方、教えなさいよ!」と、

みんなに、当たり散らしていたが、
内心は、すごく嬉しそうだった。

「よっこら庄一!」

横井 庄一よこいしょういち グアムに陸軍伍長として
派遣され、終戦後も島に立こもり

約28年後、住民に確保された
去年、日本へ帰国した。

「恥ずかしながら、帰って参りました」
が、その年の流行語となった。

珠美が鉄筆書きし、
シンコがイラストを加えた原紙を
慎吾がプリントし始めた。

思わず用紙に鼻を近づけ、
その香りを思い切り吸い込んだ、

いいニオイだ!

これは、

メタノールとイソプロパノールが
混じり合った、インクによるニオイ

だそうだ。

そんなこんなで、1週間後、
無事に、俺たちの歌本は完成した。

楽しい修学旅行

バスに乗り込んだ行先は、北九州だ!
全員に、YUKIKO先生が言った。

「みんな、静かにする!
シンコから、話があるそうです。」

めずらしく、シンコが緊張していた、
こんな、シンコを見るのは
久しぶりだ。

ギターをバックにみんなで合唱

「あのぅ.. みんなに書いてもらった
歌のアンケート、歌本にしました。

見てもらえば、わかるんだけど、
曲の中に、アルファベット文字が
書いてあります。

これは、ギターコードと言って
歌いたい曲を、言ってもらえば、

YKIKOクラスでは、
義直が、ギターで伴奏します!」

バスの車内が、ざわついた..

義直ってギター弾けたっけ?
という声が、あちらこちらから
聞こえた..

「最初にYUKIKO先生へ日頃の感謝を
込め、義直が先生の大好きな曲、

トワ・エ・モアの“ある日突然”
ギターを弾いて、歌います!

慎吾、ギターを持ってきて!」

慎吾は、みんなに隠しておいた
ギターを、もってきた。

「それじゃぁ.. 義直 おねがいね..」

緊張して俺は、少し震えていた、

まず、ギターのチューニングをした
音は、狂っていないようだ、

それでは、日頃おせわになっている
YUKIKO先生の大好きな曲を歌います。

『或る日突然』

歌:トワ・エ・モア

作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦

『或る日突然』
リリース : 1969年

ある日突然 二人だまるの
あんなにおしゃべり
していたけれど
いつかそんな 時が来ると
私には わかっていたの

ある日じっと 見つめ合うのよ
二人はたがいの 瞳の奥を
そこに何があるか 急に知りたくて
おたがいを 見る

みんなも、歌本をみながら歌いだし
バスの中は、大合唱になった..

ある日そっと 近寄る二人
二人をへだてた 壁をこえるの
そして二人 すぐに知るの
さがしてた 愛があるのよ

ある日突然 愛し合うのよ
ただの友だちが その時かわる
いつか知らず 胸の中で育ってた
二人の 愛

コードは、間違わずに弾けたが、
緊張のあまり、最初は声が震えて
しまった。

世の中、なにが幸いするか
わからない。

声が震えた、お蔭で微妙なビブラードが
かかり、すごくうまく歌えた

それと、みんなで歌ったら、
すごく楽しくて、緊張なんか
吹っ飛んでいった。

最後まで無事、歌い終えた
バスの中は、拍手喝采!

大盛り上がりだった!

俺たちのサプライズに
YUKIKO先生が、
いちばん喜んでくれた。

俺も含め、クラス全員が、
ヒーローに、なった瞬間だった..

バスガイドさんが言った。

「義直 君、この調子で御願いね!
バスは広島県をぬけ、今から山口県に
入ります!

みなさん、歌のリクエストがあったら、
私に言って下さい。

義直 君に回します!」

そんなこんなで、みんな、
超もりあがった、これは珠美も含め
4人が、力を合わせた結果だ!

関門トンネル (国道2号)

ガイドさんが、マイクを握った。

「これからバスは、海底の関門
トンネルに入っていきます。

トンネルの全長は、3,461 mで、
そのうちの780 m が海底部分と
なっています。

海底部分は、水圧に耐える
同心円状になっており、

上3分の2が車道、下3分の1が、
人道の2層構造に、なっています。

トンネル工事は、1939年(昭和14年)
着工することを決定しましたが、

トンネルの掘削に適さない地質で
あったことや、

第二次世界大戦の勃発で、
資材不足に陥り、工事を中断しました。

1952年(昭和27年)に道路整備
特別措置法による有料道路として
工事を再開し、

着工から、21年の歳月をかけ、
みんなが、生まれた1958年
(昭和33年)3月9日に開通しました

海底部の中央が、山口と福岡の
県境になります。

まもなくバスは、トンネルを通過し
九州に入ります。」

大分(耶馬渓・青の童門)

バスガイドさんが、マイクを握った。

「まもなくバスは、日本三大奇勝として
知られ、日本新三景に選定され名勝に
指定されている、

本耶馬渓ほんやばけいに、到着します。

本耶馬渓は、青の洞門や競秀峰を
中心とする、山国川上流一帯です。

青の洞門は、羅漢寺の禅海和尚が、
参拝客が難所を渡る際に、命を
落とさないよう、

托鉢勧進によって掘削の資金を集め、
石工たちを雇って、ノミと槌だけで
30年かけて掘り抜いたと、

いわれていて、長さは、約144 m、
大分県の史跡に指定されています。」

そこは、綺麗な清流が流れ、
見たこともない渓谷だった。

小学校の修学旅行以来、
県外に出た事のない、珠美は、
食い入るように、風景を眺めていた。

青の童門には、
ノミの跡が、無数にあった..

熊本(阿蘇)

阿蘇五岳

「バスは、世界一のカルデラ地帯に
入り、現在も噴火を続ける中岳に
むかいます。

阿蘇火山の中央火口岳を構成する
5つの峰【根子岳、高岳、中岳、
烏帽子岳、杵島岳】の総称で、

約30万年前に始まった火山活動の
繰り返しで大カルデラが生まれ、
北外輪山から眺めるその姿は、

釈迦の寝姿に、似ていることから
『阿蘇の涅槃ねはん像』と
呼ばれています。」

草千里ヶ浜

「バスは、噴煙を上げる中岳を
目指しますが、中岳の梺一帯に広がる
草千里ヶ浜を通過します。

ここは、噴煙を上げる中岳を望み
大きな池や放牧された馬が
悠々と歩く姿など、

絶好のロケーションを誇り、
夏は、緑が鮮やかに輝き
冬は、幻想的な白銀の世界に包まれ、

季節ごとに、違った表情が楽しめるのも
魅力で、一年を通じ多くの人達に
親しまれています。」

俺たちは、
見た事もない、大草原を
目の当たりにした。

優雅に草をはむ、馬が印象的だった。

阿蘇山 中岳噴火口・避難壕

「中岳の直径は 600m、深さは 130m

周囲4キロの巨大な、噴火口では、
激しく、白い噴煙を上げる様子や
ダイナミックな風景を、間近で

見ることが、できます。

又、水蒸気爆発による噴石から人を
守るため、周辺には避難壕が
設けられていて、

度々、噴火により、
立ち入り禁止となります。

今日は、阿蘇山火山規制がなく、
皆さんは、噴火口を見ることが
できます。」

バスは、噴火を続ける
中岳の噴火口駐車場に止まった。

標高1,506メートル、中岳には、
第1から、第7までの火口があり
阿蘇山特別地域気象観測所があった。

大きなすり鉢をした火口からは、
勢いよく噴煙が上がり
恐怖さえ感じた。

周りの避難壕が、不気味だった..

阿蘇の近くのHOTELに一泊

俺たちの近くと言うか、珠美によると
中国地方は、『白山火山帯』と
言うそうだが、広島県で噴煙を上げる、

活火山など、目にすることない
阿蘇山を見て、地球は生きている事を
実感した。

バスは、県道298号線経由で40分走り、
宿泊するHOTELに着いた。

男女、4グループ宿泊する
部屋に分かれた。

珠美は、シンコが文句を言わさず
自分たちのグループに引き入れた。

阿蘇の美人の湯という、温泉に入った。

硫黄の匂いは、したが、
湯の成分は、

カルシウム、ナトリウム、
マグネシウムが、

豊富に含まれているそうで、

効能は、疲労回復に適している
だけでなく、お肌にハリと潤いを与え
美人の湯と、いうそうだ、

いつもの風呂の湯とは、
全く違っていた。

湯上りが、全然違う..
いつまでも、ポカポカしていた。

パセリ事件

夕食は、熊本名物の馬刺し
辛レンコン、俺の大嫌いな”パセリ”の
野郎が、ついていた。

いやな顔をして、パセリを皿の隅に
よける俺を見て、

慎吾が「パセリが大好き!」だと
言うので、パセリをやった。

みんなも、パセリが
嫌いなのだろう..

それを見た、みんなは、
俺も私もと。パセリを持ってきて、

慎吾の皿は、
パセリで、山盛りになった。

いくら、パセリが好きだとは言え
流石に食べられないだろうと、思って
いたら、マヨネーズをもらい、

ムシャムシャと山盛りの
パセリを、美味しそうに食った。

それからと言うもの、みんなは、
慎吾の事を、パセリマン!
と、呼ぶようになった。

夕食を終え、みんな、
お土産を買ったり、していたが、
パセリマンは、部屋で、

テレビを見ていた。

俺は、日頃から思っている事を
慎吾に話した。

「慎吾、俺は思ってるんだけど..
お前、シンコに、気があるんじゃ
ないのか..?」

突然の、俺の攻撃に、
激しく、否定していたが
目はそうだ!と言っていた。

動揺しまくって、
「そんな事より、こんな番組、
呉原では、見たこと、ないよな.!」
と、必死に

ごまかしていたので、
これくらいに、してやった。

熊本城

「みなさん、おはようございます!
昨夜は、よく寝れましたか?

バスは、これから約1時間走り
次の観光先、熊本城を目指します。」

HOTELの駐車場を出発し、
県道207号経由で、

熊本市内へと、バスは走り出した。

ガイドさんは、熊本城の案内を
してくれた。

「熊本城は、加藤清正が中世城郭を
取り込み、改築した平山城で、

加藤氏改易後は、幕末まで
熊本藩細川家の居城でした。

明治時代には、西南戦争の戦場となり、
西南戦争の直前に、大小天守や
御殿など、本丸の建築群が、

焼失しましたが、

宇土櫓を始めとする櫓・城門・
塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、
塀1棟)が、国の重要文化財に、

指定されています。」

俺は、広島城を見た事はあるが
はるかに大きい、黒い城だった

真っ青な空に、黒い城が堂々と
そびえていた。

その姿は、圧巻だった..

珠美は、広島城の事を教えてくれた。

昭和20年(1945年)
原爆が落ちる前は、
天守閣も本物だったの、

国宝広島城だったんだけど、

一発の原子爆弾で、
全て倒壊したの。

広島は、川の街で、
川を利用し、堀を張り巡らせ、
日本有数な、平城だったの、

広島城を見た、豊臣秀吉は、
その規模、雄大さに、

『大阪城を凌ぐ!』と言ったのは、
有名な話なのよ。

義直 君が知ってる広島城は、ほんの
一部を復元した、だけの物なの..

俺は、その話を聞き、

以前、見た広島城は小さくて、
なぜ、鉄筋コンクリートの
城だったのか、よくわかった。

水前寺成趣園

「みなさん、熊本城はどうでしたか?
バスは、近くににある、
水前寺公園に、むかいます。

水前寺公園は、大名庭園で、
面積約7万3000平方メートル、

通称は、”水前寺公園”と
呼ばれています。

豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った
池を中心にした、桃山式回遊庭園で、
築山や浮石、芝生、松などの植木で、

東海道五十三次の景勝を模したと、
いわれています。」

小学校の遠足で行った、
広島の ”縮景園” よりはるかに大きな
庭園であった。

長崎

「バスはこれから、熊本フェリーに乗り
長崎県島原にむかいます。

フェリーに乗船している時間は、50分
全所要時間は、1時間40です。」

バストは違い、海風に吹かれて進む船は
ゆったりとして、心地が良かった。

島原城

「みなさん、船旅ごくろうさまでした、
これからバスは、10分ほどで島原城へ
到着します。

島原城は、城郭の形式が
ほぼ長方形の連郭式平城で、
高く頑丈な石垣が特徴です。

本丸は、周りを水堀で囲まれており
二の丸と廊下橋形式の、木橋一本で
繋がれていて、

天守は、破風を持たない独立式層塔型
5重5階で、最上階の廻縁高欄は、
後に戸板で囲ったため、

「唐造り」のようになっており、
松倉勝家の代には、
領民の一揆が起こりました。

明治以降は、廃城処分となり
建物などは撤去され、

現在、本丸に天守・櫓・長塀が復興され
城跡公園と、なっています。」

3万7千人の民衆を率いて幕府に挑んだ天草四郎

「時は1612年、徳川秀忠の時代、

人々は、実際の石高の2倍にあたる
重い年貢に、苦しめられていました。

さらに、追い討ちをかけるかのような
大凶作に、みまわれ、
天草の人々は、信仰の禁止と厳しい

年貢の取り立てに、ますます、
追いつめられていきます。

年貢が納められなかった家の妊婦が、
寒中の川に、さらされ殺される
残虐な事件を機に、

民衆の怒りは、爆発!

四郎を総大将に、まず島原で火の粉が
上がり、一揆群は大島子の戦い
町山口川の戦いで勝利を収め、

勢いに乗り、富岡城を攻めますが
難攻不落のため、富岡城陥落をあきらめ
海を渡って、原城へ向かいましたが、

3ヶ月間の籠城の末、
大勢の幕府軍に敗れ、

一揆に参戦した全員が、
処刑されました。」

平和祈念像

「今からバスは、1時間40分ほど走り
長崎平和公園に、むかいます。

広島原爆投下の2日後、8月9日
(11時2分)2発目の原子爆弾が長崎に
投下されました。

すり鉢状の地形だったため、
死者数は、広島と比べ少ないですが
被災者数は、人口の72%と同じであり、

死者 7万4千人、負傷者 7万5千人と
なっています。

『長崎の鐘』

歌 : 藤山一郎

作曲 : サトウハチロー
作詞 : 古関 裕而

『長崎の鐘』
リリース: 1949年

長崎の平和公園には、
長崎市民の、平和への願いを
象徴する、

高さ9.7 m、重さ30 ton
青銅製の平和祈念像が、
設置されています。

この像は、
神の愛と、仏の慈悲を象徴とし、

天を指した右手は、“原爆の脅威”を
水平に伸ばした左手は、”平和”を
軽く閉じた瞼は、

“原爆犠牲者の冥福を祈る、という
想いを込め、毎年8月9日の原爆の日を、

「ながさき平和の日」と定め、
この像の前で、平和祈念式典が
とり行なわれ、

全世界に向けた、
平和宣言が、なされています。」

平和の泉

「原爆のため体内は、焼けただれ、
被爆者たちは「水を、水を」と
うめき叫びながら、

死んでいきました。

平和の泉は、その痛ましい
霊に水を捧げ冥福を祈り、

世界恒久平和と核兵器廃絶の
願いを込め建設された円形の泉で、

平和公園の一角、
平和祈念像の前方に
あります。

直径18 mで、昭和44年に
完成しました。

正面には、被爆し、水を求めて
さまよった、少女の手記、

「のどが乾いてたまりませんでした、
水には、油のようなものが
一面に浮いていました、

どうしても、水が欲しくて、
とうとう、油の浮いたまま
飲みました」と、刻まれています。

ほんの28年前、みなさんと同じ、

多くの 少年、少女の貴重な
命が奪われました、
同じく、原爆を投下された広島の、

みなさんには、わかると思います。

悲惨な戦争だけは、決して、
しては、いけません..」

珠美は、自分が背負っている
痣の事など、すごく小さなことだと
心から思った。

日本二十六聖人

「バスは、これから15分走り、
次の見学先、日本二十六聖人に
むかいます。

長崎は、古くから外国との
つながりが古く、禁止されていた
キリスト教信者の多くが、

処刑された、歴史が有ります。

日本二十六聖人ですが、
豊臣秀吉の命令によって
長崎ではりつけの刑に処された、

26人のカトリック信者です。

キリスト教の信仰を理由に、
初めて、26人の処刑が行われました、

後に、カトリック教会によって
聖人の列に加えられた、ため、
彼らは「日本二十六聖人」と、

呼ばれる、ことになりました。」

オランダ坂 と 中華街

日本二十六聖人を見学した後、
俺たちは、グループ単位に別れ
長崎市内を散策した。

出島に住む、オランダ人の影響か..
開国後も長崎の人々は、東洋人以外を
「オランダさん」と呼んでいた。

オランダ坂があり、すり鉢地形をした、
長崎は、呉原と同じ坂の街で
両城地区と、そっくりだった。

食券を渡されていた、長崎中華街で
昼食をとった、長崎名物、

”皿うどん” を食べた。

想像していた、うどんとは違い
揚げた細いそばに、中華あんかけを
かけた物だったが、食べた事のない
食感で美味しかった。

グラバー邸

グループ単位で昼食をとり
みんなが、集まったところで

高台にある、
グラバー邸に見学に行った。

「長崎は昔、貿易の中心地であり
高台には、木造平屋建、
屋根は、多角形の寄棟造、桟瓦葺き、

建築面積 510.8平方メートル、
イギリス人商人で、あった
グラバー邸が残っていて、

居住者の、トーマス・ブレーク・
グラバーは、グラバー商会を設立し、

茶や絹の輸出と船舶・武器の輸入に
従事し、薩摩藩、長州藩や、
後の明治政府の要人らとも、

深い関係との事でした。

親日家であった、グラバーは、
日本人女性の、ツルを妻とし
明治44年に、没するまで、

日本に、とどまっていました。」

パリッとした薄皮の食感、
ホワイトチョコレートのやさしい甘さ、

優しく広がる、生姜の風味
お土産に ”長崎銘菓 クルス” を買った。

佐世保

「みなさん、長崎はどうでしたか?

同じく、原子爆弾が落とされた
広島とは、共通点が多い街だったと
思います。

それでは、バスは、約1時間40分走り
修学旅行最後の目的地、佐世保に
むかいます、

佐世保は、海上自衛隊があり、
地形的にも、呉原とよく似た
街だと思います。」

約1時間40分後、バスは、
佐世保市に到着した。

鋭い剣が、打ち込まれていて
単に回すだけでなく、いかに長く

回すかを競う、面白い形をした
コマを見つけた。佐世保コマと
言うらしい、

お土産に買った。

高台から見る佐世保は、海上自衛隊の
基地がある、呉原の風景と同じだった。

故郷、呉原が懐かしくなった。

間で休憩を取りながら、我々を乗せ
バスは、呉原市への帰路につく、

夜食用に、お結び弁当が、
みんなに、配られた。

呉原市に、帰ってきた。

早朝、バスが呉原市に入った。

アパートと学校の往復しか知らない
珠美は、呉原を離れ、
見る世界に、興味津々だった。

シンコが、みんなに言った..

「なんだかんだで、これが最後です。

それでは、義直、
つぎの2曲で、締めて下さい、」

俺はまず、得意な堺正章の
”さらば恋人” をギターを弾きながら
渾身の力で歌った!

拍手喝采!

俺にとって、最高のできだった。

それでは、最後に、
日頃、お世話になっている
YUKIKO先生へ、

トワ・エ・モアの
「虹と雪のバラード」を送ります!

全員が声を合わせ、歌い始めた。

『虹と雪のバラード』

歌 : トワ・エ・モア

作曲 : 河邨文一郎
作詞 : 村井邦彦

『虹と雪のバラード』
リリース: 1971年

虹の地平を 歩み出て
影たちが近づく 手をとりあって

町ができる 美しい町が
あふれる旗 叫び そして唄

ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
あの星たちの あいだに

眠っている 北の空に
きみの名を呼ぶ オリンピックと

雪の炎に ゆらめいて
影たちが飛び去る ナイフのように

空がのこる まっ青な空が
あれは夢? ちから? それとも恋

ぼくらは書く いのちのかぎり
いま太陽の 真下に

生れかわる サッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと

生れかわる サッポロの地に
きみの名を書く オリンピックと

俺は、なぜかわからないが
涙が、こみ上げてきて、
歌にならなかった..

珠美、シンコ、慎吾 を見たら
泣いていた..

いちばん、感動したのは、
YUKIKO先生が、
涙を流していた事だった。

泣きながら、シンコが言った。

「最後に、YUKIKO先生
一言、御願いします!」

「四人とも修学旅行の準備、本当にありがとう!最高の修学旅行でした!
4人に私から100点をあげます!大変よくできました!」

最後は、涙で言葉にならなった..

珠美!シンコ!慎吾! 俺たち
やったよな!!

こうして思いが詰まった、
我々の修学旅行は、無事終わった。

3年最後の勝負、2学期 期末テスト

俺は、修学旅行のときの勢いも有って、
6月の1学期 期末テスト、10月2学期

中間テストと、順調に点を
伸ばして行った。

本を読み続けたおかげで国語は、漢字の
読み、熟語の意味、文法を含め文節は
わかるようになったが、

漢字を書くことに関しては、
駄目だった..

しかし、数学や理科と比較しても
文章を読むことに関しては、
国語の方が簡単だと、思えてきた。

英語力を取得するのに、
英文で書かれた簡単な
童話の力は、抜群だ!

問題は、書くこと聞く事、

英語 リスニングの攻略

特に聞く事(リスニング)を
どう克服するかに、かかっていた、

聞き取る力を、つける事に
関しては、洋楽を聞くのが
一番だと珠美が言った。

珠美が流行ってる、洋楽3曲を
選んで英文の詞に
日本語訳を書いた紙をくれた。

珠美が言った..

「義直 君、英語を聞き取る力を
つけるのは、
外人が話す言葉を聞くのが、

いちばん、効果があるの..

でも感心を持つ事が一番大事、」

「私は、この方法で聞き取る力を
つけたの..」

「義直 君も洋楽で好きな曲、
あるでしょ?」

「好きな曲だったら、どんなこと
歌っているんだろうと、
感心があるでしょ?」

「だから、聞き取りを
勉強するのに、
すごく効果があるの?」

「それと英語は、単語、個々の意味が
わかっても駄目なの..」

「それでは、直訳になって、
何が書いてあるのかわからない..」

「単語が組合わせられた文章が、
何を言っているのか、パターンを
知るのが一番!」

「英会話だってそう、言ってることが
わからなくても、とにかく最後まで
聞くの..」

「慣れてくると、理屈じゃなくて
意味が、わかってくるの..」

「今しゃべってる日本語だって、
単語一つ一つ、意味を確認ながら話し、

単語自体の意味なんか、拘って
いないでしょ?」

「相手は、話す全体を聞いて、
話の内容を、理解しているでしょ?

だから歌を聞くのが一番なの..」

「何を言っているのか、わからなくても
毎日聴き流してると、ある日突然
わかるようになるの..」

「そんな、ものなの..」

「きっと義直 君も、私が言っている
事が、わかる日がくると思う。」

珠美が曲を訳し、手書きした
クリアシートの英文の意味が、
わかる日が、くるのだろうか..?

と、うつむいていたら、

「大丈夫!義直 君なら、
すぐに、わかる日がくるから!」

「とにかく、わからなくても
今は、最後まで聴き流して..」と

微笑みながら、手渡してくれた。

1曲目 イエスタデイ・ワンス・モア

『Yesterday Once More』
あの日をもう1度

歌:Carpenters

作詞作曲 : Richard Carpenter &
       John Bettis

『Yesterday Once More』
リリース: 1973年

When I was young
I’d listen to the radio
Waiting for my favorite songs
When they played I’d sing along
It made me smile

私が若かった頃は、
ラジオを聴いて好きな曲が
流れるのを待っていたわ、
その曲が流れると
一緒に口ずさんで笑顔になれた

Those were such happy
times and not so long ago
How I wondered where they’d gone
But they’re back again
just like a long lost friend
All the songs I loved so well

それはとても幸せな時間、
ついこの間のことみたい。

そんな時間は、
どこへいってしまったのだろうと
思っていたけれど戻ってきたの
まるで長い間、会えなかった
友達のように。

どれもが、私が大好きだった曲

Every shalalala, every oho, oho
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
that they’re starting to sing’s
So fine

「シャラララ」「ウォウ・ウォウ」
歌声の一つ一つが今も輝いて
「シンガ・リンガ・リン」
歌い出す曲すべてが、すごく素敵

When they get to the part
where he’s breaking her heart
It can really make me cry
Just like before
It’s yesterday once more

そして彼が彼女の心を
傷つけるパートに
なると思わず泣いてしまう

あの頃のように過ぎた
日々がよみがえる

Looking back on how
it was in years gone by
And the good times that I had
Makes today seem rather sad
So much has changed

過ぎていった年月を振り返ると
あの楽しかった時間が今日を悲しく
させる、多くの事が変わって
しまったから

It was songs of love that
I would sing to them
And I’d memorize each word
Those old melodies
still sound so good to me
As they melt the years away

あの頃に歌った愛の歌
歌詞の一つ一つを覚えた
あの懐かしいメロディが
今も私の心に染みわたり
過ぎた時間を溶かしてくれる

Every shalalala, every oho, oho
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
that they’re starting to sing’s
So fine

「シャラララ」「ウォウ・ウォウ」
歌声の一つ一つが今も輝いて
「シンガ・リンガ・リン」
歌い出す曲すべてが、すごく素敵

All my best memories
come back clearly to me
Some can even make me cry
Just like before
It’s yesterday once more

素晴らしい思い出だけが
はっきり甦る
泣いてしまうほどの
ものもある
あの頃のように過ぎし
日々を、もう一度

Every shalalala, every oho, oho
Still shines
Every shing-a-ling-a-ling
that they’re starting to sing’s
So fine

「シャラララ」「ウォウ・ウォウ」
歌声の一つ一つが今も輝いて
「シンガ・リンガ・リン」
歌い出す曲すべてが、すごく素敵

2曲目 幸せの黄色いリボン

『Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree』古い樫の木に黄色いリボンを結んで

歌:Tony Orlando & Dawn

作詞:Irwin Levine
作曲: L. Russell Brown

『 幸せの黄色いリボン 』
リリース: 1973年

I'm comin' home,
I've done my time
Now I've got to know
what is and isn't mine

僕は刑期を終えて
家路に向かうバスの中
身に染みて分かったよ
何が自分のものか
そうじゃないかを..

If you received my letter
telling you I'd soon be free
Then you'll know just what to do
If you still want me
If you still want me

手紙は届いたかな?
僕はもうすぐ
自由の身になる、
頼み事は伝わってるだろう

もし君がまだ僕を
必要としてくれて
いるなら

Whoa, tie a yellow ribbon
'round the ole oak tree
It's been three long years
Do ya still want me?
(still want me)

古い樫の木の幹に
黄色いリボンを
結んでおいておくれ

もう3年も経ってしまった..
君はまだ僕を必要として
くれているかな?

If I don't see a ribbon
'round the ole oak tree
I'll stay on the bus
Forget about us
Put the blame on me
If I don't see a yellow ribbon
'round the ole oak tree

もし黄色いリボンがなかったら
僕はバスを降りず、
君との事は忘れることにする。
悪いのは僕なんだから..

Bus driver, please look for me
'Cause I couldn't bear
to see what I might see

運転手さん 
頼むから僕の代わりに見てよ
これから目に入る光景を
僕は確かめる勇気がない

I'm really still in prison
And my love, she holds the key
A simple yellow ribbon's
what I need to set me free
I wrote and told her please

釈放こそされたけど
僕はまだ牢屋にいるようなものだ
ああきみがそこから出してくれる
鍵を持ってるんだよ
たった一つの黄色いリボンが
僕を自由にしてくれる
僕はそう書いて
あの娘に託したんだ

tie a yellow ribbon
'round the old oak tree
It's been three long years
Do ya still want me?
(still want me)

黄色いリボンを
古い樫の木に巻いておいてくれ
3年間は長かったけど
まだ僕を好きでいてくれるかい?
(僕をまだ求めてくれ)

If I don't see a ribbon
'round the old oak tree
I'll stay on the bus
Forget about us
Put the blame on me
If I don't see a yellow ribbon
'round the old oak tree

古い樫の木にリボンがなかったら
僕はバスを降りない
二人のことはもう忘れるんだ
すべて僕のせいにして...
古い樫の木に黄色いリボンが
もしも巻かれてなかったら…

Now the whole damned bus is cheerin'
And I can't believe I see
A hundred yellow ribbons
'round the ole oak tree
I'm comin' home, mmm, mmm

バスの乗客がみんな騒いでる
目の前の光景が信じられないよ

100個もの黄色いリボンが
古い樫の木の幹に、

結ばれていたんだから!!
さあ家に帰ろう..

3曲目
『Killing Me Softly With His Song』
やさしく歌って

歌: ロバータ・フラック

作詞:ノーマン・ギンベル
作曲:チャールズ・フォックス

『Killing Me Softly With His Song』
リリース: 1973年

Strumming my pain with his fingers,
Singing my life with his words,
Killing me softly with his song,
Killing me softly with his song,
Telling my whole life with his words,
Killing me softly with his song ...

ギターの音が私の痛みをかき鳴らす
彼の言葉は私の人生を歌ってる
私はしばし自分を忘れてしまったの
彼の歌にうっとりしてしまったの
私の人生のすべてを歌ってほしい
やさしい歌で忘れさせてほしい…

I heard he sang a good song,
I heard he had a style.
And so I came to see him
to listen for a while.
And there he was this young boy,
a stranger to my eyes.

彼がいい歌い手だって耳にしてた
独特の歌い方だって言われてた
そこで立ち寄ってみたのよ
少しだけ彼の歌を聴きに
そこには若い男の子がいた
初めて見た男の子だったわ

Strumming my pain with his fingers,
Singing my life with his words,
Killing me softly with his song,
Killing me softly with his song,
Telling my whole life with his words,
Killing me softly with his song ...

彼のギターが私の痛みをかき鳴らす
彼の言葉が私の人生を歌ってる
しばし自分を忘れてしまったの
彼の歌に私はうっとりしてしまったの
私の人生のすべてを歌ってほしい
やさしい歌で忘れさせてほしい

I felt all flushed with fever,
embarrassed by the crowd,
I felt he found my letters
and read each one out loud.
I prayed that he would finish
but he just kept right on ...

私ぽっと赤くなってしまった
観客のなかで恥ずかしかったわ
彼に想いを書いた手紙を
大きな声で読まれたような気持ち
もう終わってほしいと願ったけど
彼の演奏はそのまま続いたの…

Strumming my pain with his fingers,
Singing my life with his words,
Killing me softly with his song,
Killing me softly with his song,
Telling my whole life with his words,
Killing me softly with his song ...

彼のギターが私の痛みをかき鳴らす
彼の言葉が私の人生を歌ってる
しばし自分を忘れてしまったの
彼の歌に私はうっとりしてしまったの
私の人生のすべてを歌ってほしい
やさしい歌で忘れさせてほしい

He sang as if he knew me
in all my dark despair.
And then he looked right through me
as if I wasn't there.
And he just kept on singing,
singing clear and strong.

彼は私を知っているかのように歌った
私の暗い絶望も歌にして
彼の視線は私を通り抜けて
私がまるでそこにいないかのよう
彼は歌い続けたの
澄んでいて力強い声で

Strumming my pain with his fingers,
Singing my life with his words,
Killing me softly with his song,
Killing me softly with his song,
Telling my whole life with his words,
Killing me softly with his song ...

彼のギターが私の痛みをかき鳴らす
彼の言葉が私の人生を歌ってる
しばし自分を忘れてしまったの
彼の歌に私はうっとりしてしまったの
私の人生のすべてを歌ってほしい
やさしい歌で忘れさせてほしい

He was strumming my pain,
yeah, he was singing my life.
Killing me softly with his song,
Killing me softly with his song,
Telling my whole life with his words,
Killing me softly with his song ...
With his song ...

彼はどうして私の人生を歌えるの?
彼はどうして私の絶望を知ってるの?

彼の歌声とギターの音色に
私は思わずうっとりしてしまったの…

歴史の、漫画本の威力は絶大だ!

歴史に関しては、大得意になった
歴史の勉強は、教科書なんか使わず

歴史の教科書は、漫画本にします!
と、俺は言いたい。

とは言え..
公民だけは、どうしてもだめだ..

最後の勝負 期末テスト

11月、泣いても笑っても
最後のYUKIKO先生と、平均80点を
約束した、期末テストをむかえた。

最後の手段!俺は、漢字、英単語
公民、大山をはる事にした。

それでは、その場しのぎで
すぐに忘れ、役に立たない事は、

よくわかっている。

しかし、俺の頭は理屈のない事、
興味のない事は、どうしても憶えられ
ない構造になっている、

しかし!なぜ1回しか見た事のない
映画の内容は、憶えられるんだ?

ひらめいた!漢字も、英単語も
公民も、映像として記憶したら
憶えられるんじゃないか?

シナリオを考え、物語化してみた。

この方法は、今までとは全然違う!
俺は、手ごたえを確信した。

こうなったら、まな板の鯉だ!

俺は、腹をくくり、

2学期、勝負の期末テストに臨んだ。

配られた、テスト用紙を見た。
山も、結構あたっている!

今まで憶えることができなかった
漢字英単語、公民 が映像として
浮かんできた。

これはいける!国語の読み、書いてある
文章を理解する事、社会の歴史
それなりにできた。

ただ、英語の聞き取り(リスニング)
だけは、全然だめだった..

高校の入学試験までには
もっと珠美に
洋楽を、訳した曲をもらおう。

そして 聴きまくろう..

最終結果

期末テストを受けて10日過ぎ、

いよいよ採点され、返却される
ときがきた。

YUKIKO先生が国語のテストを
男子女子同時に、出席番号順に
返し始めた..

俺たちのグループでは、珠美が
最初に受け取った。

「村上 珠美!

1問、間違えただけの98点!

いつも珠美は、よく勉強してるね.. 」

今回、100点はいなく、
珠美が 又、トップだったと言う事だ。

出席番号順で同じ、シンコと慎吾の
答案が返された、

「山科信子 82点!シンコ、
この調子だと、国語は大丈夫!
呉原商業は、受かるよ!」

「山本慎吾 94点!慎吾も目標は、
珠美と同じ
広原高校進学だったよね?」

「国語、慎吾も
だいじょうぶだよ!」

次々とテストは、返されていき、

出席番号が最後の
俺の順番が、やってきた。

俺がすごく不安そうな、顔をして
いたんだろう..

「脇屋 義直.. 義直!
さっさと取りに来る!」

「脇屋 義直 84点!義直よくやった!」

奇跡がおきた!

15点以上取った事のない、
この俺が、まさか、

84点も、とれるなんて
まるで夢のようだ!

山も当たったが、
物語にし、映像化して憶えるやり方は
すごく効果があった。

社会は、78点だったが..
英語は、リスニングが足を引っ張って
77点に終わった。

YUKIKO先生と約束した
平均80点の壁は、
越えられなかったが..

平均79.66点なので、四捨五入したら
80点だと、こじつける事もできる..

それよりショックだったのは、
理科が69点、数学に至っては、
48点と撃沈した..

しかし、5教科の平均点は71点、
俺としては、奇跡だった。

親父の趣味、猟

親父・お袋の青春時代

珠美と同じ、俺も、なかなか授から
なかった子だ、俺が生まれたのが

昭和33年(1958年 )

親父が36歳の子だった。

親父が生まれたのは、大正11年
(1922年)真珠湾攻撃が起こったのが
昭和16年 (1941年)19歳 、

終戦が昭和20年(1945年) 23歳
戦争の、まっただ中で、青春時代を
おくっていた。

親父と学校の成績で 1、2番を争って
いた友人は、海軍兵学校に進み、

一番、最初に戦死している。

徴兵され、南方の島に配属された
多くの友人も、戦死していた。

親父は18歳のとき、呉原駅で
列車を待っていたところ、

「貴様!若い男児が、こんな時間に
なに、フラフラしているのか!?
精神が、たるんでいる!!」

と、特高警察に連れていかれ
ひどい目に遭った。

さすがの温厚な、親父も頭にきて

「あんな、バカ達とは、
やってやれない!」

と、言う事で、

陸軍の通信学校に進み
戦争では、最前線に派遣されず
通信兵とし、

中国の長沙にある司令部にて
終戦をむかえている。

親父の話によると、上官がインテリで

いつも、
「日本は負ける!お前たちは無駄に
命を落とすな!戦後の復興には
お前たち若い力が、絶対に必要だ!

よって、絶対に生きて帰れ!!」

と、言われたそうだ。

司令部を出るときは、
二列横隊に
整列をし、行進するそうだが、

司令部が見えなくなると

「自由行動、解散!」

と、なり、

草むらに、寝ころんでいたそうだ。

敵の無線を、傍受していると

夕刻になると
インド方面から、完璧な日本語で、

動揺の音楽に乗せ

『夕焼小焼』

作曲 : 草川信
作詞 : 中村雨紅

『夕焼小焼』
リリース: 1923年

「日本の兵隊さん、
あなた方の、家族がまっています。

無駄な戦争は止め、
国に帰りましょう!」

と、聞こえるとの事だった。

又、8月6日

「 新型爆弾により、広島は壊滅!」

と、言った情報は、

内地からの、情報より先に
無線傍受にて、わかったそうだ、

広島市出身の戦友は、
その話を聞き、真っ青になり
崩れ落ちたそうである。

お袋は、呉原で
8月6日8時15分をむかえた、

辺りが、稲妻が光ったように
ピカ!っと光ったかと思ったら
呉原市街の方向に、

キノコ雲が、見えたそうで、

そのときは、呉原にある弾薬庫が
爆発した!といったとの噂だったが、

『広島が新型爆弾にて
壊滅した!』

と、後からわかったそうだ、

お袋が、二十歳のときである。

戦時中の話は、
親父より、お袋からよく聞かされた。

お袋は、戦時中、
呉原にある、大きなカメラ商店に
勤めていた。

店には、海軍の士官さん達が
よく来店していたそうだが、
終戦に近づくにつれ、

「行ってくるからね..」

と、言った士官さん達は、

姿を現すことが、なくなって
いったそうである。

ミッドウエイ海戦で、
日本は、4隻の空母を失っている。

海軍工廠の、あった呉原では、

「海戦により傷ついた、
空母が帰ってくる!
最善の準備をしておくように!」

との命令があったが、
一隻も空母は、
帰ってこなかった..

8月15日、正午の昭和天皇による
玉音放送にて、ポツダム宣言受諾を
日本の全国民と、全軍に表明し
全軍の戦闘行為は、停止された。

『君が代』

『玉音放送』

そんなことで、
俺が、こうして存在している
わけでは、あるのだが..

親父の復員

昭和20年(1945年)12月1日付をもって

陸軍省が廃止され
第一復員省が設置された。

翌年の9月10(火)親父は、
下関港に復員した。

親父を乗せた列車が
広島駅に着いた、
駅から見る風景に、

親父は、息をのんだ。

『そこには、
見えるはずのない、海が見えた..』

列車は、呉原駅に着いた、
呉原も散々な状況であった。

空襲により呉原の街は
焼き尽くされていた..

呉原港では、何隻もの軍艦が
着底沈没しており、
そこら中に機雷が、まかれていた。

そのおかげで呉原は、
世界トップのサルベージと、
機雷掃海技術を得ることになる。

『サルベージ』

沈没、転覆、座礁、座洲した船の
引き揚げ、浮揚、曳航えいこうなどの作業。

明治女の婆ちゃんは、
「母上、ただいま
帰ってまいりました。」

と、玄関にたたずむ親父に

「ご苦労様でした、今何か美味いものを
作るからな..」と言い

台所に急いで行き、物資が少ない中、
貴重な砂糖を使い、オハギをこしらえて
戻ってきたそうだ。

俺の家では、昔から一人膳にて
無言で正座をし、食事をする。

俺なんか箸の上げ下げ等、
婆ちゃんには、厳しく躾られ、
凄く苦痛だった。

親父の話では、そのとき胡坐あぐらをかいて
食べた甘い、オハギの味は、
忘れられないそうだ、

日頃、口うるさい明治女の
婆ちゃんも、心の底から
嬉しかったんだろうと思う。

第二次世界大戦では、大正世代の
人口の、7分1の割合の男子が
戦死した。

戦争に行ったとは言え、
親父は、鉄砲で人を撃ったことは
無かった..

唯一、戦争らしい体験をしたのは
朝鮮の釜山から、中国にある司令部に
蒸気機関車で向かう途中、

3度の機銃掃射を受けた事だった
爆音!と言う声に、列車の下に
潜り込むそうだが、

例えたら、頭のすぐ上で雷が
鳴っているように、数回に分け
機銃掃射して来るそうだ、

グラマンは、そう怖くなかった
そうだが、双胴機のライトニング
P38、日本名(メザシ)は、

横滑りして機銃掃射するため
大変危険だったそうだ。

町内会に親父と猟、仲間で平林さんと
言う、呉原工業高等専門学校
(電気情報工学科)の教授がいる。

11月になると猟が解禁となり、捕らえた
キジを俺の家でさばき、鍋にし酒盛りを
するのが毎年の行事だ。

酒は、川向こうの蔵で造っている
『雨後の月』と言う地酒だ。

俺は、よくキジ鍋を
食べさせてもらった、

俺が、まだ小学校に上がる
幼少期の頃は、野呂原山で毎年
たくさんの、松茸が採れた。

その時代、ほとんどの家は
ガス化されてなく
台所には、くどがあった、

焚きつけ用に、みんな野呂原山に
コクバを拾いに行った、

その、おかげで山には
落ち葉が少なく、綺麗な赤松の根本には
群れをなし、松茸が樹勢した。

猟に行った、親父の持ち帰る物の
ほとんどは松茸で、

キジなどの獲物は、
微々たるものだった。

鍋にある、少ない肉を確保する為に
松茸の下に、取られないように
肉を隠していたものだ、

親父に、

「キジは、逃げても、
松茸は、逃げないからな!」

と、悪態をついていたのが
懐かしく思う。

今では、その松茸も
超高級食材に、なってしまった。

ガキの頃は、文化的な物は無かったが
周りには、かけがえのない自然が
いっぱいあった。

キジを捕らえたら、
すぐに血抜きをするのが、
基本中の基だそうで、

まったく、肉に臭みがなく
すごく美味かった。

特に親父は、美味いキジ出汁を
取ることに拘っていた。

親父のキジ出汁の取り方

  • ガラ骨を砕き焼き色がつく程度に
    グリルで焼く。(メイラード反応
    と言って、焼き色をつけることに
    より格段に美味くなるそうだ。)
  • 焼き色がついたら約2リットル水を
    鍋にはり、ガラ骨をぶち込み2時間
    ほど水を足しながら、トロ火で煮
    込んで布巾でこせば、乳白色の超
    美味い出汁が取れる。
  • 出汁が取れたら、ぶつ切りにした
    キジ肉と 豆腐・キノコ・野菜をぶ
    ちこみ、醤油・酒・味醂で味を調
    えたら、超美味いキジ鍋の
    完成となる。

締めは水で洗い、ぬめりを取り除いた
冷や飯と、細かくきざんだ餅を
ひと煮立ちさせ、

溶き卵を回しかけたら、

至極の、雑炊のできあがりとなる。

俺はこの雑炊が目当てで、キジ鍋は
二の次だった。たまに、カリ!っと
散弾銃の弾が肉に残っていて
吐き出しながら食った。

よく考えてみると、高くつく娯楽だ..

銃砲所持許可、狩猟者登録や税金
猟友会費、道具類(銃や装備品など)
の費用、約15万円 + 狩猟の弾

撃つたびに、約100円、

それと猟犬を、
飼わなければいけない..

家では、ドンと権八と言う名前の、
ポインターとセッターを
2匹、飼っている。

平林さんは、酒が回ったのか、
俺に話し始めた。

「義直 君は、
電気の道に進みたいと
親父さんから聞いたぞ、

教科は、数学が
好きだそうじゃないか!

この世は誰かが、意図して
作ったように、規則正しく正確に
あらゆるものが、動いている。

それらの法則を、
数式化したものが
数学なんだ..」

「中学生では、学ばないが
この世の中は、微分で出来ていて
積分で解読するものだと思っている。

私は、呉原高専で生徒に、
その事を、いつも語っている。」

「微分積分って中学の段階で、
教えても理解できない!と言う
やからがいるが、

私は、そうは思わない、」

微分とは..

義直 君、微分とは何か!?
一言で言ったら“傾き” のことだ、

(例)条件=等速 車が1秒のとき2m進み
6秒のとき9mであった。

車の速度を求めよ。

車の速度を求めるには理科で習った
ように 走った距離 ÷ かかった時間
だったよね?

実は、微分(傾き)の正体は、
君が習った速度なんだ。

しかし現実は、計算しやすい等速
(一定速)移動なんて、走っている
車なんかいやしない、

道路を走っている車のスピードは、
速くなったり、遅くなったりだよね?

スピードが変化して走ってる車〇秒の
とき速度は?と聞かれたとき、

微分する必要あるんだ。

義直 君が高校に進学したら、
こんなことを習うんだ。

俺は話を聞き、すごく興味が
あったので、さわりの話を聞いてみた。

どうするかといったら、変化している
2点をとる。

記号のdとは、
ディファレンス =変化 という意味だ。

ここで2点間を 0 に近づけていく。

微分とはめちゃくちゃ小さな変化を
見ることなんだ

微分するには、
簡単な法則さえ、憶えておけば
いいんだ。

実際の計算法則

(方法)   2を前に出し乗算する。
つぎに ^ から 1減算する。

どうだ!義直 君、簡単だろう!?

(問題)

(問題)

(問題)円の面積を微分せよ。
円の面積は だったよね?


つまり、
円の面積を微分すると、円の長さに
なるわけだ!

(問題)球の体積を微分せよ。
(球の体積は だったよね?)

球の体積を微分すると、球の面積に
なるわけだ、

玉ネギは、薄皮が重なって球になって
いるだろ、微分すると言う事は、

玉ネギを想像すればいいんだ。

知りたい半径にある、薄皮の表面積
なんだ.. どうだ、簡単だろ?

自然界の電気計算も、
この微分を知る事が必要なんだ。

もちろん、呉原工業高等専門学校
(電気情報工学科)でも必要になる!

平林さんの話を聞いて
俺は、高校や大学で習う
数学と、いうものに、

すごく興味を持った。

又、学校の理科で 電流・電圧・抵抗 の
関係について学習するが、

俺には、面白いように理解でき
唯一、珠美よりできた。

俺が、電気の道に進もうと思ったのは、
そんな単純な動機だった..

YUKIKO先生の考え

進学について、
いよいよ希望校を絞る時期になった。

俺の中で希望は、
平林さんのいる 呉原工業高等専門学校
(電気情報工学科)だった。

しかし現実は、呉原工業高等専門学校は
偏差値が 64 と、呉原一の進学校、

呉原三津田高校と同じ難関校だ。

そのことを、YUKIKO先生に
相談したところ、

「正直、義直は、勉強に取りかかる
のが遅かった.. 偏差値 64 の高校は、
残念だけど無理!」

きっぱり言われた。

先生は、俺に、

「偏差値 64の学校に進学しようと
思っている人は、進学塾に通い
何年も努力してるの..

それに引き換え、義直が勉強し始めたの
ここ最近中学2年生からでしょ?

先生はねぇ.. 最低ラインだった
義直が、短時間で
ここまで来たの、

正直、すごい事だと
思っているよ、

例え、潜在能力があったとしても、
奇跡的な事だと、思っています。」

「珠美だったら、
偏差値 64の高校でも、
受かると思う..」

「ただ彼女は、交通費の必要がない
自転車通学でき、偏差値 61 の
私の母校でもある、

広原高校を、進学先に選びました。」

「先生はねぇ、義直は将来
いくらでも、伸びていくと
思ってるの..

あなたは、
可能性を、秘めています、

大学まで、行ってもらいたい!

しかし、ハッキリ言う!義直の
今の実力では、偏差値 45 の呉原工業
だと思います。」

「工業高校から大学への進学は、
専門教科を習う分、普通科の高校に比べ
受験は、不利となります。

どうしても義直は、電気の勉強が
したいんだよね?」

「先生は、技術の吉口先生の母校でも
ある、広島にある私立の、大学付属高校
の電気科に、進学する事を進めます。

大学付属高校の電気科なら、
学科で 上位5%の成績だったら
推薦で 大学に進めます。

その事について義直 自身、どう思って
いるのか、先生に教えて下さい。」

虫の良い話だという事は、
十分わかっている、俺は、
俺なりに考えた。

俺としては、どうしても 呉原工業高等
専門学校を、あきらめたくなかった..

又、生まれて呉原市から外に出た事の
ない 俺にとって、隣にある大きな

街広島は、土地勘もなく
経験した、環境もガラリと変り
周りに誰も知った、人もいない..

その事が、ものすごく不安だった。

YUKIKO先生に、
俺の思っている正直な
気持ちを伝えた。

YUKIKO先生は、俺の目を見て、
真剣な顔をして言った。

「ヨシ!義直の気持ちはわかった。

模試は2回ある、1回目は呉原工業高等
専門学校(電気情報工学科)で受けて
見なさい。

但し、2回目の模試は、呉原工業の
電気科で受けなさい。」

「模試の結果を見て、どこを受験するか
義直、あなた自身で決めなさい!

先生が言い出した、広島にある
大学付属高校の受験へは、私が責任を
もって、顧問として引率します。」

1回目の呉原工業高等専門学校で、
受けた模試の結果が出た。

結果は、定員80名のところ
128番だった。

1か月後2回目、
呉原工業で受けた模試の結果が出た。

結果は、定員80名のところ
45番だった。

俺は、偏差値 64 と 45 の差とは、
どういうことか、納得した。

珠美と、俺の差の現実を知った。

第一希望は、大学への道がある
広島の私立の大学付属高校
(電気科)、

第二希望は、公立 呉原工業(電気科)
を、受験する事に、俺は決めた!

俺の場合、みんなと違い、
第一希望と、第二希望の
順序が逆だった。

俺はYUKIKO先生に、その事を伝えた。

それを聞いたYUKIKO先生は、

「義直の気持ちは、よくわかりました!
先生が責任をもって
御両親へ説明します。」

先生は、今まで堅苦しく話しましたが..

「最低レベルだつた義直が、
よくぞ短期間に、ここまでやったと
褒めてあげます!」

全開の笑顔で、言ってくれた。

先生が鬼から、
超美人に、よみがえった瞬間だった!

広島の大学付属高校受験

YUKIKO先生、引率による受験

先生は、駅の窓口で
8駅先(距離にして32km)までの列車の
切符を購入し渡してくれた、

俺は、今まで経験したことの無い
人の視線を、感じまくった。

それは、超美人のYUKIKO先生への
視線だった、

目的駅に着いたら
徒歩で受験する高校まで
約37分、歩かなければいけないが..

すれ違う人、すれ違う人の視線を
感じた、中には振り返って
後ずさりしてくる者、

気勢を上げる者もいた。

芸能人は、人目を避け行動するようだが
こういう事かも、知れないと思った。

YUKIKO先生は、そんな事には、
おかまいなし、われ関せずだった。

そんな事は、気にしないで、

「義直、頑張るのよ!」と、
試験が終わるまで、待っていてくれた。

ビックリした!

正門を入った、右奥側に
米空軍から払い下げられた
ジェット戦闘機が飾ってあった。

試験が終わり、「どうだった?」
と聞かれたので、

「すごく簡単だった!」と答えた。

実際、数学の問題なんか完璧に、
できた信があった。

先生は、新発売された
香水ガムをくれた、

人間、臭いの記憶はすごい
ものだ、ガムの臭いがすると、

当時の事を、鮮明に思いだす..

受験結果

10日後、合否通知が郵送されてきた。

結果は、思った通り”合格”だった。

俺は正直、これからある 公立高校
(呉原工業)を受験する気が
なくなっていた。

その事を、恐る恐る親父に言ってみた。

趣味の散弾銃を、磨いていた親父は、
急に銃口を、俺に向けて言った、

「人生は一度しかない、逃がした
獲物は、大きい、

義直、逃がすんじゃないぞ!

それと、これまで勉強
頑張ったじゃないか、
父さんは、見ていたぞ..

努力はいつか、結果となって
必ずあらわれる。

道は突然、急にパっと開けると
言う事だ!

呉原工業は、受験する必要は無い、

呉原の小さな街に、閉じこもって
いないで、もっと違う、
風景を見てこい!

井伏鱒二の、山椒魚なんかに
なるんじゃないぞ!」

『山椒魚』

岩屋の中で、大きくなってしまい
そこから抜け出すことが
出来なくなった、山椒魚の話、

私立の高校は、公立の学校と比べ
倍の授業料がかかる、

おまけに遠距離の為、交通費も
バカにならない..

その事を親父に言うと、

「義直、金の事は気にするな!
その分、父さんに良いとこ
みせてくれよな!

義直 なりに出した答えだ、

それと、義直自身の人生だ、
だから、父さんは
何も言わない。」

「義直が思う、道に進みなさい!」
と、満面の笑みを浮かべた。

子供の俺には、世間の景気が
どうかとか?

まったく、理解していなかったが、

世の中は、OILショックが尾を引き
景気がすごく、悪かった時代である。

運をつかんだ女

呉原商業は、国道185号バス停から
畑をはさみ、

直線で 約700mの場所にある。

バスに乗り遅れたシンコが、
バスを降りたのが、8:30だった。

入試時間は、8:30集合、8:50着席
9:00~試験開始となっていた。

バス停から呉原商業は、
すぐそこに見える、

「やべぇ!」

シンコは通常の道を通らず、直線で畑の中をダッシュした。

校門が見えた!
時計の針は、8:38を
さしていた。

後、20m.. シンコの姿は消えた..

肥溜めに落ちた..

何とか、呉原商業にたどり着いた
シンコは、体を洗ってもらい
貸りた体操服に着替え、

保健室で試験を受けた。

5日後、合否発表があった..

結果は、みごと合格!

この事件が、あってシンコは、
運をつかんだ女とし、

語り継がれる事になった。

珠美・慎吾 も広原高校に合格した。
俺は、15年暮らした呉原市を離れ、

広島にある学校へ遠距離通学
する事になった。

まったく土地勘もない..
まったく友人もいない..

俺は、その事がすごく不安だった。

今まで叱られっぱなしの
お袋が、姿勢を正し言った、

「これから始まる新しい人生
自分の行動に、責任をもって
歩んでください。

母さんは、なにがあっても
あなたの事を、信じています!」

このように言われたら、悪いことは
できないもので、

「短気は!損気!」

心を入れ替え、行動しようと誓った。

昔で言う、これが元服という
ものかも知れない..

16歳になってからは、
お袋に一度も怒られたことは無い..

初めての列車通学

行く学校は、全生徒数が1600人もいる
マンモス校だった。前にも書いたが、

8駅先(距離にして32km)通学時間は
片道、約1時間45かかった。

一人で列車に乗るのも初めてだし、
そんな遠いところまで、行くのも
初めてで、不安でいっぱいだった。

俺は、3車両目に乗っていたが
列車が駅に止まるたび
人が増えるばかりで、

3つ先の呉原駅に、着いたときには、
俺が乗った車両は
既に満員状態だった。

呉原市の一番東の街にある駅で
乗車した俺は、向かい合わせで、

4人が座れる、窓際の席に座っていた。

広島駅が近くなるにつれ
乗車する人は、増えるばかり
列車は、満員だった。

列車は、

道路向こうに、火力発電所が見え
線路の枕木を作っていて、

独特な、防腐剤の匂いが立ち込める
下車する、3つ前の駅のホームに
徐々に、スピードを落としながら、

滑り込んで行った。

ホームの階段下に、セーラー服姿で
学生かばんを両手で抱え、たたずむ
女の子が目に入った。

次の瞬間、衝撃が走った!

今まで呉原では、目にした事もない、
”岡田奈々” に似た、すごく可愛い
女の子だった。

俺は一瞬で、その可愛らしさに
釘付けになった。

次ぎの日も、又、次の日も
俺は、列車の3両目
進行方向に対し、

右側の、窓際の席に座り
胸を、ときめかせながら

彼女を眺め続けた。

彼女を見る、列車のスピード的に
おそらく、後ろの4両目に乗るのでは?
と、推測する..

下車する駅も一だ!セーラー服の胸章
は、五弁の桜花、同じ街にある進学校の
生徒だ、

その下にある、短冊形をした
バッジの色は ”赤”..

学年は、俺と同じだ。

(短冊形をしたバッジの色は
赤・緑・青 3種類あり、入学した年度を
示している。)

俺は、彼女が乗車する1つ前の駅に
なると、胸がドキドキした。

そんな、列車通学が続いた..

住めば都

呉原市内から、
列車通学している生徒は、15人で、

偶然にもその内の5人は、
同じ、クラスだった。

俺の クラスの人数は、
51人で出席番号は 50番 だった。
俺の後に人がいたのは初めてで、

名字は、渡部、
俺の前 49番 は、脇原と言い、

同じ呉原市から通学していた。

呉原から通学し、
席が前の脇原とは、すぐに友達に
なった。

俺の通う学校は同じ街に 朝鮮 高・中
学校があり、この前なんか、大喧嘩を
して新聞沙汰になった。

世間は、差別しては、
いけないと言うが、

それは、奇麗ごとだ!

弱いものに、喝上げをしている
奴らを、叩きのめして
何が悪い!

そんなわけで、自慢にも、
評判の良い、学校ではなく
世間的には、素行や態度に

問題がある、不良の集まりだと
言われていた。

他の高校では、どうかわからないが
50音で、自分の席順が決まっていて、

3年間、クラス替えもなかった。

又、3年間体育の授業で
武道と言う、ものがあり
柔道か剣道を行う事に、

なっていた。

もちろん俺は、剣道を選んだ、
同学年で、クラス対抗の試合も
あったが、俺は3年間一度も、

負けた事は、なかった。

見かけは、突っ張った格好を
しているヤツも、竹刀を持たせれば
敵では、なかった。

とうぜん、俺に歯向かってくる
ヤツは、一人もいない..

と言うか、外見はどうであれ、
良いヤツばかりだった、

それと 呉原市と比べ
都会生活をしているヤツラは、
俺の知らない事を

たくさん知っていた。

俺の学校は、

「なんで、お前が
こんな学校にいるんだ?」

と、言う 超頭の良いヤツ、

とにかく、女の子にもてるヤツ
歌や楽器演奏やらせたら、

超上手いヤツ、
救いようのないバカ、
自転車で日本一周したヤツ、

個性があり、とにかく
ユニークな、ヤツの集まりだった。

クラス替えもなく
全員すぐ、仲間になれた。

国鉄はJRになり、
日本電信電話公社は、NTTとなり、
そこへ就職したヤツラは

今、どう暮らしているのだろう..
と、思う。

俺は生まれて、初めて
カープの野球観戦に
渡部に、連れて行ってもらった。

当時は、万年Bクラスで
8回になると無料で
球場に、入る事ができた。

俺が入学した昭和49年は、
お決まりの最下位だった。

小学生低学年だった頃は、
呉原にも、海岸通りから
戦時中、広原第11海軍航空廠が、

あった、長浜まで
市電が走っていた。

そこら中に、川があり
三角州の広島市内は、
地下鉄を張り巡らせる事が難しく、

路面電車が、活躍していた。

路面電車に乗り、街の中心部の
市民球場まで行く、都会の街並みは
呉原と比べ、大都会で、

急に大人になったようで、
理由は、よくわからないが
優越感に浸った。

渡部の家へ行く

4月生まれの渡部は、
早くから、大型自動二輪の免許を
取得し、

ホンダの CB750 に乗っていた。

親父の影響もあり、真空管アンプを
作るのが趣味で、回路図が頭に
インプットされていて、

休憩時間になると、回路図を
書いて、俺に説明するのだが..

申し訳ないが、理解できなかった。

市民球場は、8回になれば
無料で開放されたが
警備員の目を盗み、

球場の石垣を登って侵入し
観戦したものだ..

又、市民球場の近くには、
第二産業と言う、大型の家電屋があり
俺たちの、溜まり場だった。

渡部の家は、芸備線の向山原という
駅に近い農家で、俺の家からは、
75km以上も、離れていたが、

1時間30分かけ、呉原の俺んちまで
自慢の CB750 で迎えに来て
ヤツの家に、行ったことがある。

どでかい農家で、呉原では、
見たこともない、赤い瓦の屋根で
腰の高さまで、青いタイルが、

張り巡らされていた。

大きな玄関を、入った奥の部屋に
JBLのパラゴンと言う
卒業式の授与に使う、演題のような、

どでかい、スピーカーがあり
この前、製作した2A3という
真空管アンプがあった。

渡部が、真空管アンプの
スイッチを入れた。

2A3 真空管が、温かく点灯した。

真空管アンプは暖かな音質で、
それと、接続されたパラゴンが
発した音を聴いて、

俺は、鳥肌が立った、

今まで聴いた、こともない音が
部屋中に広がった。

驚いたのは、それだけではなかった、
親父が趣味で買ったという
パラゴンは、

車が買える値段だった。

サイモンとガーファンクルの
『サウンドオブ・サイレンス』
という、曲をかけた。

『The Sound of Silence』静寂

歌:サイモンとガーファンクル

作詞・作曲:ポール・サイモン

『The Sound of Silence』
リリース: 1964年

Hello darkness, my old friend
I’ve come to talk with you again

Because a vision softly creeping
Left its seeds while I was sleeping

And the vision that was planted in my brain
Still remains
Within the sound of silence

やぁ暗闇
古くからの友よ
また君と話したくて
来てしまった

なぜならある予感が
そっと忍び寄り
僕が寝ている間に
その種を置いて
行ったんだ

僕の思考に取り付いた
その予感は
ずっと残っている
静寂の世界の中で

In restless dreams I walked alone
Narrow streets of cobblestone

‘Neath the halo of a street lamp
I turned my collar to the cold and damp

When my eyes were stabbed by
The flash of a neon light
That split the night
And touched the sound of silence

途切れる事の無い夢を見ながら
石畳の狭い通りを一人歩いた

街灯のぼんやりとした
明かりの下で
湿り気を帯びた寒さに
襟を立てた

ネオンライトの輝きが
僕の視界に突き刺さり
夜を引き裂き
静寂の世界に触れた

And in the naked light I saw
Ten thousand people, maybe more

People talking without speaking
People hearing without listening

People writing songs that voices never share
And no one dared
Disturb the sound of silence

裸電球の下で見た
1万人か
それ以上の人びと

気持ちを伝えることなく
会話をし
意見を聞くことなく
耳を傾ける

人々の声に共有される事のない
歌を書き
誰一人として
静寂の世界を破る
者はいない

“Fools”, said I, “You do not know
Silence like a cancer grows

Hear my words that I might teach you
Take my arms that I might reach you”

But my words, like silent raindrops, fell
And echoed in the wells of silence

「愚かな人達よ」
僕は続けて言った、
「君たちは知らないんだ
静寂は癌の
ように蝕んでいく事を」

「君たちに伝えるこの言葉を
聞いてくれ
君たちに差し伸べる
この腕を掴んでくれ」と

でも僕の言葉は
静かに降り注ぐ雨だれ
のように
落ちて静寂の井戸に
こだました

And the people bowed and prayed
To the neon god they made

And the sign flashed out its warning
In the words that it was forming

And the sign said:
“The words of the prophets are
Written on the subway walls
And tenement halls
And whispered in the sound of silence.”

人々は、自分達が作った
ネオンの神に額ずき
祈りを捧げる

ネオンサインは、
文字になって警告する

それはこう伝えていた
「預言者の言葉は地下鉄の壁や
安アパートの廊下に書かれ
静寂の世界で囁かれる」と、

次に時代が、いくら経とうとも
俺たちにとって
永遠の青春時代の曲で、

どこの、文化祭に行っても、
フォークソング部が絶対に演奏していた
2曲をかけた。

風の、大久保和久 さんは
呉原の同郷である。

『なごり雪』

歌:イルカ

作詞・作曲: 伊勢正三

『なごり雪』
リリース: 1975年

汽車を待つ君の横で
僕は時計を気にしてる

季節はずれの 雪が降ってる
東京で見る雪は これが最後ねと
さみしそうに 君がつぶやく

なごり雪も 降るときを知り
ふざけすぎた 季節のあとで
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった

動き始めた汽車の窓に 顔をつけて
君は何か 言おうとしている
君のくちびるが さようならと
動くことが
こわくて 下をむいてた

時がゆけば 幼い君も
大人になると 気づかないまま
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった

君が去った ホームにのこり
落ちてはとける 雪を見ていた
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった

『22才の別れ』

歌:風

作詞・作曲:伊勢正三.

『22才の別れ』
リリース: 1975年

あなたに「さよなら」って
言えるのは今日だけ

明日になって またあなたの
暖い手に
触れたらきっと言えなく
なってしまう

そんな 気がして…

私には 鏡に映ったあなたの姿を
見つけられずに

私の目の前にあった幸せに
すがりついてしまった

私の誕生日に 22本のローソクを
たて
ひとつひとつが みんな君の
人生だねって言って

17本目からはいっしょに火を
つけたのが
きのうのことのように…

今はただ 5年の月日が永すぎた
春といえるだけです

あなたの 知らないところへ
嫁いでゆく私にとって

ひとつだけ こんな私のわがまま
聞いてくれるなら

あなたは あなたのままで
変らずにいて下さい そのままで

カープ観戦

野球観戦は、月に2回ほど
渡部や脇原と、観戦に行き
カープうどんを食って、

呉原まで帰るのが、パターンだった。

カープの歴史

1949年9月20日 、原爆による壊滅的
被害からの復興を目指し、市内を
流れる太田川は、鯉の産地、

又、焼け落ちた城は『鯉城』とも
呼ばれていたため
球団名を広島カープと決定し、

日本野球連盟に、加盟の申請を行い
セ・リーグ参加承認の
通知を受けたのが、始まりである。

代監督は、石元秀一
本拠地は、広島総合球場。

核たる親会社もなく、球団組織に
関するバックアップも十分ではなく
広島商工会議所で開かれた、

球団発会式に、参加した監督は
この時点で、契約選手が一人も
いない事実を、知らされる。

プロ野球に、関わった者は
皆無だった、ため選手集めは
監督・石本さんの、

人脈に頼るしか、なかった。

石本さんは、既に引退した選手や
かつての教え子まで声をかけ
なんとか、24人を集めた。

1950年、この年優勝した
松竹ロビンスに 59ゲーム差を
つけられ8位(最下位)

さらに、勝率3割に
到達できなかった、チームは
両リーグ通じ、広島だけだった。

(勝率.299)5月には、
選手に支払う給料の、遅配が発生、

1951年、給料や合宿費が支払えず
3月16日から甲子園で
開催予定であった、

準公式トーナメント大会の遠征費も
捻出できないほど
経済的に追い詰めら、れてしまう。

選手達は、
「甲子園まで歩いていこう!」と
意気盛んだ。

深刻な球団経営状態から
慢性的な給料の遅配や
遠征費が払えない事態となり、

一時は、球団散の決定がされた。

3月14日の役員会で、下関市に
チームがあった、大洋との合併の
決定がされる。

状況を打開するために当時の金額で
400万円が必要となり
当時の石本監督は、

金策に奔走した。

その事を知った広島市民が
球団の資金難を救うべく
酒樽に募金を募った。

みんな、生活が苦しい
中、募金した..

“樽募金”で、球団存続に必要な
400万円が集まり、

球団も四方八方手を尽くし
解散を回避された。

しかし、資金も無く
有名選手など、取れるはずもない
カープは、

負け続け、リーグのお荷物球団と
バカに、され続けた..

呉原でのカープ

カープのユニホームは、赤の”C”に
紺色の帽子とアンダーシャツ、

紺色に、赤いストライプが
入った、ストッキングだった。

カープといっても、呉原で試合がある
わけでもなく、テレビをつければ巨人戦
しか放映されていない。

むしろカープより、呉原でキャンプを
行っている、南海ホークスの方が
身近だった。

街で売っている野球帽も、”G”マークの
帽子ばかりだった。

アンチ巨人の俺は、さがしまくって
数少ない、”H”マークの帽子を
被っていた。

小学校の頃は、
まだ、軍隊上がりの先生がいて
よく言われた。

「強きをくじき、弱きを助ける!
それが男だ!何度、倒されても良い!
正々堂々と正面から、ぶっかって行け!
それが男だ!」

このように、教育された俺は、
カープが好きというより、金満巨人が
大嫌いだった、だけである。

カープ初優勝

昭和50年(1975年)広島カープの帽子
が紺から赤に変わり、原爆投下から
30年が経った年、

俺は、広島でカープの初優勝を
体験する事になる。

いつもなら鯉の季節までのカープが
5月は粘りの戦いを見せ、大洋に勝ち
阪神を抜いて首位に!

しかし、6月17日からのヤクルト3連戦
最初の2つを落とし5連敗
当初の勢いは、全くなく4位に転落..

ただ、この年は違っていた
前半戦を終え、首位・阪神とは
わずか、1.5ゲーム差!

オールスターゲームで、山本浩二と
衣笠祥雄 選手が、2打席連続アベック
アーチを放つと、

『赤ヘル旋風』が吹き荒れた。

後半戦に入ってもカープの勢いは
衰えず、夢のまた夢と思われていた
優勝が、現実味を帯びてきた。

1975年(昭和50年)順位推

勝敗 順位 ゲーム差
4 8勝9敗1分 4 首位3
5 12勝8敗3分 2 首位0.5
6 12勝9敗1分 1 2位0.5
7(オールスター前) 5勝6敗5分 3 首位1.5
7(オールスター後) 3勝2敗 3 首位1.5
8 13勝9敗2分 1 2位1.5
9 13勝3敗4分 1 2位1.5
最終 6勝1敗 1 2位4.5

俺には、忘れられない試合がある、

9月15日(日)曜日に行われた巨人戦だ。

脇原をさそい、呉原から観戦に行ったデーゲームだった。

9月の中旬だというのに、快晴で温度は30℃以上あった。

試合は、12、13日と
連勝していて、今日、勝ば、金満巨人に三タテを食らわす、ことができる
大事な試合だった。

近くのSOGOで、弁当を買い込み
市民球場のゲートを潜った、

席はライト側、指定Aだ、通路を
抜けると芝生のグラウンドが
目に飛び込んできた。

カープのシート打撃練習が
行われていて、乾いた打撃音が
ここちよく響いていた。

主力の 山本浩二選手 は、何本も
フェンスを越え、外野席にボールを
叩き込んでいた。

それと先月リリースされた

『それ行けカープ!』が、

球場に流れ、俺たちの気分を
高揚させた。

『それ行けカープ
〜若き鯉たち〜』
リリース1975年 8月

満員に膨れ上がった球場は、
外木場-高橋一三 で試合が始まった。

柴田、上田、末次 3人で押さえ、
1回の表は、三者凡退に仕留めた。

「よっしゃ~!」カープの攻撃だ
多くの応援旗が振られ、笛太鼓の応援が
始まった。

1番、大下選手がフォアボールを選び
塁に出た、続く2番、三村選手は
ライト前にヒットを放ち、足を使った
得意の、

1-3塁の形になった。

3番、ホプキンス選手が
タイムリーヒットを放ち
1点を先制した、

1塁にいた三村選手は、足を使い
3塁を落とし入れていた。

ランナー1、3塁、すでに市民球場は
1回の裏にして、紙吹雪が舞い最高潮に
達していた。

鋭い打球音が響いた
4番、山本浩二選手の放った打球は
右中間を真っ二つ!

1塁にいたホプキンス選手まで生還し
いきなり3点が入った。

先発の外木場投手は、快調に
投げていた3回裏、三村選手が放った
打球がライトスタンドに消えて行った..

「よっしゃ~!」これで 4-0 だ!

快調に飛ばしていた外木場投手が
7回につかまり、3点を取られた
末次選手がフォアボールで出塁し、

バッターは、4番、王選手..
ここで、1発でたら逆転されてしまう..

王選手に強い、渡辺投手に替わった
渡辺投手は、あっさりとセカンドゴロに
しとめた。

アナウンスが響いた、

「ピッチャーの交代をお知らせします。
渡辺に変わりまして、

ピッチャー宮本、」

球場では、すぐに仲間になった
見知らぬ おっちゃん達と、

大声で声援を送った。

いつものように宮本投手が締め、
巨人に4-3で勝利、よっしゃ!
巨人を三タテだ!

俺たちは、昭和50年、1975年、
(高校2年生秋)

奇跡を体験する事になる。

カープの改革

地方球団で、実績のないカープには
強い者へのコンプレックス
(負け犬根性)が深く根付いてた。

ジョー・ルーツ、打撃コーチが監督に
就任、ルーツ改革は、コンプレックスの
排除から始まった。

ルーツ監督は、ユニホーム変えを
球団に求めた。それは、当時、日本で
どこの球団も採用していなかった
“赤”への変更だった。

理由は、赤は燃える色、戦う色、
選手を生かせる色、日の丸の意味もある

広島と同じCマークをつけ赤を採用して
いた大リーグ、シンシナティ・レッズを
模したわけではない、という事だった。

当時のカープは、紺色ベースの
ユニホームが定着していた。

アンダーシャツからストッキングまで
全て変えるとなれば経費の問題も出る。

それでもルーツ監督は引かなく
結果、折衷案せっちゅうあんで帽子とヘルメット
だけが、赤色に変わった。

今でこそカープの代名詞とも言える
“赤ヘル”だが、当初の評判は
よくなかった。

弱いチームの“赤”は やはり違和感が
あり主力打者の山本浩二選手は、
今まで見たこともなく、とにかく
恥ずかしかったそうだ。

ところが、恥ずかしい“赤ヘル”が
勝ち進むとともに、

誇らしさの象徴となっていった。

遠征先では、
赤い帽子を、かぶった万年Bクラスの
選手たちは、運動会じゃないんだぜ!
とヤジられた。

最初は、違和感をおぼえていた選手たち
も勝利を重ね、世間から『赤ヘル軍団』
と言われるようになって行くとともに、

不思議なもので、赤が誇りに
思えるようになったそうだ。

ルーツ監督は、全力疾走しない選手に
10万円の罰金を科すと宣告した。

できない選手は、問答無用で2軍落ち
(平均年俸は一軍の3分の1以下)選手は
震え上がった。

凡打でも全力疾走..

これは、相手に相当な重圧を与える
ことになった。

カープには足がある、
そんなイメージは、
すぐに定着していった。

この年、開幕1カ月足らずでルーツ監督
は、帰米したが積極果敢な走る野球を
古葉監督が継承した。

「ひょっとして..」 後半戦が始まると
球場のテンションが一変した。

入場券は連日完売、4~5,000人の
閑古鳥もたびたびだった広島市民球場は
何度も3万観衆で膨れ上がり、

取材に訪れた報道陣も、一塁側ベンチに
入り、きらないようになって行った。

高まるボルテージは、チームへの重圧と
なったが、進撃は止まらない..

中日、阪神も粘り1ゲーム差に3チームが
ひしめいた、カープが抜け出したのは、
9月に入ってからで、

9月5日からの後楽園3連戦を2勝1分け、
同12日からの3連戦を、3連勝をかざり
巨人を返り討ちにした。

俺たちは、この目で3連勝を見届けた。

残り2試合(10月15日)マジック1で
乗り込んだ後楽園は 、”赤一色” で埋め
尽くされ、5万人の超満員..

カチ、カチ、カチ!約2万本の広島名物
しゃもじ応援で、球場は、特異な空気に
満たされていた。

外木場-新浦の両先発で
試合が始まった。

5回に大下選手の二塁打で1点を先制
外木場投手は、落ち着いていた。

しかし相手は、V9から2年経ったとは
いえ、V経験者ぞろいの金満巨人、
少しも油断はできない。

最初のピンチは、6回に訪れた、

1死2、3塁、打席には、王貞治..

次の打者は、外木場投手に相性の
いい、末次利光だった。

勝負するか、敬遠か、
古葉監督は、迷わなかった。

敬遠で満塁策..

結果は、4・6・3の併殺!
万歳コールが球場に渦巻いた!

9回表の攻撃、1死一塁、打席の
大下選手と、三塁コーチの古葉監督と
目が合った。

あうんの呼吸でプッシュバントが決まり
もう押せ押せ..

その直後だった、

鮮やかな放物線が東京の空高く、
高く舞い上がった。 

ホプキンス選手の打球は、
右翼席中段へ突き刺さった!

4-0 勝負は決した。

そして、ついに、
栄光の瞬間が訪れる!

午後5時18分、2番手金城投手が最後の
打者、柴田を左飛に打ち取ると、

三塁ベンチが一斉にはじけた、
スタンドから大量のファンがなだれ込み
主力の山本浩二選手は、手で顔を覆って
泣いていた。

1975年(昭和50年)10月15日 カープ、
金満、巨人の目の前で胴上げ!

球団創設26年目!初優勝!何もかも
原爆に焼き尽くされ、絶望の底に突き
落とされた昭和20年8月6日の悲劇から
30年、

広島に奇跡が、起きた瞬間だった。

この日、俺たちは、
学校にあるテレビで
この映像をみて感動した、

先生や仲間と無意識に抱き合い
心の底から喜び合った。

すぐさま列車に飛び乗り、2つ先の
広島駅に向かった、駅を出て驚いた
見知らぬものどうし肩を組み、

あちらこちらで、胴上げが始まった。

整理にでた警察官も、
だれとなく抱き合い歓喜の嵐だった。

そこらじゅうの喫茶店では、
コーヒーが無料だった。

あれから幾度もカープの優勝は目に
したが、あの日は特別で、

広島中が、喜びに燃えていた。

呉原では、見ることのない光景を
俺は、確かに、この目で体で体験した。

嬉しくてたまらなかった..

悲願のリーグ優勝(1975年10月16日付中国新聞朝刊) コラム「球心

強じんな雑草 いま大輪の花
真っ赤な真っ赤な、炎と燃える
真っ赤な花が、いま、まぎれもなく
開いた。

祝福の万歳が津波のように寄せては
返している。

苦節26年、開くことのなかった
つぼみが、ついに大輪の真っ赤な
花となって開いたのだ。

カープ表彰選

MVP : 山本浩二 (29歳)
首位打者(.319)、HR 30本、
盗塁 24

盗塁王 :
大下剛史(31歳)盗塁44

最多勝・最優秀投手・沢村彰 :
外木場義郎(30歳)20勝13敗

最優秀防御率 :
安仁屋 宗八(31歳)1.91

プロ1年目の 高橋 義彦 選手
(背番号40)は、一度も試合に
出場していないが、

この年、ドラフトで取った、
北別府 学(背番号20)
山根 和夫(背番号35)
投手とともに、

カープの黄金期を、作ることになる。

電気工事士取得

実は、原付バイクの免許より
先に取得した資格がある、

電気工事士の免許だ。

この前、中学を卒業したばかりの
ヤツに、取れる資格ではない、

電気工事士の試験は、
学科と実技がある。

5月にある学科の試験に
合格しなくては、実技の試験を
受けることはできない。

学科試験内容は高校電気科で
習う電気工学レベルだ、
(高校の電気科課程を終了すれば
学科は、免除になる。)

故に、この前まで中学生だったヤツに
パスする事は、無理なのだ。

しかし 俺の学校では、1年生から
強制的に受験させられた、出題される

問題は、計算をして
4つの中から、答えを選ぶ選択方式だ、

内容は、過去に出題された問題が多く
俺たちは、過去に出題された、
問題集を解かされた、

しかし、わかるはずは無い..

なぜなら、まだ習って
もいない事なのだから..

俺は、こう来たらアア来ると
回答のパターンを憶えた。
(問題の中身を理解している
わけでは無い..)

問題用紙が配られた、
出題問題の10%は、パターンの勉強で
解けたが、

後の90%は、まったくわからない..

経験からして複数の選択問題は、
最初にこれだ!と思う答えは、

だいたい、間違っている。

俺は、自分なりにこれだ!
と思うものを外していった。

1/3の確率だ..まったくわからない..
残り90%の問題は、3つの中から勘で
選んだ。

学科は、60%合っていたら
パスできる..
運が良かったのだろう..

出題された問題の内容は、まったく
理解していなかったが、学科試験に
パスしてしまった。

パスしてしまった、と言ったのは、
8月に行われる、

実技試験の練習する為に、夏休み
学校に通い、休みがなくなって
しまうからである。

と言うことで、

俺には、高校1年の夏休みは
なかった、実技試験は
とにかく時間勝負で、

いかに金属管を、一発で
求められている形に
曲げるかに、かかっている。

口径19mmのパイプを
ベンダーという道具を使い
手曲げするのだが、

なかなか上手く、まげられず、

俺は何本、お釈迦にしたか
数えられない..

夏休みの終盤になっても
定められた時間内に
できなかった、

そんなこんなで、広島市内にある
産業会館で開催される、実技試験に
臨むことになった。

試験会場に入り
俺は、ビックリした!

周りは、ビシッと作業服を着て
腰道具をまとった
社会人ばかりで、

ラフなジーパン姿で、手提げ袋に
道具を入れたヤツなんか
俺一人だった。

場を間違えたと、怖じ気づいた..

超緊張したが、
運よく、時間内に
終えることができた。

運よくとは、配管するのに必要な
道具は、試験会場に用意されて
いるのだが、

絶対数がなく
早い者順の、奪い合いに
なるからである。

俺は運よく、待つことなく
すぐに、使うことができた。

10日後、合否が入った封筒が
郵送されてきた。

恐る恐る、開封した..

合格 の2文字が、目に飛び込んできた
俺は、すぐに親父に報告した。

親父は権八(飼っている犬)の
毛づくろいを、していた。

「どうした、義直?」

「親父、これを見てくれ!
夏休み学校に通って、練習した
電気工事士の試験、合格した..」

親父は、俺が手渡した合格通知を
見ながら、

「義直、やったじゃないか!
努力は、認められると言うことだ、

まずは、一つ良いところを
見せてくれたな!よくやったな!」
と、褒めてくれた。

と言うことで、

俺は、原付免許取得できる
11月の誕生日前に、

電気工事士の資格を、手にする
ことが出来た。

バイクで行動範囲が広がる

原付免許取得

クラスの仲間は、16歳の誕生日を
迎えたら、競うようにバイクの免許を
取得していた。

話題は、バイクの事ばかりだった
俺も11月の誕生日を迎え、

すぐに原付バイクの免許を取得した。

取得するのに、広島空港の先にある
免許センターで試験を受けた。

原付バイクの場合、学科試験しかないが
覚えるのが苦手な俺は、道路交通法規を
得意な画像として覚えた。

結果は、一発合格だった、

免許証が、交付されるまでの
1か月は、すごく長く感じた。

免許証は、呉原市内にある広原警察で
交付を受けた。

年が明けて親父に、
白い、ホンダ モンキーを
買ってもらった。

俺は、嬉しくて
毎日ピカピカに磨いた、

それよりも、行動範囲が
格段に広がり、野呂原山に登ったり
呉原市から時間をかけ、

広島の友人の、家にも行った。

自動二輪取得

俺たちも、2年に進級した。

2年生になると、クラスでの
もっぱらの話題は、二人乗りができる
自動二輪の、免許を取得する話だった。

エンジンの排気量で区分れていて
小型は、125cc以下
中型は、400cc以下、

それ以上が、大型となっている。

俺たちのクラスでは、5人が大型免許を
取得していて、合格するまで平均4回は
実技試験に落ちていた。

二輪の課題は 一本橋・S字・クランク・
スラローム・急制動 で、

取得できた仲間が、試験のポイントを
教えてくれた。

俺は二人乗りのできる、小型の免許取得
に挑戦したが、

すでに2回、実技試験に落ちていた
とにかく一本橋が、苦手だった。

一本橋とは、長さ15m、幅30㎝、高さ5㎝
の細い板の上をゆ~っくり、バランスを
たもちながら、通過する項目のことで、

正式名称は「直線狭路」
第1段階において
発進停止を習得した。

ただ通過するだけでなく通過タイムも
設けられていて、規定タイムより、

短い時間で、通過すると減点となる。

通過タイムは、小型自動二輪で5秒以上
普通自動二輪で7秒以上、

大型自動二輪で、10秒以上だ。

2度のチャレンジで、大型免許を
取得していた、

後ろの席の、
渡部の話を、真剣に聞いた。

渡部は、的確にポイントを
教えてくれた。

① 一本橋に乗る前の目線は前方へ
② 勢いをつけ乗り上げる
③ 橋に乗ったらすぐに半クラッチに
して、アクセルは、開け続ける
④ スピードは、リアブレーキで調整
するんだ、と詳しく教えてくれた。

三度目のチャレンジで、

なんとか、自動二輪小型免許取得に
成功した。

俺は、小型免許取さえ取得できれば
限定解除(免許の条件変更)にて、

必要なら、中型や大型を取得すれば
いいやと思っていた。

早い話、
小型免許取さえあれば、大型バイクに
乗っていて警察に止められても、

条件違反(眼鏡等)と同じで
無免許とはならない。

限定解除の試験は、0から免許取得に
チャレンジするのより、はるかに
楽であったが、

結局 、自動二輪小型以上の免許を
取得することはなかった。

カワサキ TR-125

俺には、欲しくてたまらない
バイクがあった。

燃料タンクが鮮やかな、黄緑色した
カワサキのTR-125というバイクだ。

鮮やかな黄緑色から『雨蛙号』と
名付けていた。

毎朝、穴のあくほど、
雨蛙号が載っている、雑誌を
ながめては、通学した。

価格は、13万8千円
高校2年生の夏休みは、
雨蛙号を手に入れる為、

バイトに、明け暮れた、

バイトの内容は、木切れから
ひたすら、打ち込んである釘を
引き抜く単純作業だったが、

10万円貯まった。

親父に頭を下げ、
足らず分を出してもらった、

親父は..

「そんなに欲しいのか?
出世払いだぞ!」と、

笑いながら、気前よく出してくれた。

雨蛙号を注文し、届くまで
1週間かかったが、

俺には、1週間が100年に感じた。
ついに、雨蛙号が俺の手元に届いた!

俺は、嬉しくて
長く顔を、合わせていない
慎吾のところに、

真っ先に、見せに行った。

慎吾を後ろに乗せ、ガキの頃、
一緒にサザエなど捕り、焼いて食った
磯が見える、海岸まで、

細い道を、風を切りながら
ぶっ飛ばした。

海に突き出た、
離合できるスペースに
雨蛙号を止めた。

被っていたヘルメットを
脱ぎながら、慎吾が言った、
「おい!義直、狭い道で
そんなに、飛ばさないでくれよ!

しかし、この雨蛙号いい加速
してるよなぁ..
鮮やかな、黄緑色も奇麗だし..」

俺は、雨蛙号のエンジンを止め、
ポケットに入れいた、

柿を慎吾に、渡しながら言った。

「そうだろ!この夏休みバイトして、
苦労して手に入れたんだ..」

慎吾が柿に噛り付きながら、
話し出した..

「しかし、この場所、
すごく、懐かしいよなぁ..

夏休みには、ここに来ては、
サザエや瀬戸貝を取って
焼いて食ったっけ..」

「そうそう、

当時、ボーリングが流行っていて、
隣町のボーリング場まで
チャリで、よくいったよなぁ..」

「お前、ボーリングが全然だめで、
必殺!みぞ掃除!100点以上のスコアー
出したこと、なかったっけ、

ボーリング場じゃぁ、

南沙織の『17才』♪
平山三紀の『真夏の出来事』♪

が、よくかかっていたっけ..」

『17才』

歌: 南沙織

作詞:有馬三恵子
作曲:筒美京平

『17才』
リリース : 1971年

誰もいない海
二人の愛を 確かめたくて
あなたの腕を すりぬけてみたの
走る水辺のまぶしさ
息も出来ないくらい
早く 強くつかまえに来て
好きなんだもの
私は今 生きている

青い空の下
二人の愛を 抱きしめたくて
光の中へ 溶けこんでみたの
ふたり鴎になるのよ
風は大きいけれど
動かないで おねがいだから
好きなんだもの
私は今 生きている

あつい生命(いのち)に まかせて
そっとキスしていい
空も海も みつめる中で
好きなんだもの
私は今 生きている
私は今 生きている…

『真夏の出来事』

歌: 平山三紀

作詞:橋本淳
作曲:筒美京平

『真夏の出来事』
リリース : 1971年

彼の車にのって
真夏の夜を走りつづけた
彼の車にのって
さいはての町 私は着いた
悲しい出来事が 起らないように
祈りの気持をこめて
見つめあう二人を

朝の冷たい海は
鏡のようにうつしていた

朝の冷たい海は
恋の終りを知っていた

彼の両手をとって
やさしいことば さがしつづけた
彼の両手をとって
冷たいほほに くちづけうけた
悲しい出来事が 起らないように
祈りの気持をこめて
見つめあう二人は

白いかもめのように
体をよせて歩いていった

白いかもめのように
涙にぬれて歩いていった

悲しい出来事が 起らないように
祈りの気持をこめて
見つめあう二人を

朝の冷たい海は
鏡のようにうつしていた

朝の冷たい海は
恋の終りを知っていた

I love you so much darling,
but we're apart now! Good-bye!

俺は、「玉転がし」と、
よんでいるが!

ボーリングは、超苦手だった..

慎吾は、センスが良く、
164点以下の、スコアーを
出した事は、なかった..

「義直、お前、
ボーリングは、全然だめだが、

剣道をやらせたら、
かなうやつはいなかったよなぁ..

お前の学校では、武道とかいって
3年間授業があるって、
言っていたっけ?」

ボーリングが上手い慎吾に、
ここぞとばかりに、
剣道の話をしてやった。

「俺は、今まで負けた事はないんだ..

この前のクラス対抗戦で、
2段だというやつに
勝ったんだ。」

慎吾が思い出したように言った。

そうそう!お前、
俺は男だ!の『森田健作』に
なりたかったんだよなぁ..

『さらば涙と言おう』

歌: 森田健作

作詞:阿久悠
作曲:鈴木邦彦

『さらば涙と言おう』
リリース : 1971年

さよならは誰に言う
さよならは悲しみに
雨の降る日を待って
さらば涙と言おう

頬をぬらす涙は
誰にも見せない
こらえきれぬ時には
小雨に流そう

さみしさも悲しさも
いくたびか出逢うだろう
だけどそんな時でも
さらば涙と言おう

青春の勲章は
くじけない心だと
知った今日であるなら
さらば涙と言おう

まぶたはらす涙も
こぼしちゃいけない
こらえきれぬ時には
まつげにためよう

恋のため愛のため
まっすぐに生きるため
泣けることもあるけど
さらば涙と言おう

今年のカープは違う!
俺は、話を切り替えた。

「呉原じゃぁ野球観戦なんか
めったに、いかないよな..

今年のカープ強いだろ?

俺は、もしかしたら
優勝するんじゃないかと思ってる。

広島市民球場は、8回になると解放され
無料になるんだ、だからクラスの仲間と
しょっちゅう通ってる。」

慎吾が口の中にあった種を、
吹き出し、話し始めた。

「俺の通う広原高校は、バイクに乗るの
禁止なんだ、義直が羨ましいよ..

しかし、少し会わないうちに
お前、ずいぶん垢抜けたよなぁ..」

俺も柿に、噛り付いた。

「そんなに、変わったかなぁ?
確かに、呉原にいたら
体験できない、事ばかりだ..

それと、電車通学も悪くない、
とびっきり、かわいい子
みつけたんだ!」

慎吾は、その話を聞いて、
羨ましそうに言った。

「お前は、いいよなぁ..
大学受験なんか無いんだから、
珠美もそうだけど、俺たちは、
受験のために、勉強ばかりだ..」

その話を聞いて、
「俺は、高校生活を満喫している
んだなぁ..」と、気づいた。

「そうそう.. 運をつかんだ女、
シンコは、元気にしてるか?」

シンコと言う、言葉を聞いて、
慎吾は、笑顔になった。

「シンコは、相変わらず元気だ、
卒業したら、ブライダル関係の会社に

就職し、スタイリストになるんだと
頑張っている!」

シンコも、元気でやっていると聞き
俺は、ホッとした。

「そっか..
シンコ しゃべらなかったら、
岡崎友紀 に似て、

結構かわいいしな?」

それを聞いた慎吾は、
がぜん笑顔になって、

「そうか!義直、お前もそう思うか!?
シンコ、口は悪いが良いところ
結構、あるんだぜ!」

と、満面の笑みを浮かべた。

俺は「そうだよな!」と言って、
山本精米店まで、慎吾を送り届けた..

五弁の桜花の彼女ができた。

偶然の出来ごと

俺が通学している呉原線は、
チョットした事でよく止まる。

台風が近づいているようで、
今日は、14:25分の広原行きを
最後に、運休するそうだ、

授業は、午前で終わるとの事だ、

「よっしゃー 今日は、
早く帰れるぞ!」

ひとつ前の、列車に乗ろうと、

息を切らしながら
ダッシュで駅に、向かった。

駅に着いたらどこの
学校も授業を、早く切り上げ
ホームは、人でいっぱいだった。

俺は、いつも後ろの車両に乗るが
階段を下りて、
すぐの車両に乗ろうと、

列車を待った..

6両編成の列車がホームに
入ってきた、

どの車両も、人がいっぱいだ..

3つ前、広島発の列車は、
すでに満員だった、

俺は、何とか列車に乗り込んだ、

発射のベルが鳴っていた..

ホームの階段を駆け下りてくる
セーラー服の女の子が、
俺の前に、飛び乗ってきた。

彼女を見て俺は、
頭が真っ白になった。

初めて列車通学をし
今まで眺め続けていた、
同じ街の進学校に、通う..

”岡田奈々”だった。

俺は、彼女が押しつぶされないように
壁ドンの形で、空間を確保し
彼女を防御した。

彼女との距離は、1cmもない!

俺んちの庭に咲く、大好きな
沈丁花の いい香りがした。

俺の心臓は、破裂しそうに
バクバクだった、

隣の駅に着き、少し人は少なくなったが
彼女が下りる次の駅まで、壁ドンの形を
たもち、彼女を防御した。

時間にして、14分くらいだが、
俺には、1時間以上に感じた。

列車を下りるとき、俺に向かって
彼女が軽く、

お辞儀を、したように見えた。

そういうことがあり、彼女とやたらと
目が合うことが多くなった。

俺の頭は毎日、彼女の事でいっぱいに
なった、彼女の事を思うと宙に浮いた
ような感じだ..

これが、恋というものかもしれない..

『センチメンタル』

歌:岩崎宏美

作詞:筒美京平 作曲:阿久悠

『センチメンタル』
リリース : 1975年10月25日

夢のようね今の私 しあわせ
あの日 めぐり逢えたあなた
恋のめばえ
ときめく胸を あなたに伝えたいの
好きよ 好きよ 好きよ
ブルーの服を バラ色に
私は変えてみたの そんな気分よ
十七才

もしも あの日逢えなければ
私は
恋の夢も 知らぬままに
生きていたわ
予期せぬことが 二人を結びつけた
好きよ 好きよ 好きよ
かかとの高い しゃれた靴
私ははいてみたの そんな気分よ
十七才

明日はきっと
あなたが逢いに来るわ
好きよ 好きよ 好きよ
素敵な髪を カールして
私は見とれている そんな気分よ
十七才

ラー
(とてもやさしい)
ララララーラーラー
(すてきなあなた)
ラー
(とてもやさしい)
ララララーラーラー
(すてきなあなた)
ラー
(とてもやさしい)
ララララーラーラー
(すてきなあなた)

ある日突然、道はパッと開ける!

そのようなことがあり、
一か月も経った、だろうか..

俺は、呉原に帰るため脇原たち5人と
ホームの一番後ろの、屋根のない下に
設置してある、ベンチに腰掛け、

ふざけながら、
列車が来るのを、待っていた。

ホームの床に張り付いたガムを
長細いヘラを使って剝がしながら駅員が
俺たちのところに、やって来て、

「お前たち、ガムをそこら中に捨てるん
じゃないぞ!」と小言を言って、

立ち去ったときだった
俺は、目を疑った..

いつも、前の車両に乗る
セーラー服姿がまぶしい、
あの”岡田奈々”が、

俺たちの、
ところにやってきた。

「あのぅ.. 渡したいものが
あるのですが..」

初めて、彼女の声を聞いた。

彼女の姿を見るだけで、心臓バクバクな
俺は、頭の中が真っ白で、
思考力 0 だった、

脇原 の声が聞こえた、

「おい!脇屋、彼女
お前に、言ってるぞ..」

我に返った俺は、
「なんでしょうか?」たぶん
そういったと思う..

彼女は、
カバンの中から、手紙を取り出し
俺に渡した、

「この前は、有難うございました。
この手紙、読んでください!」

これ、もしかして世間で言っている
ラブレターというものだろうか?

それを、見た脇原たちは、

「こいつ学校でいつも、あなたの事を
話ているんですよ。決して悪いヤツ
じゃぁありません、

相手にして、やってください。」

そのような事を、言っていたと
思うが、

俺には、記憶がない..

手紙を俺に渡し、彼女は、
いつも乗るホームの、前の方に
走り去っていった。

家に帰り、部屋に飛び込んだ俺は、
学生服の右ポケットに
押し込んでいた、

彼女からの、手紙を手にした。

白い洋封筒の裏には、
”藤原あずさ”と名前が書いてあった。

それを目にした俺は、
彼女の名前、藤原あずさ と
言うんだと、初めて知った..

恐る恐る封筒を開け、中の便箋を
取り出した。

便箋は、洋封筒に入るよう
三つ折りに、折りたたまれていた。

便箋を広げ、俺は読み始めた、

女の子らしい、奇麗な丸文字で
書いてあった..

名前は、 藤原あずさ、五弁の桜花
進学校の普通科に通う、俺と同じ
2年生だと書いてあった。

俺のことなど彼女は、まったく気づいて
いないと思っていたが、

1年生のときから、彼女も俺の事が
気になっていたと、書いてあった。

満員列車壁ドンでは、自分の事を
保護してもらい、とても嬉しかったと
書いてあった。

いつも俺は、親父が使っている
MG5の整髪料を、つけているが、

とても、いい香だったそうだ..

大学進学に向け、五弁の桜花
進学校では、勉学のさまたげになる
恋愛は、禁止だそうだが、

可能なら、通学の行き帰りでは、
普通に、挨拶や話がしたいと
最後に書いてあった。

「親父!MG5やったぞ!」俺は、
嬉しくて心の中で叫んだ!!

それからというもの俺は、
毎日が楽しくてしょうがなかった。

自分が中心に、
地球が回っていると思った。

俺は洗面所に置かれている、
親父のMG5の香りを、
めいっぱい、吸い込んだ、

「うん.. いい香りだ!」

親父が、髭を剃りにやってきた。

「義直、MG5が どうしたって..?
しかし お前、最近やけにご機嫌だな?

なにか、いい事があったか!?」と
髭を剃りだした。

「親父!MG5いい香りだよなぁ..」と
言う俺を横目に、

「そうか?昔から、使っている
からなぁ..」と親父は、髭を剃り
続けていた..

彼女への返信

いよいよ、
YUKIKO先生に教えてもらった
武器を使うときが来た!

名前は、脇屋 義直、工業科電気科
の、2年生です。

電気の勉強がしたく、且つ大学まで
進学したく、朝6:00過ぎに起床し、
呉原市から片道 約1時間45かけ
付属高校に通学しています。

呉原市を離れ、見知らぬ広島への
通学は、不安で不安で
いっぱいでした。

初めて目にするもの、全てが新鮮で
車窓を眺めて、いたときでした。

突然!あずささんが
僕の目に、飛び込んできました。

あまりにもの可愛さに
僕は、衝撃をうけました..

俺が感じたことを、正直に便箋に
かきなぐった。

書きたいことが、いっぱいあり
気づいたら便箋は、3枚になっていた。

誤字脱字、文法的にも
おかしな、文章だったと思う。

彼女と同じように、便箋を三つ折りにし
白い洋封筒に収め、

裏に、脇屋 義直 と書いた。

ポケットに、洋封筒を押し込み
彼女が乗ってくる、4両目 中ほど
右側のドアの近くに、乗り込んだ、

彼女が乗車してくる駅まで
40分以上、かかるが..

時間間隔は、なかった。

あっという間に、彼女が乗車する
駅のホームに列車は、
滑り込んでいった、

列車のスピードが徐々に落ちていき..

彼女が、いつも乗車する
ホーム階段下に、
列車は、止まった。

エアー音と、ともに扉が開た。

次の瞬間、光り輝きセーラー服姿で
カバンを前に抱えた彼女が
俺の目の前に現れた。

目が合った瞬間、彼女は、
にこりと笑い
列車に乗り込んできた。

心臓が口から飛び出しそうな俺は、
ポケットに、しまっておいた手紙を
彼女に渡した。

それが俺には、精いっぱいだった、
2つ先の降りる、駅に着くまで
10数分だが、

俺には、すごく長い時間に感じた
彼女と、話すことは無かった、

列車を降りた、彼女は軽く会釈をし、
俺と反対方向に消えていった..

次の日から、彼女が乗ってくる
前から4両目、真ん中の右側ドア
付近に乗るようにした。

手紙を渡した次の日、
同じように、彼女が乗車してきた。

「おはよう..」
爽やかな声が聞こえた、
心臓バクバクの俺は、

小さな声で「おはよう..」と
いうのが、やっとだった。

うつむきながら「これ..」と
彼女は、俺に手紙をくれた。

見かけ的に、長い学ランを着たり
突っ張った髪型をしてるやつもいたが、

俺は、そんな恰好は、
ダサイと思った。

中村雅俊とか、芸能界では、
長髪が流行っていて、俺も漏れずに
長髪にしていた。

『俺たちの旅』

歌:中村雅俊

作詞・作曲:小椋佳

『俺たちの旅』
リリース : 1975年

夢の坂道は 木の葉模様の石畳
まばゆく白い 長い壁
足跡も影も 残さないで
たどりつけない 山の中へ
続いている ものなのです

夢の夕陽は コバルト色の空と海
交わってただ 遠い果て
輝いたという 記憶だけで
ほんの小さな 一番星に
追われて消える ものなのです

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ
背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ

夢の語らいは 小麦色した帰り道
畑の中の もどり道
ウォーターメロンの 花の中に
数えきれない 長い年月
うたた寝をする ものなのです

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ
背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ

学ランだけは、恰好をつけ
少し丈の長い、中ランを着ていた。

清潔なセーラー服の彼女、かたや長髪で
中ランを着たやつ、今思えば大勢の乗客
たちに、俺たちは、

どんなふうに、映っていたんだろう..
と、思う。

俺は、彼女から もらった手紙を
早速、読んだ、

手紙には、可愛いと いってもらい
すごく嬉しかったこと、

漢字の間違いは、あったけど、

そんなことなど関係なく
俺の純粋な、気持ちがすごく伝わり
嬉しかったと、書いてあった。

YUKIKO先生、彼女に俺の気持ち
伝わったよ!

列車に乗っている時間も短いことも
あるが、列車の中でベラベラしゃべる
のが照れくさく手紙でやりとりをした、

俺は、それで十分たのしかった。

彼女とは、そんな些細な付き合い
だったが、俺たちも高校最後の
3年生に進級した。

しだいに彼女とは、好きな曲、映画
テレビ番組について話をするように
なっていった。

なごり雪、22歳の別れ、
いちご白書をもう一度、荒井由実
NSP、吉田拓郎..etc

好きな曲が、彼女と一致した。

特に彼女は、浜田慎吾 の曲が
大好きだった、

浜田省吾さんは、呉原の同郷である。

後に彼女は、”片思い” と言う
人生で、一番好きな曲に
めぐり遇うことになる。

『片思い』

歌:浜田省吾

作詞 ・ 作曲:浜田省吾

『片思い』
リリース: 1978年

あの人のことなど もう忘れたいよ
だって どんなに想いを寄せても
遠く叶わぬ恋なら

気がついた時には もう愛していた
もっと早く「さよなら…」
言えたなら
こんなに辛くは なかったのに

ああせめて一度だけでも
その愛しい腕の中で
「このまま傍に居て夜が
明けるまで」と、泣けたなら…

ああ肩寄せ歩く恋人達
すれ違う帰り道
寂しさ風のように いやされぬ心を
もて遊ぶ…

あの人の微笑 やさしさだけだと
知っていたのに それだけで
いいはずなのに

愛を求めた片思い
愛を求めた片思い

最初で最後の初デート

野球に関しては、今でこそカープ女子が
たくさんいるが、当時はそんなにカープ
に興味を持った女の子はいなく、

彼女も同様に、あまり関心がなかった。

テレビ番組では、中国放送が休日に
放送している 日清食品提供の

YOUNG OH!OH!の話題でもりあがった。

YOUNG OH!OH!の公開収録が
平和公園の近くにある、

広島市公会堂で、おこなわれる
情報を入手した。

観覧希望者を募集していて、
脇原が、10枚応募の葉書を
出していた。

そのうちの2枚が当選したそうだ
俺とあずさの事を知っている脇原は、

「二人で行ってこい!」と当選券を
譲ってくれた、

ゲストは、俺が大好きな
岡田奈々が来るそうだ!

彼女は、京都にある
同志社大学を目指している
とのことだった。

大学受験のない、俺でも
この時期、最後の追い込みで
大変なのはわかる、

1日でいい、彼女とYOUNG OH!OH!を
観覧したかった、

ダメもとで、彼女をさそってみた。

「あのぅ.. 10月17日の日曜日、
公会堂で、YOUNG OH!OH!の
公開収録があって、

観覧券が二枚あるんだ、

受験勉強で忙しい事は、よくわかってる
もしよかったら、俺と見にいって
くれないかなぁ..」

俺としては、この時期、
見に行くことは、むつかしい
だろうなぁ.. と思っていた。

心配することは、なかった
彼女は、一発返答でOKしてくれた。

彼女の答えは、

「すごく楽しみ!
ぜひ、お供させてください。」

だった。

オープンしたばかりの、近くにある
SOGOで昼食をとった、

こんな可愛いい、女の子とデートできる
なんて、俺は嬉しくて、誇らしくて、
たまらなかった。

秋風が、とても心地よく
幸せをかみしめ、”あずさ”と
公会堂に向かった。

原爆資料館の横にある
広島市公会堂は、噴水の前まで
入場待ちの列ができていた。

収録は、15:00からで30分前には、
入場できた、全席指定なので
あわてる、必要はないが、

ホールの1200席は、満席だった、

抽選席で、隣同士ではなかったが
券は2枚とも、1階の席でステージに
すごく近い席だった、

彼女には、俺より一つ前列の
座席券を渡した。

桂三枝の司会でザ・パンダ、研ナオコ
が、ステージに登場し拍手のもと、

収録が始まった。

俺もだが、彼女もカメラで写真を
撮りまくった。

巨人阪神の漫才が終わり、ゲスト出演で
俺の、大好きな岡田奈々が登場した。

ついこの前、発表したばかりの
”青春の坂道”の、歌が始まった。

岡田奈々は、俺より3か月若いのに
しっかりしてよるな.. と思った。

『青春の坂道』

歌 : 岡田奈々

作詞:松本隆 作曲:森田公一

『青春の坂道』
リリース: 1986年

淋しくなると訪ねる
坂道の古本屋
立ち読みをする君に
逢える気がして

心がシュンとした日は
昔なら君がいて
おどけては冗談で
笑わせてくれた

青春は長い坂を 登るようです
誰でも息を切らし 一人立ち止る
そんな時君の手の やさしさに
包まれて
気持よく泣けたなら
倖せでしょうね

言葉に出せない愛も
心には通ってた
同じ道もう一度
歩きませんか

ペンキのはげたベンチに
手のひらをあててると
君のいたぬくもりを
今も感じます

青春は長い坂を 登るようです
誰かの強い腕に しがみつきたいの
君といた年月が 矢のように
過ぎ去って
残された悲しみが しゃがみ
こんでます

青春は長い坂を 登るようです
誰にもたどりつける先は
わからない
そんな時ほら君が なぐさめに
駆けてくる

倖せの足音が 背中に聞こえる

俺は、このときばかりと、
シャッターを、切りまくった。

本物の岡田奈々は、超超可愛い!

彼女は、絶対にトイレなんか行く
はずがない!と、俺は思った。

彼女との 初デートも含め
今日の出来事は、俺の記憶に
永遠に、残るだろう.. 脇原には、

感謝しかない、

カープ初優勝で歓喜に沸く広島、
超可愛い”藤原あずさ”との出会い
腹を割って話せる多くの友、

数え上げたら、キリがない..

俺は、呉原にいては、
体験することのない
多くの経験をした。

夢のような高校3年間を
過ごすことができた。

藤原あずさ は、京都の同志社大学に
合格し、広島を離れた。

俺は あずさが3年間、ずっと胸に
つけていた、五弁の桜花 をもらった。

数々の思い出とともに、
俺の宝物の一つである。

俺なりのチャレンジ 高圧電気工事士

あずさ も含め、慎吾、珠美、
進学校は、大学受験勉強の、
ための高校生活だ、

俺も大学に、進もうと思うが、
世間に評価される大学に
入学しようとすると、

高校生活の中心は、進学する事が
中心になる。

一番感受性が高く、二度と
こない青春時代を犠牲にする
光景を目にして、

これが本当に、幸せなのかと思う..

YUKIKO先生の提言は、
正しかったと思えた。

大学への受験勉強に関し
俺には、必要ないが、

工業科から大学へ進学
しようとすると、

学科(101人)中、5番以内でないと
推薦は、受けられない。

俺としては、高いハードルで、
2年生のときの成績が、学科10番で
成績順位を5つ、上げる必要があった。

「なんでお前が、この学校に
いるんだ?」と言う、できるヤツが
数人いて俺は、俺なりに努力した。

俺は、3年間学んだ証として
高圧電気工事士取得にチャレンジ
しようと思った。

高圧電気工事士を受験するには、
電気工事士の資格が必要で、

試験内容は、選択問題ではなく、
筆記試験のみであり、午前の部と
午後の部に、わかれていた。

出題問題は、

「電気理論」「電気計測」
「電気機器」「電気材料」
「送配電」「電気法規」

で、

高校の電気科レベルでは、
結構な難関であった。

取得人数も少く、現在は、
第一種電気工事士と名を変え
2年間限定で、

電気工事士の資格を持ち
実務経験5年+講習により
取得できる、経過処置があったが、

すでに、終了している。

俺は、過去に出題された
問題集を買い、3年の夏休みは、
勉強に励んだ。

試験は、あずさとの初デートの
1週間後、10月24日 試験会場は、
広島大学で行われた。

合格ラインは、60点以上と
言われていたが、夏休み勉強に励んだ、
努力もあり、手ごたえはあった。

試験を受けた2週間後、
合格通知とともに、合格証書と
バッジが郵送されてきた。

早速、報告するため、

親父を探した..

来月、11月15日から解禁になる
猟の話で、平林さんと雑談していた。

俺が、話を割って入ろうとすると..

「どうした?義直..」と言うので、
郵送されてきた、合格通知の入った
封筒を渡した。

昭和 52年 11月 10日

合 格 者 各 位

脇屋 義直 殿                                社団法人 日 本 電 気 協 会

                                     高圧電気工事技術者試験中央委員会

あなたは 昭和 52 年度 高圧工事技
術者試験に合格されましたので

合格証書を同封にて
お送りいたします。

なお、この試験に合格されました
各位には、先般の受験案内に
ありますように

電気主任技術者として選任される
資格を与えられております。

従って、自家用電気工作物の設置者
か電気事業法、

第72条第2項による認可を申請する
場合には、

電気主任技術者選任認可申請書
(本合格通知書)を

各地方通商産業局長に提出する事に
なっていますが、

手続きの詳細については、
各、地方通商産業局公益事業部
施設課の担当官に、ご参会下さい。

親父は、封筒に入った合格通知を
見るなり、

「義直、やったじゃないか!
この夏休み、勉強していたもんな!」

「父さんを、また一つ喜ばせて、
くれたな!」と上機嫌だった。

平林さんの話では、呉原高専の
3回生でも、高圧電気工事士の
合格者は、少ないそうで、

「義直 君、成長したなぁ~」と褒めて
くれた。俺は、呉原高専の平林さんに
褒めてもらったことが、

嬉しくて、たまらなかった。

一つ上手くいけば、面白いように
道は、パッと開けていった。

壁は厚く、学科トップには、
なれなかったが、成績の順位を6つ上げ
学科4番で、大学への推薦を手にした。

後は、12月の推薦される為の小論文を
書くだけとなった。俺は、学科で5人は
厳しいなぁ.. と思った。

後の話だが、電気工学科に入学したとき
117名だったが、2回生に進級する段階で
38人が消えていった..

入学したとしても、進級できない事に
納得した。大学というところは、
高校と違い、何の躊躇ちゅうちょもなく、

留年させる現実を知った。

呉原の動向 珠美が手術を受ける。

早速、雨蛙号にまたがり
慎吾へ報告に行った。

慎吾には、あずさの事や
広島での、高校生活の事の話もだが、

シンコの事、そして珠美の事、
聞きたいことが、いっぱいあった。

ただ、皆には、
申し訳ないが、広島での高校生活が
夢のように楽しく、

すっかり呉原の事は、俺の頭の中から
消えていた。

米の配達に、使っている
カブの隣に、雨蛙号を止め、
山本精米店の扉を開けた。

店の中では、ちょうど叔父さんが
米を精米していた。

俺を見るなり、

「おう!義直 君ひさしぶりだなぁ..
慎吾なら、二階にいるぞ!」

「遠慮しないで上がってくれ!慎吾!
慎吾!義直 君が来たぞ!」

と、大きな声で慎吾を呼んだ。

しばらくすると階段を、
かけ下りてくる
慎吾の足音が聞こえた。

11月ともなると、
めっきり寒くなってきた。

「おぅ!義直、ひさしぶりだなぁ..
寒かっただろう?まぁ上がってくれ!」

「本当、最近めっきり、
寒くなったよなぁ..」

と、言いながら
俺は、二階の慎吾の、部屋に上がった。

部屋の勉強机は、参考書が高く
積まれていた。

「勉強していたのか?悪いな..」

そう言う俺を制して、

「これしかないんだ?」

と言いながら温かい
ブラックの缶コーヒーを、
こたつの上に置いた。

「雨蛙号で来るの、寒かっただろう..
まぁ、こたつにでも入ってくれ!」

と、俺を招き入れてくれた。

俺は、冷えた足を、
こたつに、突っ込んだ。

ついさっき、電源を入れたばかりの
こたつは、まだ温もっていなかった。

「遠慮なく頂くぞ!」

缶コーヒーのプルタブを開け、
一口飲んだ。甘味がなくスッキリした
味は、俺も嫌いではない、

俺は、慎吾にカープが初優勝したとき
あちらこちらで、胴上げが始まるは、
そこらじゅうの、喫茶店でコーヒーが
無料になるは、で、

広島の街が、
歓喜の渦に、包まれたこと、

藤原あずさ と言う、五弁の桜花、
同じ街にある進学校の彼女が、できた事
彼女は、岡田奈々に似た、すごく可愛い
子だと言う事、

彼女は、京都にある同志社大学を
目指していて、受験勉強が、
忙しかったが、

先月、彼女と最初で最後の、
デートで、YOUNGOH!OH!の
公開収録を、見に行ったこと、

俺なりに頑張って、高校の電気科
レベルでは、難しいと言われている
高圧電気工事士の試験に合格した事、

学校では、腹を割って話せる
多くの友に 恵まれた事、

大学へは、推薦で進学できそうな事..

話は つきないが、
一方的に、慎吾に話した。

俺の話を、じっと聞いていた
慎吾が口を開いた。

「義直が本当に羨ましいよ、
そうか、義直にも彼女ができたか..

お前、中学時代は、剣道部 杉森主将の
『小林麻美』に似た彼女、

早紀ちゃん、

すごく可愛くて羨ましがっていたっけ..

『初恋のメロディー』

歌 : 小林麻美

作曲 : 筒美京平
作詞 : 橋本淳

『初恋のメロディー』
リリース: 1972年

これが最後の接吻なのに
あなたが何をためらうのかしら

これがお別れドライブなのに
二人で何をためらうのかしら

すてられたのはくやしいけれど
せめて今だけこの胸を
あたためて

これが最後のドライブなのに
私のお家はすぐそこなのに

白い波止場に車を止めて
暗くなるまでそばにいて欲しい

あなたのタバコに火をつけましょう
愛の終わりを待つあいだだけ

すてられたのは悲しいけれど
せめて今だけこの胸を
あたためて

これがお別れドライブなのに
私のお家はすぐそこなのに

広原高校は、みんな受験勉強で
それどころじゃないし..」

「それと、テレビ番組の収録なんて
呉原じゃぁ、絶対ないし、

プロ野球の試合、呉原で行われるの
年2回くらだ..

でも、義直の彼女って
賢いんだなぁ..

同志社大学って、入学するの
難しいんだぜ..」

俺には入試の事は、よくわからないが
まじめな顔で話す、慎吾の話を聞いて
そうなんだ?と思った。

慎吾は、どこの大学を目指して
いるのか、知りたくなった。

「ところで慎吾、お前、どこの大学に
行こうと思っているんだ?」

慎吾は、残っていた、
缶コーヒーを一気に飲んだ。

「俺は、横須賀にある防衛大学に
進もうと思ってる!理工系を
目指しているが、偏差値は60以上で、

一般入試の倍率は、
およそ10倍、難関だ..

それに増して気力、体力の向上も
求められる。」

俺なりに、詳しく調べた。

全寮制で、朝6時にラッパの音と
ともに起床し、5分後には外で、
日朝点呼、乾布摩擦、

授業がある教場には、
整列の上、行進して向かう。

また、授業とは別に
訓練課程がある。

1年生で東京湾内約8kmの遠泳訓練
複数人の手漕ぎで進む小型船
『カッター』を操縦する訓練など
がある。

大学への進学と言うより、
実質自衛隊への入隊だ..

防衛大学校に入校した学生の身分は、
特別職の国家公務員として扱われ、
月給 4,1200円 賞与(6月、12月)
12,1600円 が支給され、

制服や作業着は、国からの
貸与だから、裾が余っても切れない。

自分でちょうど良い長さに
調整する必要がある。

慎吾は、微笑みを作りながら言った。

「ガキの頃の俺は、自分の事しか
頭になく、周りに迷惑をかけ
甘えぱなしだった..

入隊したら在職中、決して国民から
感謝されたり、歓迎されることなく
自衛隊を、終わるかもしれない。

きっと非難とか、誹謗ばかりの
一生かもしれない
しかし、自衛隊が国民から歓迎され、

ちやほやされる事態とは、

外国から攻撃されて国家存亡の時とか、
災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が
混乱に直面している時だ。

言葉を換えれば、俺たちが日陰者で
ある時のほうが、国民や日本は、
幸せなんだ。

そんな環境の中に、俺の身を置いて
鍛えてみたいんだ。」

飲み干した、コーヒーの缶を
握りつぶした。

「実はなぁ.. 珠美が、
今まで覆っていた殻を、必死に
打ち破ろうとしている姿を見て
俺は、目が覚めた。

珠美、手術するんだ..

手術の話を持ってきたのは、
YUKIKO先生、
いや!YUKIKO先輩だ。

同じ、広原高校の卒業生だからな..」

その話を聞いて俺は、YUKIKO先生じゃな
くて、先輩とよべる慎吾が、
なんだか羨ましかった。

それにしても慎吾を、ここまで
影響させた、珠美のエネルギーは、
凄いと思った。

缶コーヒーは、すでに冷たくなっていた
一気に飲み干した。

「YUKIKO先生じゃなくて先輩か?
俺、慎吾が、なんだか羨ましいよ..

しかし、今日は、
よく冷えるなぁ..」

慎吾は深く、
こたつに、もぐりこみ話をつづけた。

「義直も広島で経験を、いっぱい
したようだが、呉原にいる俺と
シンコだって、

貴重な経験を、いっぱいしたんだ..」

慎吾が話した内容は、
こうだった..

YUKIKO先生が、教育学部に通って
いたとき、同じ広原高校の出身で
医学部で学んでいた、

2年上の藤井栄心さんと言う
広原の先輩がいた。

藤井さんは、呉原市街地にある
お寺の次男坊だった。

YUKIKO先生は、今でも伝説に残る
広原高校一の、美人で有名だが、
当時も、そうとう騒がれていたようだ..

藤井先輩は現在、
呉原労災病院の形成外科に
勤務しておられる。

YUKIKO先生の話を、聞いた先生は、
医学の進歩は目まぐるしく、珠美を
一度、診察に連れてくるように言われ、

俺とシンコ 及び、YUKIKO先生で
珠美を、強引に引っ張って、
連れて行った。

珠美は、顔左側にある痣のせいで
常に人の目を気にし、生きていく姿を
見て、YUKIKO先生も、

すごく気になって、
いたそうだ。

又、義直と珠美が学級委員に
させられた、ことがあったよなぁ..

義直と珠美の持っている力を、
引き出したかったそうだ、

珠美の身体の成長が、止まる時期を
見計らい、手術できればと心の底に
しまっていたとのことだった。

珠美は、痣さえ克服してあげれば、
人生がガラリと変わり、

大きく成長すると確信していてた、

とにかく押さえつけている、重石を
取り除きかったそうだ。

藤井先生の診察は、痣の大きさを
ノギスで計測し、それぞれの色、

深さを正確に、記録して行った、
全て調査するのに、
1時間近くかかった。

珠美の場合、左頬から耳にかけての
治療は、効果が実証され、

呉原労災病院に導入された、
最新のレーザー照射、薬物治療、
外科的切除、3段階に分け1年をかけ、

治療して行く、長期戦に
なるとのことだった。

レーザー治療

色素レーザーと呼ばれるレーザーが
特に有効で、このレーザーは、
血液内に含まれる、ヘモグロビンを

標的としており、

皮膚を透過し、血管を選択的に
破壊して行くとのことだった。

一回の照射では、血管腫が消えるわけ
ではなく、徐々に色調を薄くしていく
治療と考えるように言われた。

具体的には、2ヶ月ほど間隔を
あけながら、珠美の場合、5回程度の
照射で治療して行くとのことだ。

照射時には、ゴムで弾かれたような
痛みを伴うとのこと、

貼り薬・塗り薬・場合に
よっては、全身麻酔など必要との
事だった。

特に血管腫の場合、治療する面積などに
合わせ、適切な麻酔を選択することが
重要だそうだ。

開始時期は、成長とともに血管腫の
面積も増えた時の方が効果は、
高いことから、

成長が止まった、なるべく早くから
開始することが、望ましい
と、言われた。

但し、レーザー治療は、
最近確立された、高額治療で
残念ながら保険適応外に、

なってしまうそうだ。

内服薬治療

開発されたばかりの内服薬は
レーザー照射だけでは増殖速度が
抑えられないほど大きな血管腫や、

レーザーが届かない、ほど深部の
血管腫に対し、特に良い効果が
期待でき、

心電図検査などの検査を行い、

診察を並行して行いながら
安全に投与していくそうだ。

特に管腫の場合は、赤みが引いた、
あとも皮膚の盛り上がりが
残存する、ことがあり、

この盛り上がりは、自然に改善する
ことはないので、手術で切除する
必要があるとの事、

珠美の場合、深部の血管腫、
(静脈奇形等)は、深すぎて
レーザーが届かず、

効果が期待でないので、切除する手術や
血管内に特殊な薬を注入し、血管を潰す
硬化療法と呼ばれる治療法を、

選択する必要が、あるとの事だった。

新薬は、治験として治療効果を
レポートにまとめ、報告する事により
費用は、かからないそうだ、

ただ、治験の少ない新薬なので
使うリスクが 0 ではないが、
試す価値はある!と言っておらた。

形成外科手術

最後の外科的な手術治療では、
病変を切除し単純縫縮、もしくは
皮膚移植などで覆う治療で様々な
血管病変に対応することができ、

すぐに結果が出ることがメリットだが
血管病変は、手術時大量出血する
可能性があること、

うまく行かないと目立つ傷を残す
可能性があることから、

他の治療法を行って、結果が出にくい
場合の最終手段となることが、
多いことだった。

形成外科手術は、原則入院、全身麻酔下
にて行うとの事、

健康保険を使う事ができ、
高額医療費助成が、適応可能だそうだ。

診察した結論

藤井先生の座右の銘は、発菩提心ほつぼだいしん

発菩提心とは、なにか?

自分の持っている、技術を生かし、
自分のできる事を見つけ、
社会に対し、していく事だそうだ、

それと、鬼手仏心きしゅぶっしん

医者は、患者の体を切って開くが
それは、患者を救うため。

手で行う事は、残酷でも
心には、慈悲心がある、

all for you すべてあなたのために、

だそうだ、先生は、この程度なら
今の医学では、完全に治せる!

と、太鼓判をおしてくれた。

問題は、長期戦にな為、
珠美の気力と、良い結果を望めば、
保険適用外の金銭的負担を、

多用する事になり、

一番効率の良い、費用対効果の
組合せを突き止める必要があり、

この件に関しては、
お母さんとの話し合いで
決める必要が、あるそうだ、

先天的疾患の珠美の場合、
日本国憲法第25条がある以上、

保険適用範囲が、
かなり広がるだろう..

との事だった。

いずれにせよ、早急にお母さんと
話をする必要があると、
結論された。

公的な医療保険

日本国憲法第25条第1項と第2項に
基づき、保険料や保険税負担
患者一部負担金支払いの義務を果たせば
公平に医療を受けられる権利を有する。

日本国憲法第25条

第1項

すべて国民は、健康的で文化的な
最低限度の生活を営む権利を有する。

第2項

国は、すべての生活部面について
社会福祉、社会保障及び公衆衛生の
向上及び増進に努めなければならない。

レーザーの原理

ルビー棒の片側に鏡を設け、反対側に
ハーフミラー(半分鏡)を取り付け
ルビー棒の周りを、光点灯管で囲み、

① 光ストロボ点灯させる。

② ルビー棒の中で光が両端にある
鏡にて反射を繰り返し、ポンピング
(光が鏡に反射し往復)することにより
波長の短い光を増幅させていく。

  • ルビー棒の中を光の往復により
    ある大き以上増幅された光が
    ハーフミラーを通過しレーザー
    光線として外に発信される。

これが、我々が目にする、
レーザー光線の正体である。

珠美の診断内容を、お母さんに
報告する為、

YUKIKO先生は、岡の向こうにある
アパートに向かった。

6:00すぎには、パートが終わり
帰宅されているとの事、

診察に立ち会った
俺とシンコも同伴した。

6:00前には、アパートに着いた。

珠美のアパートにて説明

冬至を過ぎたように、太陽がでる時間が
早くなったとはいえ、日は落ちて
外は暗く、1月末の冬は寒かった。

呉原では、珍しく雪が舞いだした。

1年で、今が一番寒い、
部屋には灯が、ともっていた。

YUKIKO先生は、手袋を外し玄関にある
呼び鈴の釦をおした、赤いジャージ姿に
綿入れを着た、珠美が現れた。

「どうぞ.. お母さん、まだ帰って
いないの.. 」と言いながら
俺たちを、アパートに招き入れた。

玄関を上がった、すぐにある
6畳の和室には、こたつがあったが
ストーブらしき物は、

見当たらなかった。

俺たちは、上着を着たまま
こたつで暖を取った。

小さなキッチンにある、ガスコンロに
かけた、やかんから沸騰する音がした。

珠美は、俺たちに熱い
お茶を入れてくれた。

「珠美のぶんは?」

俺がそう言うと、不安そうな顔をして
こたつに入ってきた、

それを見た、シンコは、

「珠美、心配ないって!
YUKIKO先生が、
ちゃんと、話してくれるから..」

と言ったが、終始、珠美は、
うつむいた、ままだった

しばらくすると階段を
登ってくる足音が、したと思ったら、

お母さんが返ってきた、

俺たちが、今日来ることを知っていた
お母さんは、近くのスーパーで買った
栗饅頭を出し、

温めなおした、お茶を入れてくれた。

YUKIKO先生に、

「珠美が、お世話になっています。」

と、何度も頭を下げ、
礼を言った。

YUKIKO先生は、珠美が毎日すごく
勉強しいてる事、中学の修学旅行では
中心となり、

動いてくれた事の思い出を
熱心に、話をした、

先生は、本題の話を
切り出した..

珠美も含め、俺たちは席を外した。

席を外したと言っても、隣にある
珠美の部屋に、移っただけだった。

机の上には、
赤いトランジスターラジオがあり
珠美は、スイッチをいれた。

ラジオから、木へんにホワイト!
柏村武昭の声が、聞こえてきた、

襖一枚へだてた、隣の部屋の
YUKIKO先生と、お母さんの声は
筒抜けだった、

珠美は、ラジオの音で、
聞こえないように、したかったようだ、

それでも、YUKIKO先生の話は、
聞き取れた。

形成外科は、生まれつきの病気や
やけど・ケガなどの外傷、皮膚・
軟部組織の、できもの
(良性腫瘍・悪性腫瘍)などの治療を
行います。

これらの状態は、治療が必要な状態と
みなされていて、健康保険での治療が
認められています。

ただし、国が認めていない治療法を
行う場合や、厚生労働省の薬事審査で、

承認されていない、機器を使用する
場合や、薬事法で認可されていない
薬剤を使用する場合、健康保険が
適応されません。

残念ながら、最新のレーザー治療は
長期の治療となり、保険適用外で
高額医療費が、必要ですが、

そうとうな、効果を望むことが
できるとの事です。

新薬も使いますが、治験扱いで
極力費用が、かからないように
するとの事です。

問題は、最新のレーザー治療費を
どう工面するかに、かかっています。

正確には、

藤井先生(私の2年上の先輩)と
お母さんとの、話し合いで
決まりますが、

治療に、必要な見積をして
もらいました。

先生は、見積書をお母さんに渡した。

次の瞬間、不安で
聞き耳を立てていた、俺たちの耳に
YUKIKO先生と、お母さんの笑い声が
飛び込んできた。

珠美の顔の痣は、お母さんも、
すごく、責任を感じていたそうで、
日頃わずかな収入の中から、

コツコツと蓄えていた、そうで、
手術費用に関しては、

大丈夫だと、言うことだった。

最優先に、珠美に覆いかぶさっている
重しを、取り除いてやりたいとも
切望されていた。

ただ、問題は、
0 では、なかった..

示された治療費に、お金を使ったら
珠美を大学に、進学させてやりたいと
貯蓄していた、

金額のほとんどが、消えてしまうが、

珠美の長い人生を考えたら、迷う必要は
なく、手術で覆いかぶさっている、
重しを、取り除いてやりたい!

と、即決された。

実は、YUKIKO先生は、こうなる展開を
想定し、珠美が手術を受け、なお且つ
大学へも進学できる策を、考えていた。

YUKIKO先生と、お母さんの話はついた。

少しお待ちください、YUKIKO先生は、
部屋の端に置いていた、バッグの中から
A3の封筒を取り出し、

こたつの上に置いた。

珠美が呼ばれた、

俺たちも襖一枚で、仕切られた
隣の部屋に、移動した。

まだ、不安そうな顔をしていた珠美に
YUKIKO先生は、話し始めた。

「珠美の痣の治療のこと、藤井先生は
俺に任せてくれ、綺麗してみせる!と
豪語していたわよ。

ただ、治療に1年以上かかる長期戦に
なるけど、全て、あなたしだいね
頑張れる?」

こたつの端で、申し訳そうに
珠美は、無言だった。

「……、、、」

じれったいヤツだ!

「珠美!呉原商業のシンコは、
呉原労災病院に近いし、俺もできるだけ
協力するし、治療、頑張ろうよ!」

そう言うと、やっと珠美が口を開いた..

「お母さんが、長年苦労して貯めたお金
私.. 申し訳なくて..」

YUKIKO先生が、強い口調で言った。

「珠美、あなた、まわりのこと、
全然、見えていない!
みんな、った珠美が見たいの!

あなたが苦しければ、私も苦しい..
あなたが嬉しければ、私も嬉しい..

それが、愛というものなの、

何のために、お母さんがこれまで
苦労されてきたのか、

あなた、全然周りが見えていない!

いいかげん、殻に閉じこもっていないで
抜け出しなさいよ!」

こんな、YUKIKO先生を見たのは、
初めてで、

俺と、シンコも言葉がなかった..

しばらく、みんな無言だったが、
YUKIKO先生が、口を開いた。

「それで珠美は、将来
どんな仕事が、したいの?」

珠美が、かすかな声で言った。

「聞こえない!全然聞こえない!

聞こえるように、言ってもらわないと、

あなたの気持ち、伝わらない!

みんな、あなたのこと心配して
いるんだよ!失礼でしょう!!」

珠美は、YUKIKO先生に促され、

大粒の涙を、こぼしながら
大きな声で言った。

「私!YUKIKO先生と同じ、中学校の
国語の先生に、なりたい!!」

YUKIKO先生は真っすぐ、珠美の目を見て
真剣に、話しだした。

その迫力に押され、俺たちは何も
言えなかった..
珠美の、お母さんも同様だった。

「それじゃぁ、あなたが、しなければ
いけない事は、2つ!」

一つ目、

「つらいと思う.. 歯を食いしばって
治療を受ける事!ハッキリ言う!
その痣のままじゃ、大勢の生徒の前に
立てないでしょう!?」

2つ目、

「珠美の場合、大学に進学する
方法は、広島大学のフェニックス
奨学制度 一択です。

珠美は、中学校の国語の教師に
なりたいのよね?

それなら私と同じ道、広島大学教育学部
第三類(言語文化教育系)国語文化系
コースを目指すことになります。」

YUKIKO先生は、広島大学のフェニックス
奨学制度に、ついて話し始めた。

「広島大学フェニックス奨学制度は、
学業成績が優秀でありながら
経済的理由により、

大学進学が困難な人を
支援するための、
広島大学独自の奨学制度です。

支援の内容は、入学料全額免除、
在学中の授業料全額免除、および
奨学金給付です。

但し!

この制度が、
受けられるのは、10名、

家庭の所得が、指定金額以下の事、

試験配点合計の80%以上である事、

在学中、定める成績基準を継続して
満たす必要があり、

各学期終了時に学業成績確認を行い
2 期連続基準に満たない場合は、

奨学生としての資格が、
停止となります。」

珠美とお母さんは、真剣に
話を聞いていた。

YUKIKO先生は、最後につけ加えた。

「それと、大学を卒業したからと
いって、先生になれる
わけじゃありません。

最後の関門、教職員採用試験に
パスし、初めて教員として教壇に
立つことができます!」

話を、真剣に聞いていた珠美に
YUKIKO先生も
真剣な顔をして言った。

「私が、広原高校生だったとき
担任は、多口 義行 先生でした。

現在は、広原高校の校長を
されてますよね?

それと、私が教育学部に通って
いたとき、教育方法言論を教えて頂いた
江角教授が、いらっしゃいました。

教授は、現在、名誉教授になられ
広島大学のフェニックス奨学制度の
役員をされています。

ここに、奨学制度のパンフレットと
各種申込書を置いておきます。」

そう言って珠美と
お母さんの、前に用意した
A3の封筒を、差し出した。

「これに目を通し、珠美とお母さんが
納得されたら、私に連絡して下さい。

多口先生に、推薦状を書いて頂き、
江角名誉教授に、渡します。」

YUKIKO先生は、それまで硬かった
表情を崩し、珠美に言った。

「all for you.
すべてあなたの ためにです!

珠美、治療との両立すごく厳しいと
思うけど、頑張って殻を破って外に
出て、みますか!?

まさに、
『障子を開けてみよ、外は広いぞ』
豊田佐吉です。

話は、ここまで!
慎吾、シンコ帰りましょう。」

こたつに、入ったまま、
珠美は、パンフレットを食い入る
ように見ていた。

玄関まで、見送りにきたお母さんは、
俺たちに、何度もなんども頭を下げた。

おお寒い!雪は上がっていたが
外は、初雪が積もっていた。

どうりで寒いはずだ、呉原で積もった
雪を見るのは、何年ぶりだろうか?

キュッキュッと積もった新雪を
踏みしめて歩くのは、なんて気持ちが
良いんだろう..

横を歩いていた、シンコが
空を見上げて言った。

「YUKIKO先生、見て!
月が、とっても綺麗だよ..」

立ち止まって、俺とYUKIKO先生も
空を見上げた、

YUKIKO先生は、嬉しそうに言った。

「ほんとうに綺麗、ムーンスノウね!」

まるで、珠美の将来を応援して
いるように、俺には思えた。

数日後、呉原労災病院の藤井先生と
面談した、お母さんからYUKIKO先生へ
連絡が入り、俺たちは、呼び出された。

先生は、満面の笑みを
浮かべながら言った。

「珠美、治療受けるって!
それと広島大学の進学、頑張るって!
あなた達も珠美の事、支えてあげてね!
やることは一杯あるわね!」

そう言うと、YUKIKO先生は、
小さくガッツポーズをした。

それを横目にシンコが満面の笑顔で
「もちのロン!慎吾もそうだよね?」
と、上機嫌だった。

俺もなんだか嬉しくて
たまらなかった。

レーザー治療開始

早速、レーザー治療が始まった。

パート勤務を 休むわけにはいかない
お母さんに替わり、俺とシンコが珠美の
付き添いとして立ち会った。

正面玄関を入った所にある受付には、
藤井先生との約束した10分前に到着
することができた、

玄関を入った瞬間、病院独特の消毒
の匂いがした、これから行う治療を
想像するだけで、俺は不安になった。

そんな俺に、シンコが言った。

「慎吾、あんた
何、ビビっているのよ!

治療を受けるの珠美だよ!?」と言う
声に冷静になれた。

横にいる珠美を見たら
覚悟が決まっているのか、
まったく動揺した顔を、

していなかった。

俺は、15:00に形成外科の藤井先生と
約束している旨を伝えた。

フロアーガイドを見せられ、

「形成外科は、西館のエレベータを
4Fまで上がって頂いたら
ナースステーションが有りますので
その旨を、お伝え下さい。」

と、案内された。

扉の横にある、上にあがる釦を押すと
7Fに止まっていたエレベーターが
動き出した。

1Fまで、下りてくるのを待った。

下りてくるエレベーターが
途中4Fで、止まった。

しばらく止まっていたが
順調に、俺たちが待つ
1Fまで、下りてきて扉が開いた。

広い!中には、手すりが付いており
ストレッチャーを乗せることができる
十分なスペースがあった、

降りる人が、いなくなるのを待ち
乗り込んだ、1Fで乗ったのは、
俺たち4人以外に、もう2人いた。

点字付き昇降押釦は、通常の高さと
車椅子でも、押すことのできる
高さ、2か所に設置されていた。

シンコが止まる偕を聞き、
各階の釦を押した。

目的の4Fに止まり、扉が開いた、

降りて右側に進むと
広い手すりつきの通路があり
ナースステーションが見えた、

忙しそうに動き回る看護婦さんを
つかまえ、藤井先生と約束してる旨を
伝えた、

藤井先生が、ちょうど横にある
部屋から出てこられた。

「やぁ!おまたせ!これから行う
治療の説明をしますから、」
と、部屋に案内された。

レントゲン写真を挟んで照らせるように
なった机に、案内され
俺たち4人は、話を聞いた、

説明に使うのだろう..

机の上には、
頭蓋骨の模型があった。

レーザー治療は、2か月に1回、
約 5mm間隔で4~5カ所
計5回 23カ所に、照射するとの事、

照射しキズが癒えるまで
7週間は、必要なので、

2か月に1度と、いうことだった。

照射により細胞を焼くため
激痛があり、局部麻酔を併用し、

場所によったら、全身麻酔を行う
必要があるとの事、

照射しては傷を治し、照射しては
傷を治しの繰り返しで、長期戦になるが
この最新治療で、70%は直せるとの事、

「珠美 君、治療長くかかるけど
頑張れるかな?」と言う藤井先生に、

珠美は、大きく首を縦に振った。

最新のレーザー装置を
俺たちも、見せてもらった。

1台数千万円するそうで、
全国でも数台しか、無いとの事だった。

その装置の大きさに、ビックリした!

操作は、別の部屋から行うように
なっていて上下・前後に動かせる
ベッドがついていた。

驚いたのが、部屋全体に
鏡が張り巡らされ、防御されていて
まるでSF映画を見ているようだった。

さすがのシンコも
黙りっぱなしだった。

手術服に着替え、防御用のミラーで
できた眼鏡をかけ、局部麻酔を
ほどこされた珠美がストレッチャーに
乗せられ照射室に入ってきた。

局部麻酔なので、珠美とは話ができた。

「珠美、大丈夫だ!シンコと俺が
ついてるからな!!」

その声を聞いた珠美は、
にこりと、微笑んだ。

関係者は、外でお待ちください。

驚いた、1回目の治療は、
たった、10分位で終わった..

局部照射を終え治療用のクリームを
塗りガーゼで顔を覆った珠美が
元気に表れた。

藤井先生は、2日は
顔を洗わない事、それ以降1週間
優しく流水で洗う事、

一月も経つと、焼けた細胞が
剥がれ落ち、かゆみを感じるが
決して局部を触らず、

処方した、クリームを塗る事、

照射治療を終えた、珠美に
英心先生は、3つ注意をした。

「局部麻酔をしたとは言え
照射した瞬間、強い痛みを感じたハズ
珠美君、よく頑張ったな!

次は、2か月後だ、
君たちも、バックアップ
してあげてくれ」

一回目のレーザー照射
治療は、終わった。

治療費は、1か月単位で支払うとの事、
1回、それもたった10分の治療請求額が
102,780円と言う請求書を目にした、

俺とシンコは、開いた口が
塞がらなかった..

投薬治療も含め、こうして計5回の
レーザー治療は、終わった。

年が明け、来年最後の
外科手術で、全てが終わる。

俺もシンコも、回数を重ねるたび
珠美の痣が消えていくのを
見てビックリした。

俺から、
お前への、報告は以上だ!

珠美は、先生になる為
広島大学教育学部への試験勉強も
頑張ってる、

そんな事で俺は、その姿を見て
防衛大学への挑戦を心に決め
現在受験勉強中だ、

その話を聞き昔、思った
「バカは、俺だけじゃん!」
を、思い出した。

その事を慎吾にいうと、

「義直は義直で
よく頑張ってるじゃん!

でも俺たち、珠美の頑張りには、
足元にも、及ばないがな!」

と、言って大笑いした。

話し終えた慎吾に
「今日は、色々聞かせてくれて
アリガトな!俺そろそろ帰るわ!」
と、言って外にでた。

雨蛙号にまたがり、バックミラーに
引っ掛けていた
ヘルメットをかぶった、

冷え切ったエンジンは、
何度キックしても、かからない..

横に付いている
赤いチョークレバーを引き
ようやく、エンジンがかかった。

マフラーから、真っ黒い煙を
はきながら、自宅に向かった。

慎吾からの伝言

同じ広原高校に通う慎吾は、
俺に聞いた話を
珠美に、したそうだ、

あれから1週間後、

珠美から預かったという
英文で書かれた 2枚の歌詞を
チャリで、俺んちに持ってきた。

「ゆっくりして行けよ、」
と、言う俺に対し、

「防大の受験勉強があるし
余裕ないんだ、悪いなぁ..」

と、片手を振りながら
帰って行った。

早速、英文で書かれた
2枚の歌詞を見たが、書いてある
内容は、推測できるものの、

該当する原曲は、いくら探しても、
見つけることは、できなかった。

If I build a house
It would be a small house
It would have big windows,
small doors
And an old fireplace in the room
With red roses, white pansies
And a puppy, you, you
I want you to be here
That was my dream
Where are you now, dear?

With a blue carpet covering
I'd live laughing happy
Outside the home, a boy is playing
Next to the boy, you, you
I want you to be here
That was our wish
Where are you now, dear?

And then I'd braid lace
By my side, by my side
You, you
I want you to be here
And then I'd braid lace
By my side, by my side
You, you
I want you to be here

My love, I'm leaving
On a train headed east
I'll find a gift for you
In the city of prosperity
No, my dear
I don't want anything
I just don't want you to lose yourself in the city

And come back to me
And come back to me

My love, we haven't seen each other for six months
But please don't cry
I'll send you a ring en vogue in the city
I'm sure it'll suit you
No, not even a diamond in the sky
Or a pearl sleeping in the ocean
Will shine

As brightly as your kiss
As brightly as your kiss

My love, do you still
Wear no makeup, not even lipstick
Take a look at this picture
Of me in brand-new suits
No, it was you who lay in the grass
That I was fond of
But in cold winds under skyscrapers

Take good care of yourself
Take good care of yourself

My love, forgive me
For changing and losing sight of you
Spending joyful days in the city
I cannot come home
My dear, as one last favor
I ask you for one more gift
For drying my tears
Send me a cotton handkerchief
A cotton handkerchief

慎吾からの情報

親父の大きな声が聞こえた。

「義直!慎吾 君から電話だ!!」

黒電話の横に置いて、あった受話器を
取った、慎吾はいきなり話し始めた。

「俺たちのYUKIKO先生が、
ここから18kmも離れた呉警固原
中学に移動が決まった。

親父が米を配達に行ったとき
偶然耳にしたそうだ。

教職員の移動は、最長で7年
通常5年サイクルらしい、

警固原といえば、乗り換えをしないと
いけなく、ここから直通で行ける
公共交通機関は無い、

乗り換えたとしても
呉原中心部から海に突き出た人口が
そんなに多くなく、街まで交通機関の
本数も、少ないはずだ..

今までのように
便利よく動き、回れなくなる..」

心配になり聞き返した。

「慎吾、YUKIKO先生、毎日どうやって
通勤すると言ってた?」

慎吾は、俺をじらすように答えた。

「それがだなぁ.. YUKIKO先生
車の免許を取ったそうだ。
それと呉原で数少ない、

いすゞ自動車の117クーペと言う
車を購入したらしい!?

先生は、その車で通勤するとの事だ!

YUKIKO先生と家が近いお前なら
もっと詳しい情報を知っているんじゃ
ないかと?電話したみた。」

茶の間にあるテレビでは
メルモちゃんが始まった。

もう18:00か..

「慎吾、情報アリガトウな!親父が
何か知っているか聞いてみる。」

話していた、受話器を電話に戻した。

親父は、茶の間で新聞を読んでいた。

「あのぅ.. 親父、YUKIKO先生が車の
免許を取ったそうだが何か知ってる?」

新聞を読むため、かけていた
老眼鏡のまま、俺を見て話し始めた。

「YUKIちゃんか?そう言えばこの前
合ったとき車の免許を取る為、隣町に
ある広原自動車教習所に通っている
とか言ってたなぁ.. 免許取ったって?」

そう言って、再び新聞を読み始めた
初優勝してからと言うもの
カープが強くなったと、上機嫌だった。

自動車に縁のない俺は、いすゞ自動車の
117クーペが、どんな形をしている
車なのか、全くわからなかった。

1週間後、俺の家の前にある
屋根の無い、アスファルト舗装された
月極駐車場に車高が低くて、

カッコいい車が
止まっているのを発見した。

俺には、大学入試など全く関係なし!

12月にあった大学への推薦にパスし
余裕で正月を過ごした。

珠美は、クリスマス・正月関係なく
受験勉強に励んだ、

俺のように

超余裕を噛ませるのも良し!
目標をもって、受験勉強に
励むのも良し!

それぞれ、思い出が残る
高校生活としての青春だと思った。

森田公一とトップギャラン青春時代の
歌じゃないけど、

「青春時代が夢なんて、あとから
ほのぼの思うもの、青春時代の真ん中は
胸にとげさすととばかり」とは、

良くできた、歌詞だと思う。

防衛大学の試験は、

1次:学力試験11月6日(土)

2次:口述試験及び身体検査
7日(日)

12月7日(火)~11日(土)までの間の
指定された日、二度にわたり行われる。

慎吾は、1次試験が行われる
陸上自衛隊、海口市駐屯地に向かった、

駅まで雨蛙号で、送ってやった。

「当たって砕けろ!山本慎吾の
力を見せてやれ!」と言う俺に振り向く
ことなく、右手握りこぶしを高々と上げ

駅に消えていった..

結果は11月24日(水)に発表され、

2日後、慎吾の手元に合否の封筒が
郵送されてきた。

慎吾は、覚悟を決め封筒を開いた..

防衛大学校本科第25期学生 一般採用第一次合格通知

山本 慎吾 殿

中国方面総監部 人事部募集課長

あなたは、防衛大学校本科
第25期学生一般採用

第一次試験に合格されましたので
第2次試験について下記のと

おり通知します。

なお、この通知書は受験当日に
提示してください。

早速、慎吾は1次試験に合格した
ことを俺に伝えてきた、全く関係の
ない俺だが、

なぜか嬉しくて、たまらなかった。

2次試験が行われる当日、同じように
雨蛙号で駅まで送った。

「幸運の雨蛙号で送ってやったんだ!
心配するな..そうか!運をつかんだ女
シンコも呼べばよかったな..」

と、おどけて言う俺に
よそ行きの言葉で、

「山本 慎吾、行って参ります!」

と、言って改札口に消えていった。

受験を終えた、慎吾が
呉原に帰ってきた。

「受験どうだった?」と聞く俺に対し
「やる事はやった!結果が不合格でも
あきらめはつく!」と息巻いていたが、

結果が、わかるのは来年1月末で
12月のクリスマスも、正月も
気にしていたようで、

我ここに、あらず!だった。

そんな、慎吾を見ているこの俺まで
なんだか、憂鬱ゆうつな気持ちだった..

1976年、楽しいはずの年末は、
送れなかった。

年が明け、1977年防衛大学の
合格発表2月16日は、あっと言う間に
やってきた。

合格発表については、
自衛隊地方協力本部、防衛大学校に
掲示されるが、慎吾はあえて、

郵送されてくる、通知を待った。

発表から2日後、慎吾の手元に
防衛大学校の簡易書留が届いた、

やることはやった!

俎板まないたの鯉とは、この事を言うことを
言うのだろう..

慎吾は覚悟を決め、一気に開封した。

中には、数枚の書類と単独で
A4の紙1枚が入っていた、

太い文字で、書かれていた。

合格通知書

山本 慎吾 殿

あなたは、防衛大学校本科
第 25期学生(理工学専攻)

一般 採用試験に合格し
採用予定者になったので
通知します。

昭和52年2月16日

防衛大学校長 猪本 正道

複数の書類の中に、本当に防大に
入校する意思が、あるかどうかを
確認する『入校請書』があり、

受験番号・住所・氏名を記入し捺印の
上で、提出するようになっていた。

他に『入校式及び午餐会申込書』と
いうのも一緒に入っていて着校日の
5日後にある入校式に父兄が参加する
時に申し込む書類が同封されていた。

これらの書類を目にし、世間一般の
大学ではなく事実上、自衛隊への入隊で
あることを実感した。

早速、義直とシンコ 及び
YUKIKO先生に、自衛隊へ入隊が
決まった事の連絡をした。

もし32年前だったら
生死をかけた軍隊への入隊だと
想像したら、身が引き締まった。

一生で一度の入校式には、俺を今まで
育ててくれた姿を見てもらいたく、

『入校式及び午餐会申込書』には
両親の名前を書き提出した。

珠美、広島大学のフェニックス奨学制度への挑戦

珠美の、引越

珠美は、痣の治療と伴に広島大学
教育学部 第三類(言語文化教育系)
国語文化系コースを目指し、

受験勉強を頑張っていた、そんな最中
珠美の住むアパートが老朽化の為
取り壊される事になった。

広原高校の人脈はすごい、OBが
経営している不動産会社が隣町にある、

広原高校へ徒歩圏内で
しかも予算に見合う呉原市営
アパートを紹介してくた。

世帯収入の入居条件はあったが
母子家庭であり、まったく問題は
なかった。

たまたま、一部屋空いたそうだ
家賃は呉原市営ということもあり
以前住んでいたアパートに比べ

月5千円以上も安く、しかも風呂付で
トイレは洋式の水洗だと言う事だ。

逃しては、いけない!

すぐさま契約を交わし1週間後、
引っ越すことが決まった。

慎吾から連絡があり、シンコも一緒に
引越の手伝いをするとの事、

俺も誘われたが、その日どうしても
都合がつかず、親父が猟に使っている
4WDの軽トラックの鍵と、

カップヌードル、
1箱を慎吾にあずけた。

慎吾の話では、引っ越しの荷物も
少なく、荷物運びは、
半日で終わったそうだ。

そんな事で珠美は、俺の街から
去って行った.. と大げさに書いたが、

ここから車で、15分たらずの
距離である。

最後の、レーザー治療

レーザー治療は、時間もかからず
慎吾とシンコが毎回立ち会った。

栄心先生ともすっかり顔なじみになった
珠美の顔にある痣は、回数を重ねるたび
確実に消えていった。

年末には、レーザー治療と内服薬により
珠美の顔左側面にあった痣は
みごとに消えていた。

後は受験が終わり行う、
病変を切除する、単純縫縮の
形成外科手術だけとなった。

英伸先生は、 鬼手仏心、all for you
すべてあなたのために、です。

後は私に任せて下さい!と、親指を
立てるジェスチャー『Good』をされた。

ここまで、珠美君もよく頑張ったが
君たちも良く協力してくれた!

私のおごりだ!と1Fにある喫茶店に
連れて行って下さった。

メニューを広げられ、
何でも好きな物、注文していいぞ!
と、言いたいとこだが、給料日前で
あいにく持ち合わせが少ない、

安い物にして、もらえたら有難い!
と、豪快に笑われた。

しばらくするとウエートレスが、
注文をとりにきた。

「私は、いつものホットコーヒー..
君たちは何にする?」

とおっしゃられたので、珠美とシンコは
オレンジジュース、俺はクリームソーダ
を注文した。

広島大学と広原高校時代の、
YUKIKO先生の事を聞いてみた。

先生は、おしぼりで顔を拭きながら
少し恥ずかしそうではあったが、
懐かしそうに当時の話をしてくれた。

「私が3年のとき入学してきた
生徒の中に光り輝く松原智恵子に
似た女の子がいた、

その子がYUKIちゃんだった、

すごく可愛くてなぁ..
頭も良く運動もでき、

私たち、いや!

全校生のマドンナだった。

私なんか、チビでこの見てくれだろ
高校時代、YUKIちゃんと話したこと
すらない、古寺の次男坊だった俺は、

辛い人生を体験された門徒さんを
たくさん目の当たりにしてなぁ..

少しでも社会の役に立ちたくて
医学部医学科を目指した。

事故で腕を失ったり、足を失ったり
又、珠美君のような子が救いたくて
形成外科医の道を選んだ。

4人は、栄心先生の話を
夢中で聞いていた。

ウエイトエスがホットコーヒーと
オレンジジュースとクリームソーダを
運んできた。

先生の前にホットコーヒーが置かれ、

オレンジジュースは
どちら様でしょうか?と言う声に
珠美とシンコが手をあげた、

残ったクリームソーダは
俺の前に置かれた。

テーブルの端に置かれた伝票を
目にして、

「おごると言いながら
気を使わせて申し訳ない、」

実は、柄にもなく給料の半分は
援助団体に寄付していて
結構、貧乏なんだ..

余計な事、君たちに
言っちまって申し訳ない!

遠慮しないで飲んでくれ!
と、コーヒを1口飲まれ、
先生は、話し出した。

私が広大3回生のとき
マドンナだったYUKIちゃんが
教育学部に入学してきてなぁ..

帰宅する方向が同じ呉原だろ、

彼女、この俺なんかに気軽に話かけて
くれてた、話す機会が増え、
現在に至っているわけだ、

申し訳ない!
余計なことを聞かせてしまった。

私が、話したかったのは、
そんなことじゃない、

見立てには、自身が有る!珠美 君
君は、最後の形成外科手術が終わり
治療したキズが癒えたら、

YUKIちゃんにも勝る、
あっと!驚く美人に変わる!

長年殻に閉じこもっていた珠美は
栄心先生が言っている事が、

まったく信じられないという
目をして聞いていた、

それで珠美君、将来どんな道に
進もうと思っているのか
教えてもらえないだろうか?

今までの珠美とは、違っていた
珠美は、即答した。

「YUKIKO先生と約束しました
YUKIKO先生と同じ広島大学教育学部
第三類(言語文化教育系)国語文化系
コースに進み、

絶対に中学の国語の教員になろうと
決めています。

それと経済的な理由で、
広島大学のフェニックス奨学制度が
受けられるように
勉強を頑張っています!」

ハッキリした自分の考えを言う
珠美を見て、俺もシンコも驚いた!

栄心先生は、満面の笑みを
浮かべながら、

コーヒーをすすった。

「人はなぁ..辛い体験が多いいほど
相手の気持ちがわかる
素晴らしい人間に成長する。

絶対に珠美 君は、良い先生になる!

そうか、そうか.. 頑張るんだぞ!」

クリームソーダのサクランボを
口に運ぼうとしていた慎吾に
栄心先生が質問した。

「広原高校、後輩である慎吾 君!
君は、どんな道に進もうと
思ってるのかい?」

慎吾は手に持っていたクリームソーダの
グラスを、テーブルに置き姿勢を正し
話し始めた..

「僕は、防衛大学に行こうと受験勉強を
頑張っています。動機は、珠美が痛みに
耐え努力するのを目の当たりにし、

今までの自分の甘さに
気づいたからです!」

向かい側の席に座っている珠美が、
キョトンとした目をして聞いていた。

栄心先生は、持っていた
コーヒーカップを皿の上におかれた。

「君は立派だなぁ..
実は、私も防衛大学に進もうと
思ったことがあった、

だがこの私では、厳しい訓練に耐える
自信がなく断念した。

防大は厳しいぞ、頑張れよ!

ところでシンコ君は、将来どのように
考えてるのかな?」

残ったオレンジジュースを飲みほし
シンコも即答した。

「私は、呉原商業を卒業し
スタイリストの道に進もうと
昔から決めています!」

栄心先生が残りのコーヒーを
一気に飲みほし、豪快に笑った。

「君たちの話を聞いて
日本の将来は、明るいと確信した!
道は険しいが、ある日突然パッと
開けるものだ、みんな頑張るんだぞ!」

珠美 君、何度も言うが、最後の
形成外科手術、まかせてくれ、

絶対に成功させて見せる!

栄心先生は、俺たちを1Fロビーの
玄関まで見送ってくれた。

英心 先生に、深々と頭を下げた、

自動ドアが開き4人は、
呉原労災病院を後にした..

年末の受験勉強

珠美は、机の前にある窓から外を
眺めていた、街はすっかり、

クリスマスモードだった、

その日は、お母さんがパートの帰りに
スーパーで心ばかりの
苺のショートケーキを買ってきた。

黄色い『値引き!30円』と
書かれたシールが貼ってあったが
珠美は、嬉しかった。

夕食は、鶏の唐揚げと
苺のショートケーキが食卓を飾った。

その横には、珠美の特異な
卵焼きもあった。

食事を終え土曜日とのこともあり
クリスマスも珠美は、夜遅くまで
受験勉強を頑張った。

赤いトランジスターラジオからは、
流行している、22歳の別れ、なごり雪
いちご白書をもう一度、が流れていた、

鶴光のオールナイトニッポンが、
始まった。

珠美は義直から、
もらったカップヌードルにお湯を
注いだ。

カーテンを開け、窓の外を覗いたら
雪が降っていた、静まり返った街は
薄っすら雪化粧していた。

車が1台も通らない、道路の信号は、
いつもと同じように
赤・黄・青 と点灯していた。

温かい.. カップヌードルを啜った。
カップを持つ手が温かかった。

珠美は、ホッコリした余韻に浸った..
正月、お母さんが油揚げに、きざんだ
セリが入っただけの煮込み雑煮を
作ってくれた。

心ばせの雑煮を食べるのは、
毎年の恒例だったが、今年は
出船神社の合格祈願の御守りを
渡してくれた。

そんな気遣いが、珠美には嬉しかった。

いざ!受験

年が明けると入学試験の2月25日は、
あっと言う間だった、

前日から寒気がしていたが、
朝起きたら熱っぽく、体温計で計ったら
37度2分あった。

何で?こんな大事な日に!?

そんなことは、言ってられない
お母さんに、心配かけないように
笑顔で家を出た。

天気は良かったが、試験が行わ
れる、広島駅を降りたときには、
フラフラだった、

気力を振り絞って市内電車の
広島港ゆきに乗った。

約30分 日赤病院前で下車し、
徒歩で試験会場の、広島大学に着いた。

見たこともない広い敷地で試験会場まで
5分以上かかった。試験を受ける教室は
中学のときと同じ古い木造校舎だった。

20247 受験票を確認したら2Fの
教室だった、木造の階段を上がり
受験する教室に着いた。

番号が書かれた席に着席した。

周りを見渡したら、中学のときと
ほとんど変わらない、風景に少しは
落ちついてきた。

試験の注意事項説明の後
試験官から、答案用紙が配られた
いよいよ、試験が始まった。

答案用紙をひっくり返し、真っ先に
受験番号と氏名を書いた。

しかし、熱っぽく本調子ではない..

できるだけの力で、簡単な問題から
解いていった。全問回答できたが
再確認する時間は、なかった。

こうして珠美の広島大学教育学部、
第三類(言語文化教育系)国語文化系
コースへの受験は、終わっていった。

珠美への合否通知

1月は行く、
2月は逃げる、
3月は去る..

合格発表の 3月6日が、あっと言う間に
やってきた。受験のときと同じルートで
合格発表がある広島大学のキャンパスに
到着した。

門をくぐると、大勢の人でごった返して
いて、まるでお祭りに来たような
感覚だった、

人をかき分け、合格番号が貼りだされて
いる掲示板にたどり着いた、

20210,20214..20241,20247 あった!

嬉しかったが、
広島大学のフェニックス奨学制度を受け
るためには、試験配点合計の80%以上、

しかも10名の枠があり、新聞を見て
自己採点したが、どう甘く見ても、

試験配点合計の80%以上
しかも10名の枠に入ることは、
駄目だと思った。

周りでは、胴上げとか盛り上がって
いたが、自分的には不合格の気持ちで
いっぱいだった。

広島大学のフェニックス奨学制度の
結果通知は、電話で連絡が入ることに
なっていた。

電話が鳴った、急いで受話器を取った。

それは、YUKIKO先生からだった..

受話器の向こうから
YUKIKO先生の声が聞こえた..

「珠美、フェニックス奨学制度の
役員である江角名誉教授から
報告がありました。

残念だけどあなた、試験配点合計の
80%以上10名の枠は無理でした..」

予想をしていたとはいえ、死刑宣告を
受けたようで、話を聞いた珠美は、
頭の中が真っ白で受話器を持ったまま
立ち尽くしていた。

受話器の向こうで、珠美、珠美!
と先生が呼ぶ声で我に返った。

「先生や、みんなに色々してもらった
のに、私申し訳ないです。」

そのことが悔しくて、珠美の目から
大粒の涙が溢れだした。

「珠美、あなた私の話を最後まで
聞きなさい!」

YUKIKO先生は、そう言うと話し始めた..

「江角名誉教授には、多口校長の
推薦状と伴に、私も手紙を添えて
おきました。

手紙には、以下の事を書いて
おきました。」

村上珠美は、

先天性の単純性血管腫と言う
左顔の側面から耳にかけ
大きな痣を持ち、

この世に、誕生しました。

幼少期、不慮の事故で
お父さんを亡くし、

母一人、子一人で、
経済的に厳しい、生活をしいられ、

殻に閉じこもってしまい
現在に、至っております。

猿は、いくら人間が教育しても
猿は猿だ、猿が人間を教育したら、

猿になる、

しかし、人間が教育したら、

人間になる、

だから教育は、大事なのですと、

ペスタロッチーの教育方法原論を
江角教授は、私に教えてくれ
ましたよね?

教員になった私は、彼女の殻を破り
広い世の中に、はばたいていくよう
教育するつもりです。

彼女の痣を取り除くため、周りに
いる友達の、絶大な協力を得て、

広大の医学部を卒業され、
現在、呉原労災病院の形成外科に
勤務されている、先生のもと、

厳しい治療中です。

彼女の夢は、将来、私と同じ
中学の国語教師に、なることです。

しかし、経済的な理由で広島大学の
フェニックス奨学制度を受け、

広島大学教育学部第三類
(言語文化教育系)国語文化系
コースに進むしか、

道は有りません。

広島大学フェニックス奨学制度は、
学業成績が優秀でありながら、

経済的理由により大学進学が困難な
人を支援するための、

広島大学独自の
奨学制度ですよね?

そうであるなら、
この子を救済しないで、

何のための
奨学制度なのでしょうか、

フェニックス奨学制度の役員で
あらされる、江角名誉教授に、

お力添えを借りられれば、
幸いに、存じます。

「江角名誉教授は、フェニックス
奨学制度の選考にて、あなたの事情を
説明され、

満場一致で、

あなたがフェニックス奨学制度を受ける
ことが、決まりました。

真っ先に、そのことを知らせたく
電話しました。

これで晴れて、
私と同じ道を歩むことに
なります。」

珠美は、フェニックス奨学制度を
受ける、ことが決まった事もそうだが、

自分を取り巻く大勢の人の力、
優しさが有難くて、仕方なかった。

ただ、ただ、
感謝の気持ちで、いっぱいだった。

次々と涙が、溢れ出る..

珠美は、受話器の向こうにいる見えない
YUKIKO先生に、
何度も、何度も、頭を下げた。

YUKIKO先生の、声が聞こえた。

「フェニックス奨学制度を受け続ける
には、在学中、定める成績基準を継続し
満たす必要が、あります。

心を引き締めて、
学生生活を送るように、
おめでとう、珠美!」

そう言って、YUKIKO先生からの
電話は切れた。

こうして俺たち、4人組は
高校を卒業後、

シンコ事、山科 信子は、
ブライダル会社への就職が決まり
スタイリストとして歩むことになった。

山本 慎吾、慎吾は念願だった防衛大学
(理工学専攻)への入学が決まり
自衛隊に入隊する事になった。

村上珠美、珠美は、YUKIKO先生と
同じ、国語教員を目指し、

フェニックス奨学制度を利用し
広島大学 教育学部へ進学が決まった。

俺、脇屋 義直 は、広島市にある
大学への電気工学科への進学となった。

高校を卒業し、4人とも違う道に進む
ことになったが、最低限の連絡は
取りあった。

今思えば、4人が顔を突き合わせ、
過ごした、中学の3年間が懐かしくて
たまらなかった..

我々は、過去に戻ることも
未来に行くこともできない、

我々の意識は、言い表せないような
一点に存在し、常に変化を繰り返し決し
後戻り、できない次元空間に存在して
いるのだろうと思う。

平林さんが言っていた
『この世は、微分でできていて
積分でひも解く!』と言う意味が
かすかだが、わかったような気がした。

最後の形成外科手術

手術服を着て、全身麻酔をされ
ストレッチャーに乗せられた珠美が
ナースステーションの前の椅子に、

腰かけていた、
俺たちの前を、運ばれていった。

無意識に立ち上がり、珠美を覗いたが
全身麻酔のせいで、無反応だった。

すごく不安そうな顔をした
シンコは、祈るように両手を前に
組み合わせたままだ..

手術を補佐する婦長さんから
手術に関し、説明があった。

「ご家族、関係者の方は、この通路の
先にある待合で、お持ちください。

手術にかかる予定時間は、
約1時間30と、なっています、

状態により手術時間は、
伸びる、ことがあります。

手術の執刀医は、藤井、補佐は、
私、岡田 と 花房 が担当します。

終わり次第、藤井から説明があります。

お待ちください..」

珠美は、手術室に中に消えていった
手術中である、表示ランプが点灯した。

俺たちは、待合室で待機した。

部屋の中は広く、4人掛けの長椅子が
6脚あり、漫画の単項本、16インチの
テレビがあり、窓の外は広原湾が
一望できた。

先客が1組いらして、話を伺うと
火傷痕を奇麗にする
形成手術中との事だった。

つけっぱなしのテレビから
天王星の環が、発見されたとの
ニュースが流れていた、

珠美の、お母さんがパートを終え
駆けつけてこられた、まだ手術中である
ことを伝え、部屋にある時計を見たら、

手術が終わる
予定の18:00を過ぎていた、

先客さんは、手術が終わられ、
部屋の中は、我々4人だけだった。

窓の外を見たら、広原湾に太陽が
沈もうとしていた。

待合室のドアが開いた..

一斉に4人の視線は、
ドアの方向を向いた、
手術服姿の栄心先生の姿があった。

「おまたせ.. あっ!お母さんも
来られていましたか!?
只今手術は終わりました。こちらの方へ
お越しください、」

と、結果を聞くのを
あせる俺たちを制し、

部屋のコーナーにある
長テーブルの方に案内された。

窓の外を見たら、今しがた太陽が沈み
広原湾は、夕日に包まれてた。

沖を進む船が、黒いシルエットになり
幻想的な風景が、広がっていた。

栄心先生は、手術内容を説明された。

「皮膚の奥底に、あった単純縫縮の
病変は、顔に傷が残らないよう口腔
(口の中)から切除しました。

場合によって最悪、皮膚移植も
考えましたが、その必要は
ありませんでした。

傷跡もなく、奇麗に治ると思います。

いや、治ります!

珠美 君の、
単純縫縮を取り除く手術は、
成功しました!」

その事を耳にした、我々4人は、
無意識のうち、抱き合って喜んでいた。

昭和52年(西暦1977年)3月は、
我々最高の月となった。

栄心先生は、カレンダーを使い
術後の説明をされた。

「傷自体は、顔の表面には、
ありません、麻酔から覚め、切開部が
癒着し腫れが引くのに、3日~5日、

それを待って、
口腔内の抜糸を行います。

そうですねぇ..
今日が、9日の水曜日だから..

13日の日曜日まで
入院してもらいます。

退院後は、週2回の通院をして
もらいますが、大学の入学式までには
完全に治ります。」

「珠美 君の頑張りの、たまものですが
お母さん、君たち、長きにわたり
よく頑張りました。

鬼手きしゅ仏心ぶっしん、All for you
すべてあなたのために!

栄心先生は、
達成感に満ち溢れていた。

防衛大学への入寮準備等、多忙で
俺は、珠美が入院中、付き添って
やれなかった、

呉原労災病院に近い
呉原商業に、通学しているシンコが
放課後、毎日見舞いに顔を出した。

3月14日(日)予定通り
午後退院となった。

日曜日ということもあり
面会時間の午前10:00には、
2人室の病室に、到着していた。

珠美の顔左側面は、腫れを引かせる
治療として、湿布薬をしみ込ませた
ガーゼで覆われていた。

栄心先生が回診に、こられた、

どれどれ..

腫れが引いた、珠美の顔左側面を
覆っていた、ガーゼが取り除かれた。

シンコは、目を疑った、珠美の顔は、
幼稚園のときから、よく知っている..

そこには、シンコが、これまで見た
事のない、珠美の顔があった。

「た、珠美..?あんた珠美だよね!?」

珠美は、シンコの声を聞き
不安そうに言った、

「シンコ、私の顔、そんなに変..?」

「そうじゃないよ!珠美!」

目を丸くしたシンコは、
オバーヘッドテーブルの上にある
手鏡を珠美に渡した。

珠美は、手渡された手鏡を
目を閉じた、顔の前にかざし、

ゆっくり目を開けた..

今まで見た事のない、
自分の顔が、映っていた。

これが、私..?

珠美は、鏡に映し出された
自分の顔を、いつまでも眺めていた。

一部始終を見ていた栄心先生が
満面の笑みで言った。

「喫茶店で私が言ったこと、
本当だろ!」

お決まりの、親指を立てる
ジェスチャー『Good』をされた。

慎吾、初めての夏休暇

神奈川県横須賀の慎吾から、夏季休暇で
7月4週目土曜から、お盆明けの日曜まで
帰省する連絡が入った。

4月に別れ、まだ数か月しか経って
いないが、ずいぶん会っていない
ような気がした。

7月24日(日)の夜、駅に着くと
言うので、呉原駅まで雨蛙号で迎えに
行ってやった、

慎吾が乗った列車が
ホームに入ってきた。

日が沈んだとはいえ
クソ熱い、夜だった。

俺は、Tシャツにジーパンのラフな
姿だったが、

改札口を出てきた慎吾は、
防衛大学の帽子を被り、

夏の制服姿で手には
防大カバンを持っていた。

驚いたのは、
今まで見たこともない、

慎吾の短髪だった。

呉原の中学生時代でも長髪が許され
俺たちは、髪を短くしたことは、
なかった、

しかし何もかもカッコいい!
男の俺でも、惚れ惚れする姿だった。

女の子にもてないはずがない、反則だ!

噂通り鍛えられているのだろう
真っ黒に日焼けした顔から
白い歯が覗かせ、

「やぁ、義直久しぶり!」

と、笑った顔をみて俺なんかとは、
全然違う人間的に成長したなぁ~と、

つくづく感じた。

冗談が、言えなくなったんじゃ
ないかと思えた。

雨蛙号の荷台に、防大カバンを縛り付け
山本精米店に向け、バイクを走らせた。

「義直、風を切って走るバイクは、
いいよなぁ~!」

慎吾の、大きな声が聞こえた。

一番驚いたのは、山本精米店に
着いたときだった、

ヘルメットを脱ぎ、防大カバンに
しまっておいた帽子を、深くかぶり直し
直立不動で敬礼し、大きな声で、

「慎吾、只今帰りました!」と
挨拶した事だった。

心のなかで、お前本当に慎吾か?
と思ったが、その変わりように
叔父さんも、ビックリしていた。

気を取り直した、叔父さんは、

「スイカが、冷えているんだ
義直君も、中に入って
食べていきなさい、」

と、俺も招き入れてくれた。

「しかし、東京から呉原まで帰って
くるの疲れたわ!」

と、帽子を脱ぎ、
上半身ランニングシャツ一枚になった
慎吾を見て、

俺たちのところへ
帰ってきたんだなぁ~と、

ホッとした。

慎吾から防大での
毎日の生活の話を聞いた..

「防衛大学の1日」

起床

起床ラッパで一斉に起床、5分の間に
寝床の整理、着替えて学生舎前に整列、

点呼

大きな声で号令をかけ点呼を行い
健康状態を確認し教官に報告、

完封摩擦 及び 腕立て伏せ等
による体力の増強、

清掃

2年生の指導のもと、1・2年生共に
廊下・部屋・トイレ公共場所の
清掃実施、

時刻の呼称は、世間と違い、12:00 は
”ひとふたまるまる” と言いう。

朝食

学生食堂セルフサービスにて朝食、

課業行進

朝礼後、班長の指揮にて教室まで
4列に整列し教室まで行進、

授業

国家公務員であり、授業を勝手に欠席は
不可、内容は一般大学と変わらないが
防衛学が、あるのが特徴、

昼食

給仕、後かたずけは、1年生の担当、
食事のマナーや周囲への気配りを
身に付けるのが目的、

課外活動(クラブ活動)

クラブ活動を通じ、体力、気力の向上を
図り、チームワークを学ぶのが目的、

夕食

学生食堂セルフサービスにて夕食、

入浴

数百人が一度に入れる
浴場にての入浴、

自習時間

1日2時間の自習が、定められている。

綱領時間

防大生としていかに
あるべきかを考える時間、

消 灯

消灯後、自習時間だけでは足りない
学生は、許可を得て24時まで勉強を
することが可能、

話を聞いて、こうなるわな?と思うと
ともに、自分たちは、どんなに甘えた
大学生活を送ってるんだ、

と、心の底から思った。

珠美の気持ち

蚊取り線香の煙の臭いが、夏を感じ
させていた。慎吾に一つ聞いてみたい
ことがあった。

慎吾は、上半身ランニング一枚で
スイカに、かぶりついていた。

「慎吾、覚えてるかなぁ?
以前、珠美から、英文で書かれた
歌詞を、もらったじゃん!

英語なんか超苦手の俺でも
書いてある、雰囲気は、
わかるんだけど、

いくら探しても、それらしき洋楽が
見当たらないんだ..

慎吾は、なんの曲か知らないか?」

頬張ほおばっていた、スイカを吐き出しそうに
なりながら、大笑いをした。

「義直、お前、あの歌詞
洋楽だと、思っていたのか!?

あれは、珠美が日本の曲を
翻訳した歌詞だ、

1曲目は、
小坂明子の『あなた』、

2曲目は、
太田裕美の『木綿のハンカチーフ』

だ!」

目から、鱗が落ちた..

「そう言われれば、そうだな..
なんで珠美、俺に、あんな英文で
書いた歌詞、よこしたのかなぁ?

俺に、もっと英語の勉強をしろ!

と、言いたかったのかなぁ..」

慎吾は、スイカにかぶりつきながら
まじめな、顔をして俺を見た。

「お前は、珠美の事、
何もわかっちゃいない
めでたいやつだ!」

俺は、その言葉を聞いてムカッとした。

「慎吾、めでたいやつは、
無いだろう!」

と言う俺に対し
慎吾は、話し始めた..

「義直、カープの事や彼女ができた事
お前、俺に広島での話、色々聞かせて
くれたよな、

その話を、珠美に話したんだ、

話を聞いた珠美、
ひどく落ち込んでなぁ..

いくら聞いても、理由言わないんだ、

3日位たったかなぁ..

現実は、そうだよね!
と言いながら、

これ、義直 君に渡してくれるかなぁ..

と預かったのが
英文で書かれた歌詞だ、

言われた通り、お前に渡した
それだけだ!」

『あなた』You

歌:小坂明子

作詞・作曲:小坂明子

『あなた』
リリース: 1973年

If I build a house
It would be a small house
It would have big windows,
small doors
And an old fireplace in the room
With red roses, white pansies
And a puppy, you, you
I want you to be here
That was my dream
Where are you now, dear?

もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
大きな窓と 小さなドアーと
部屋には古い暖炉があるのよ
真赤なバラと白いパンジー
子犬のよこにはあなた あなた
あなたがいてほしい
それが私の夢だったのよ
いとしいあなたは今どこに

With a blue carpet covering
I'd live laughing happy
Outside the home, a boy is playing
Next to the boy, you, you
I want you to be here
That was our wish
Where are you now, dear?

ブルーのじゅうたん敷きつめて
楽しく笑って暮すのよ
家の外では坊やが遊び
坊やの横にはあなた あなた
あなたがいてほしい
それが二人の望みだったのよ
いとしいあなたは今どこに

And then I'd braid lace
By my side, by my side
You, you
I want you to be here

そして私はレースを編むのよ
わたしの横には わたしの横には
あなた あなた
あなたがいてほしい

And then I'd braid lace
By my side, by my side
You, you
I want you to be here

そして私はレースを編むのよ
わたしの横には わたしの横には
あなた あなた
あなたがいてほしい

『木綿のハンカチーフ』
Cotton Handkerchief

歌:太田裕美

作詞 : 松本隆 作曲:筒美京平

『木綿のハンカチーフ』
リリース: 1975年

My love, I'm leaving
On a train headed east
I'll find a gift for you
In the city of prosperity
No, my dear
I don't want anything
I just don't want you to lose yourself
in the city
And come back to me
And come back to me

恋人よ 僕は旅立つ
東へと 向う列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた私は
欲しいものはないのよ
ただ 都会の絵の具に
染まらないで帰って
染まらないで帰って

My love, we haven't seen each other
for six months
But please don't cry
I'll send you a ring en vogue
in the city
I'm sure it'll suit you
No, not even a diamond
in the sky
Or a pearl sleepingin the ocean
Will shine
As brightly as your kiss
As brightly as your kiss

恋人よ 半年が過ぎ
逢えないが 泣かないでくれ
都会で流行(はやり)の 指輪を
送るよ
君に 君に似合うはずだ
いいえ 星のダイヤも
海に眠る真珠も
きっと あなたのキスほど
きらめくはずないもの
きらめくはずないもの

My love, do you still
Wear no makeup, not even lipstick
Take a look at this picture
Of me in brand-new suits
No, it was you who lay
in the grass
That I was fond of
But in cold winds under skyscrapers
Take good care of yourself
Take good care of yourself

恋人よ いまも素顔で
口紅も つけないままか
見間違うような スーツ着た
ぼくの
写真 写真を見てくれ
いいえ 草にねころぶ
あなたが好きだったの
でも 木枯しのビル街
からだに気をつけてね
からだに気をつけてね

My love, forgive me
For changing and losing
sight of you
Spending joyful daysin the city
I cannot come home
My dear, as one last favor
I ask you for one more gift
For drying my tears
Send me a cotton handkerchief
A cotton handkerchief

恋人よ 君を忘れて
変わってく ぼくを許して
毎日 愉快に過ごす街角
ぼくは ぼくは帰れない
あなた 最後のわがまま
贈りものを ねだるわ
ねえ 涙拭く
木綿のハンカチーフ下さい
ハンカチーフ下さい

「お前、日本語の歌詞を見て、
何にも、思わないのか?

珠美なぁ.. お前の事、
小学校のころから、ずっと
好きだったんだってよ!」

「珠美、唯一、
お前が、かばって
くれたと言ってた、

お前、何も気づいて
いなかっただろう..

だから、めでたいやつだと言った。」

「家に帰って、冷静に日本語の
歌詞の意味を、考えてみろ!

但しだ、珠美、国語の先生に
なろうと頑張っている、

過去の重しから解き放れ、

殻を破って、大空にはばたこうと
しているんだ、

義直、いまさら、
混ぜ繰り返すんじゃないぞ!

ほら、こっちのスイカ、
持って帰って食え!」

いつもの、慎吾に戻っていた。
俺は、一言も反論できなかった..

大きな獲物を逃がす。

家に着くなり、

「義直、晩御飯できてる
わよ!早く食べなさい!」

と、台所から、お袋の声がした、
「慎吾んちで、たらふく、
スイカを食べた!悪いけど晩御飯
いらない!」

と、部屋に飛び込み、
2曲の、日本語の歌詞を熟読した。

珠美の気持ちが、ひしひしと
伝わってきた。

逃がした獲物は、大きいと言うが
俺は、とてつもなく大きな獲物を
逃がしてしまった..

ショックで、立ち直れなかった。

肩を落とし、しょんぼりと廊下を
歩いている俺を見て、

居間にいた、親父によばれた。

親父は、秋に解禁になる猟の準備のため
自慢の散弾銃を磨いていた。

「義直、どうした?ずいぶん元気が
ないじゃないか?

もしかして、彼女にでも
振られたのか!?」

と、言いながら
散弾銃を、二つ折りにした。

「親父、俺、とてつもない大きな
獲物を逃がしてしまった..」

げんなりしている俺を横目に
親父は、大笑いした。

「そうか!義直、とてつもない
大きな獲物を逃がしたか!」

うなだれている、俺を見ながら
続けて笑った。

「逃がした獲物は、大きいからなぁ!
父さんなんか、今まで、どれだけ
大きな獲物を逃した事か..

まぁ、そんなに落ち込むな!
これも一つの経験だ!

人はなぁ、経験を重ね、
本当に大事なものが、見えてくる、

自分にとって一番、大事なものは、
近くにあり、すぐに手が届き、

その存在さえ、気づかないものだ
それを失うと、逃がしたとき獲物は、
大きいと感じる。」

言っていることを、理解していないと
思ったのか、言い方を変えた。

「例えばだ、お前の周りに
当たり前のようにある空気、

その存在に、まったくきづいて
いないよな?

ところがだ!

ある日、当たり前に存在している
空気が消えたとする、

無くなって初めて、すごく大事なもの
だった、ことに気づく、

雨蛙号は、金を出せば、
又、手に入る。

周りにある空気は、金をいくら積んでも
買えやしない、

自分にとって、大事なものは、
色々あるが、本当に大事なものは、
身近で手の届くところにあり、

有るのが当たり前だと
思っている物だ。

お前には、それが見えなかった、

逃がして、痛い目にあって
経験を重ね、見えるように
なるという事だ、

義直だけじゃ無い、
みんなそうだ、これも経験だ、

どんどん、大きな獲物を逃がせ!
そして、成長しろ!」

二つ折りにした散弾銃を
ガチャンと元に戻し、

大笑いをした..

その話を聞き、今まで自分が考えていた
事が、小さすぎて可笑しくなってきた。

8月20日、夏休暇が終わり、
防衛大学へ帰る、慎吾を雨蛙号で
駅まで送った。

列車を待つ間、慎吾と話した。

「慎吾、珠美が書いた英文の歌詞の事
教えてもらって、ありがとな..

教えて、もらわなかったら
珠美の事、全然わからなかったよ、

慎吾、本当に大事なものは、
手の届き、当たり前にある物なんだ、

それを無くした、ときのショックは、
大きすぎる、

心の準備が、できていないからな..

俺は、一つ経験を積んだ
まだ、時間があるなぁ..」

親父の、受け売りだった..

何か、のどが渇いたなぁ.. 自動販売機の350mlのミスターピブを2缶買って1缶、
慎吾に渡した。俺はサクランボぽい味のミスターピブの味が好きだ。

プルタブを開け一口飲んだ。

「慎吾、偉そうに言うが、
お前にとって
いつも手に届くところにあり、

当たり前だと思っていて
空気のように
大事な物はなんだ?」

飲んでいたミスターピブを
口元から離し、こちらを見た。

「俺にとって当たり前で大事な物..
思う物がいっぱいありすぎて、
これ、一つと言う物は、ないなぁ..」

ミスターピブを、一気に飲みほした。

「俺には、それが見える..」

それは何だ?と、
慎吾の目が言っている。

「ハッキリ言う、慎吾にとって
いつも手に届くところにあり、当たり前
に存在し、空気なように大事な物、

それは、山科 信子 シンコじゃ
ないのか!?

俺みたいに、大きな獲物を逃がすな!」

慎吾は日頃、手の届くと所に
さも当たり前に、存在していると
思っていた、

シンコの大事さ、有難さに気付いた。

広島行きの改札が始まった。

茶色のミスターピブの空き缶を
握りつぶし、
慎吾に防大カバンを渡した。

「慎吾、防大の厳しい
生活に、負けるなよ!」

慎吾は、渡したカバンを右手に
持ち替えた。

「俺たち1年生は、防大では
身分は、奴隷だからな
とにかく頑張るよ!

それと、シンコの事、
気づかせてくれて、ありがとな
正月には、帰ってくる!」

そう言って慎吾は、
ホームに消えていった。

4人の再開

早いもので、大学生になって
初めての、クリスマスが
近づいてきた。

突然、シンコから電話が
かかってきた、

12月だと言うのに
暖かい日が、続いていた、

置かれていた、黒電話の受話器を
取った。シンコの、元気そうな声が
聞こえてきた..

「義直、久しぶりだね!元気してた?
ブライダル会社に、入ったのは、
良いんだけど、

右も左も、わからなくて..

超いそがしくて、バタバタして
たんだけど、やっと慣れてきた。

電話したのは、
その事じゃないんだけど、

この度、YUKIKOクラス会の幹事を
することに、なりました!」

トイレに行きたくて
俺は、適当に聞いていた。

受話器の向こうから、
シンコの声が、聞こえてきた。

「義直!あんた私の話、
ちゃんと聞いてる?」

頭の中は、トイレの事で
いっぱいで、空返事を
繰り返していたが、

珠美と言う、ワードを聞いて、

我に返った。

「日時は、12月17日(土)
18:00から、場所は野呂原会館、

会費 3000円、

YUKIKO先生も、珠美も、慎吾も、
来るって言ってた、

もちろん、あんたも来るわよね!?

慎吾なんか、帰省届を出した、その足で
16日の夜行列車で帰って来て、18日には
東京に帰ると言っていた。

じゃぁ、ヨロシクね!」

俺の、返事を聞かないで、
電話は、一方的に切れた。

それどころではなかった、
トイレに行くのを忘れてた、

俺は、トイレに駆け込み、用を足した
解放感に包まれた..

慎吾、東京からわざわざ
帰って来るのか..
しかも夜行を使って、

無理するなと、思ったが、
久しぶりに、YUKIKO先生と会えるのが
楽しみな事と、

珠美の痣が、どのように
なっているのか、早く見たかった。

防大の制服に、身を包んだ
慎吾を見つけた。俺を見つけ、

「義直、こっちだ!」

と、手招きした。

俺は、慎吾の隣に座った。

「俺は、買物を頼まれ、たまたま
早く着いたが、お前やけに早いな..」

と、言う俺に、

「防大では、
行動の10分前、集合厳守だ!

少しでも遅れたら、教官から激が飛び
全体責任として
腕立て伏せを、させられる、

だが、今の時代はまだ良い、

32年前は『精神注入棒』で
これでもか!と、ケツを殴られた。」

入口の方を見たら、あわただしく
シンコが走り回っていた。

話し込んでいる、俺たちを見つけ、

「ちょっと、あんたたち!
そんなところに座って

くっちゃべっていないで、
少しは、手伝いなさいよ!」

と、近づいてきた。

慎吾の服装を見るなり、

「それにしても、その恰好、
決まってるじゃん!」

と、言うシンコに、

1年生は、外出するとき
制服着用が、義務付けられているとの
説明をした。

渡したい物が、有るからと、
シンコを、椅子に座るよう促した。

「忙しいのに、何よ!」と
ブツブツ言って、いるシンコに
カバンに、忍ばせておいた、

綺麗に、ラッピングされた箱を渡した。

「何これ?」とシンコが箱を開けた。

中には、広島県伝統的工芸品の
化粧筆が入っていた。

「わぁ~これ、今、話題の
熊平の化粧筆じゃない!

これ私に..

慎吾、もらっていいの?」

慎吾は、防大カバンにしまっておいた
帽子を深く、かぶり最敬礼をした。

「シンコいや!山科 信子さん
今日は、御願いがあり、
東京から帰って、まいりました。

自分と、交際して
頂けないでしょうか!?」

俺が知っている、慎吾じゃない、

キツネに、つままれたような顔で
シンコは、聞いている..

慎吾の目は、真剣だった。

「わ.. わたし、準備が有るから..」

立ち去る、シンコを目で追いながら、
慎吾は、確実に手ごたえを感じていた。

一部始終を見ていた、俺は、
「慎吾、お前やったな!」と
慎吾の肩を、大きく叩いた。

椅子に腰かけた、慎吾は、

「俺は、お前みたいに
大きな獲物、絶対に
逃がさないからな!」

と、笑った。

時間も迫り、多くのクラスメイトが
会場に、集まってきた。

慎吾、変わったねぇ..
と、輪ができていた、

あちらこちらで、
昔話に、花が咲いていた。

あ..あぁ..

準備を終えた
シンコが、マイクを握った、

「みんな、聞いてください!
席の方は、昔のグーループ順で
決めています。

各テーブルの上に、名前を書いた
紙を置いています。

各自、着席してください。

YUKIKO先生は、もうすぐ来られます。

それと今日は、珠美も出席する事に
なっています。

今日は、大いに盛り上がりましょう!」

広い会場では、”珠美”と言う、
ワードを聞き、

あちらこちらが、ざわついた..

各テーブルでは、

「えっ?あの根暗の、珠美が来るの?」

と、声が漏れていた。

正面にある、大きな扉が開いた
超美人の、YUKIKO先生が現れた。

「YUKIKO先生~ こっちこっち!」
シンコが手招きをした。

YUKIKO先生は、いつになっても
美人だよな..

あちらこちら、ザワ付いていた..

扉が開いた、

シンコが放った

”珠美 こち!”と言う声に、

みんな一斉に、扉の方を見た..

次の瞬間、あれほど騒がしかった
会場が、

水を打ったように、静まり返った、

人は、予期しない驚きに直面したとき
声がでない物だと、心の底から思った。

そこには、ショートのボブヘヤーに
カットし、グレーのニットセーター
を、着て、

若草色のロングマーメイドスカートに、
コーディネートされた、

超超美人がいた。

シンコが、手招きをした。

「珠美!こっちこっち!」
ボブヘヤーに、短くカットした、

超超美人が、俺の前で立ち止まった。

「義直 君、隣の席いいかなぁ..」

た.. 珠美!?.. 珠美か..?

俺は、声を出すのがやっとだった、

隣を見たら、慎吾も大きく目を見開き
完全に固まっていた。

そんな、俺たちを見て、シンコは、

「私、メイクの天才かも!?」

と、肩をすぼめた..

隣の席に座った、珠美が
涙を流しながら言った。

「みんなに、避けられていた私の事、
かばってくれたの、義直 君だけ、

その優しさ、絶対に忘れないからね..」

女性群は、
昔話で、超盛り上がっていたが
あまりにもの衝撃に、

何を食べたのか、さえ記憶がない、

おそらく、中華料理だったのだろう..
と、思う。

明日、早朝に東京に帰らなければ
いけないと言う、慎吾に付き合い

野呂原会館を、後にした。

街は、すっかり
クリスマスイルミネーションに
彩られていた。

イルミネーションが奇麗だった。

なぁ.. 慎吾、少し歩かないか?

「珠美、ビックリしたなぁ..
本当の”珠美”、あんなに美人だとは
思わなかったよ..

お前、治療してる、珠美に長く
寄り添っていたよなぁ..
知っていたのか?」

慎吾は、とんでもない!と言う目を
していた。

明日は、何時に帰るのか?
と、問う俺に、

「博多発-東京行 広島着「0824」
(マルハチフタヨン)の
新幹線に乗る、」と答えた。

防大モードの慎吾が、
呉原労災病院の事を、話し始めた。

「手術は、成功したと英心先生から
聞いたが、防大への入寮準備とか
忙しくて、術後の入院に立ち会って
いないんだ、

珠美に寄り添ったのは、
シンコだけだ、」

「そうか!
珠美の変貌の事を知らない、俺たち
シンコに、一杯食わされたわけだ..

それにしても、超超美人に変身した
珠美には、腰が抜けるほど
ビックリしたなぁ..

俺が逃がした獲物は、
本当に、大きすぎるよ!」

「お前は、大きな獲物、
シンコを、決して
離すんじゃないぞ、慎吾!」

慎吾は、何か言いたそうにしている..

「どうした?慎吾..」

慎吾は、カバンの中から
シンコ宛に書いた封筒をよこした。

封筒には、山本 慎吾より
山科信子様と、書かれていた。

「申し訳ない、義直!
渡すタイミングがなく、シンコに
渡せなかった、

この封筒を、シンコに渡しては、
もらえないだろうか..?」

慎吾は、深々
最敬礼の、45度に頭を下げた。

「慎吾、水臭いぞ!
俺と、お前の中じゃないか、任せろ!」

慎吾は、硬くなっていた表情を崩し
笑顔を見せた。

「本当、珠美の変わりようには、
ビックリさせられたよなぁ..」

と、満面の笑みを浮かべた。

次の日、
シンコを広原公園に呼び出した。

東京から、無理して帰ってきたのは
シンコに自分の気持ちを
伝えるために、帰省した事、

想像さえしてなかった
変身した、珠美を目にし、

度肝を抜かれた事.. etc

シンコお前、俺たちに一杯食わせたな!

ところでシンコ、お前、
慎吾の事、どう思ってるんだ?
慎吾は、本気だぞ!

そう言って
預かっていた、封筒を渡した。

封筒を握りしめ、あのシンコが
神妙な顔をし、うつむいていた..

「何か返答して、やらないと
慎吾に、失礼だろうが、
どうなんだ、シンコ!」

シンコが、口を開いた。

「わからない!男子にあんな事、
言われたの、初めてだから!
私、わからない!」

うつむいた、シンコの目から
大粒の涙が、地面に落ちた。

俺は、シンコの涙を始めてみた。

シンコに、強く言い過ぎたかなぁ..
と、反省した。

言葉を選んだ..

「一途な、ところがあるけど、
でも、慎吾いいやつだよなぁ..

珠美の事なんか、自分の事のように
心配して、シンコは、そんな慎吾の事、

嫌いか?

俺は、そんな慎吾
大好きだけどなぁ..」

シンコが顔を上げた、

目が、嫌いなわけ
ないじゃんと、言っていた。

それにしても、珠美のコーディネート
大したものだ!
まるで、別人じゃないか!?

絶対に、こいつ二重人格だ..

それまで、神妙に
うつむいていた、シンコが
陽気に、話し始めた..

「珠美、これまで痣を隠そうとして
ず~っと髪を長くしてたよね、

ショートで爽やかなボブカットに
した方が絶対に似合うのよ!

肌は、白いし、

大きな、眼を引き立たせるためには
少しの赤みがかった鞄紅を
加えた方が、引き立つんだよ、

その顔を更に、引き立たせるよう
上は、あえてシンプルな、

グレーのニットセーターを
合わせたわけ、

後は、爽やかな
若草色のロングマーメイドスカートで
決めたらバッチリ!

あんたたちが、ビックリする
珠美の、完成でした!」

理論だって話す、シンコを見て、
こいつ、本当にファッションセンス
あるなぁ~と、思っている俺を横目に、

呉原労災病院を、退院する
珠美の事を、話し出した..

「退院の日は、日曜日で
面会開始の8:00には、病室に到着した、

珠美の顔左側面は、ガーゼで
覆われていて、栄心先生が回診に
こられ、ガーゼが取り除かれた。

その顔は、幼稚園のときから
よく知っている珠美じゃなかった、

私の見た事のない、顔があった..

本当の珠美は、
こんなにも美しかったんだ..
と、ビックリした。

YUKIKO先生に真っ先に連絡した。

先生も、珠美の変わりようには、
ビックリしていた。

単純縫縮の病変を取り除く
形成外科手術後の、珠美の事を
知っているのは、

私と、YUKIKO先生だけ
それで、あんた達を
ビックり、させてやろうと、

先生と作戦を、立てたわけ!」

まんまと、してやったり!

シンコは、英心先生得意の親指を立てる
ジェスチャー『Good』をした。

YUKIKO先生と、仕組んだ詳しい
作戦内容を、話し始めた..

「あんた、達だけを驚かすだけでは、
もったいないと、私が幹事をし
クラス会を開く事にした、

YUKIKO先生の、カッコいい車で
会社指定の美容室に珠美を連れて行き
ロングヘアーをバッサリ短くボブにし、

髪型に似合う、

グレーの、ニットセーターと若草色の
ロングマーメイドスカートで、

コーディネートた、

後は、当日メイクで決めれば完成!

そこへのこのこ、あんた達がやって
きたと言うわけ。」

そうだったのか、俺たち
まんまと、ハメられたわけだ..

「ところで、シンコ?今までの話、
YUKIKO先生も、関わってるのか?」

ビックリ大作戦、大成功!といった
顔をして、シンコは、

大笑いをした。

「関わってるも何も、
髪型をどうするか考えたり、
洋服を選んだのは、私だけど、

洋服代を払ったのは、
全部、YUKIKO先生、

珠美は、凄く遠慮してたけど、

「これから、珠美が殻を破り
自由に羽ばたいて、いくお祝いです。」

と、言ってた。」

さすが、YUKIKO先生やるよな!
と思ってた俺に、シンコが真面目な
顔をして、話し出した。

「義直.. さっき、
このこ、あんた達がやってきたと
言って、ご免なさい..

あんたたちの、優しさはわかってる。

恥ずかしくて、自分が思っている事と
真逆の事を言う自分が、

歯がゆくて、仕方がない
ときが、あるんだ..」

慎吾、シンコほど純度の高いヤツは、
いないぞ、

お前の、手の中にいる
大きな獲物は、滅多にいないぞ、

絶対に、逃がすんじゃないぞ!

と、言ってやりたかった。

「シンコ、慎吾、お前の為にわざわざ
東京から、帰ってきたんだぞ、
手紙、読んでやれよ!」

シンコは、大きく頷うなずいた。

シンコは、義直から渡された
封筒を開封した。

中には、防衛大学のA4の便箋が
1枚入っていていて、

文字は、万年筆を使い書かれていた。

山科 信子 殿

毎日の防大生活は、

6:30 起床、6:35 日朝点呼に始まり

22:30 消灯でカッター訓練
春季定期訓練、夏季定期訓練
遠泳(8km)、秋季定期訓練
冬季定期訓練

と、厳しい集団生活を
送っています。

2年進級時に、陸海空どこに行くか
決めなければ、いけません。

自分の希望は海上自衛隊で
卒業後、呉原に帰ってくる
つもりです。

海上自衛隊に入隊すると
江口島にある幹部候補生を
育成する第1術科学校で、

1年訓練を受け、部隊配属と
なります。

自分の配属希望先は
呉原海上自衛基地です。

横須賀と言う都会に防衛大学校は
有りますが、太田裕美の

『木綿のハンカチーフ』

では、ありませんが
防大にいる以上、都会の色に染まる
余裕は、全くありません。

自分にとって本当に大事な物とは
手の届き、当たり前に存在する
ものだと、言う事に気付きました。

人は、それを失ったとき初めて
その存在の大事さに気付く
ものです。

自分にとって、それは、

山科 信子 さん

あなたです。

今まで生きてきて
あなたほど行動力があり
純粋な人を知りません。

この正月には、帰省します。

これからの長い人生
是非とも交際して頂ければ、

大変、嬉しく存じます。

山本 慎吾

慎吾からの手紙を読み、
シンコも、改めて慎吾の
存在の大事さに気付いた。

これまで
一緒にいることが、当たり前だと
思っていた、慎吾の大事さを認識した。

「エピローグ」

月日が経つのは、早い物で
あれから、4年が過ぎた..

慎吾は、海上自衛隊に任官し
横須賀の防衛大学卒業後
呉原に帰ってきて、

江口島の第1術科学校で、
海上自衛隊員としての
訓練を受けている。

シンコは、持ち前の行動力とセンスが
買われ、主任コーディネーターとして
力を発揮した。

脇屋義直こと、俺は、電気工学科卒業後
広島市内にある、中堅自動車関連会社に
就職が決まり、

自動車生産設備の、制御設計を行う
事となった。

村上珠美は、日頃の頑張りで定める
成績基準を、継続し満たし続け
広島大学教育学部を卒業し、

中学校教諭一種免許状を取得した。

又、珠美の念願
呉原市教員採用試験にも
合格を果たし、

国語の教師として教壇に
立つことになった。

顔にあった、痣という重しから
解放され、人目をはばかる
珠美の行動は、痣と伴に消滅した。

YUKIKO先生は、警固原中学から
呉原市中心にある、呉原中央中学への
移動となった。

先生は、呉原労災病院 形成外科主任に
なられた、藤井 英心 先生と
めでたく結婚された。

結婚には、英心先生をよく知る
珠美、シンコ、慎吾も大賛成であった!

晴れて社会人になる、珠美に
YUKIKO先生は、車の運転免許を
取得するように提案した。

珠美は、先生の提案に従い
呉原自動車学校に通ったが
空間認識能力が高く、

一発で、免許を取得した。

YUKIKO先生は、呉原中央中学へ
徒歩圏内にある、マンションに引っ越し
暮すことになった。

珠美と、お母さんが暮らしている
広原市営アパートに、YUKIKO先生が
運転する117クーペが現れた。

インターホンの音がして
珠美がドアを開けると
恩師、YUKIKO先生の姿があった。

珠美が、上がってもらうよう
先生に言ったが、用件が済めば
すぐ帰るとの事、

玄関先で、先生の話を聞いた。

先生は、かけていたサングラスを外すと
ポケットから117クーペの鍵を、

珠美に、渡した。

珠美は、何のことだか
さっぱり、わからなかった..

「珠美、教員採用試験合格おめでとう
これで、あなたは正真正銘の教師です。

今まで、よく頑張りました!

それから、車の免許取得もおめでとう!

私には、車が必要なくなりました
117クーペは、あなたに譲ります。

車は、401号室の駐車枠に
止めておきました。

今まで苦労し、あなたを育ててくれた
お母さんを、この117クーペで、
色々な所へ連れて行って、あげなさい!

きっと、喜ばれると思いますよ、

もう、珠美は、痣の事で人目を気にする
必要は、ありません、

色んな場所に、自由に行き、
広い世界を体感しなさい。

これからは、殻に閉じこもっていた
珠美が、大空に羽ばたいている姿を
陰ながら、応援させてもらいます。

珠美、あなたは本当に
よく頑張りました!」

そう珠美に告げると、振り向くことなく
YUKIKO先生は、アパートを後にした。

珠美は、しばらくの間、
いま、起こったことが
理解、できなかったが、

401号室の駐車枠に、駐車されている
117クーペを目にし、
夢でない事を実感した。

「松山観光」

珠美には、お母さんを
連れて行きたい、ところが有った、

愛媛県 松山市である。

ご両親は、長年子宝に恵まれず
10年目にして、授かった女の子が
顔に痣をもって、

生まれた、珠美であった。

不慮の事故で亡くなった、お父さんが
会社で松山旅行に行ったとき、

四国八十八か所の51番、石手寺に参られ
子宝石を頂いて帰り、仏壇に供え
毎日、お祈りをして授かった子が、

珠美だった。

頂いて持ちかえった石は、
願いが叶ったら、御礼参りをし
石手寺に、返す事になっていた。

ただ、お父さんは、
珠美が幼少期のとき亡くなり、

御礼参りをし、返すことなく
未だに、家にあった。

珠美は、どうしても石手寺に石を返し
現状報告と、お礼参りがしたかった、

それと、長年苦労を掛けた母を一度
石手寺に、連れて行きたかった。

珠美は、計画を立てた。

7:28の、呉原阿加港発の
フェリーに乗れば、
堀江港には、9:00には着く、

そこから、松山市内までは、
117クーペで行けば、石手寺に
10:00過ぎには、到着できる。

お礼参りを済ませ、道後温泉まで
10分もかからない、

温泉に浸かり、松山市街地で昼食を取り
松山城に、母を連れて行ってあげよう..

そのことを、母に伝えたら
海を渡って、四国に行ったことが
ないそうで、すごく喜んでくれた。

今週の日曜日、早速決行する事にした。

珠美は、広大4年のとき
義直、一押しの ”村下孝蔵” という
シンガーソングライターが作曲した、

『汽笛が聞こえる街』アルバムを
録音した、カセットテープを
シンコから、もらった。

村下孝蔵は、広島SOGOの前にある
家電量販店(第二産業)内に
設けられている、サテライトスタジオに
出演している常連で、

義直の話では、
「彼は、絶対に有名になる!」と言う
事だそうだ..

しかし、珠美は、
初めて、聞く名前だった..

『汽笛が聞こえる街』を聴いてみた
アルバムのSIDE 1の最初は、
"松山行きフェリー"という曲だった、

聴いて珠美も、"村下孝蔵"という
シンガーソングライターは、
絶対に、有名なると思った。

アルバムは、10曲ありSIDE 2の
"月あかり"も、すごくいい曲だった。

"松山行きフェリー"は、
広島市の宇品港を舞台としたもので、

"月あかり"は、広島の北に位置する
湯来温泉での思い出から、イメージを
ふくらませて、書かれたものだそうで、

珠美は、すっかり
村下孝蔵のファンになった。

117クーペは、8トラック カセット
仕様だったが、YUKIKO先生が普通の
カセットテープが、

聴けるよう、取り換えていた。

117クーペは、前日にガソリンを
満タンにしておいた、

母を乗せ『汽笛が聞こえる街』
テープを、空調整レバーの下に
取りつけられている、

カセットデッキに挿入した。

しっとりとした"月あかり"を選曲し
呉原阿加巷に向け、車を発進さた。

『月あかり』

作詞・作曲:村下孝蔵

『月あかり』
リリース: 1980年

朧月夜に障子を開けて
注しつ注されつほろ酔い加減
小川の流れに耳を澄まし
君はほんのり頬を染めていた
君が誘った最後の旅に
何も把めず迎えた夜は
交わす言葉も空しく

「もうこれ以上飲んだらだめよ」
「もうこれ以上飲んだらだめ」と

何故かいつもと違ってた
君の言葉が優しくて

夜風吹きぬけ障子を閉めて
向かい合わせの旅の宿
夜も深まり二人の声も
川の流れに溶け込んで
傷つけ合って暮らせぬ事に
二人気付いて頬づえついた
夜のしじまに時は消えていた

「もうこれ以上飲んだらだめよ」
「もうこれ以上飲んだらだめ」と

こんな夜は寂しすぎて
一人飲む程想い出す

「もうこれ以上飲んだらだめよ」
「もうこれ以上飲んだらだめ」と

今も聞こえてくるような
君のつぶやき悲しくて

松山行フェリー

松山行フェリーに乗船した。

珠美は、フェリーに車を乗せるのは
初めてだった、

係員の誘導に従い、車を止め
サイドブレーキを引き
エンジンを止めた、

係員が車止めを、タイヤに噛ませた。

珠美と、お母さんは
2階の客室に、移動した..

フェリーは、ゆっくりバックで港を離れ
向きを変え、

晴天の瀬戸内海を
松山 堀江港に向け、走り出した。

『松山行きフェリー』

作詞・作曲:村下孝蔵

『松山行きフェリー』
リリース: 1980年

こんなにつらい別れの時が
来るのを知っていたら
君を愛さず友達のままで
僕は送りたかった

出来る事なら戻って来るわ
今は何も言わないで。

きっと貴方はこの町で
私がいなくても

港に沈む夕陽が
とても悲しく見えるのは
すべてを乗せた船が
遠く消えるから

君が言ってた夕べの言葉
もっとありふれた暮らし…
そんな事など今のぼくに
出来はしないから

いつかこの町を忘れ
君の倖せ見つけたら
僕の事などすぐにでも
忘れてほしい
忘れてほしい

船は、呉原阿加港を出港し予定通り
松山堀江港に9:15着岸した、

母を助手席に乗せ
目的の石手寺を目指した。

多少の渋滞は覚悟したが、
県道20号線をスムーズに走り
石手寺には。9:40に到着した。

石手寺(四国八十八か所 51番札所)

四国八十八か所51番、石手寺は、
訪れるだけで、心が現れる空気を
醸しだす、大きな寺だった。

境内に、小宝石がたくさん
積まれた場所があった、

生まれて22年経ち
やっと、石を返すことができた事、

これまでの、人生で体験した事、

これからの将来、

『親孝行ができ幸せな
人生が送れますように』

願いを込め、手を合わせた。

たった、それだけの事だが、
母も含め、珠美は、晴れ晴れとした
気持ちになった。

道後温泉

「お母さん、ここは奥道後、
道後温泉も、すごく近いの..
ゆっくり温泉で寛ぎましょう!」

117クーペに乗り込み
道後温泉に、向かった。

歴史は古く、アルカリ性単純温泉
(低張性・アルカリ性・高温泉)

源泉名:道後温泉第2分湯場

(6・8・9・17・19・21・25
26・28号源泉)

源泉48℃で、浴槽43℃
良い、湯加減だった。

坊ちゃん団子

湯上りに食べた、坊ちゃん団子が
すごく美味しかった。

大街道

鯛めし

道後温泉本館から、道後公園の前を走り
県道20号線を、10分足らず走ったら
街の中心、大街道に着いた。

車を立体駐車場に止め、
創業380年余りの、郷土料理のお店で
名物の、鯛めしを頂いた。

炊き込んだ鯛めし1合に鯛の刺身
吸い物がつく、鯛をぜいたくに
味わえるセットで、

何といっても、素材のクオリティが
味を左右するだけあって、

すごく美味しかった。

国宝 松山城

二の丸

昼食後、大街道を散策し直ぐ
山の上に見える、松山城に向かった。

この城は、平山城で
山の梺に、二の丸があり、

泉水を石垣で覆い、造られた
大きな、貯水井戸があった。

ロープウェイ・天守閣

ロープウェイを使い、見て回るのに
1時間30分ほどかかった。

山頂にも、大きな井戸があり、

2つの峰を、埋め立て本丸を整地する
さいに、谷底にあった泉を井戸として
残したと伝わっていて、

井戸は、深さ44.2mと
たいへん、深いものだった。

国宝広島城は、昭和20年の原爆にて
倒壊し、現在の物は、
珠美が生まれた、昭和33年に、

鉄筋コンクリートで、復元された城だが
松山城は、木造で現存する城だった。

天守閣、最上階からは、
松山市内の街並みが、一望できた。

夕日の瀬戸内海(呉原への帰途)

松山堀江港 17:15発 呉原阿加港ゆきの
フェリーに乗り込んだ、

今日ほど、
心が洗われた、1日はなかった..

珠美と、お母さんは
瀬戸に沈み、ゆく夕日を眺め、

時の流れを忘れた。

「山口県 名所めぐり」

隣の山口県に、行ってみよう。

珠美は、毎週のように
お母さんを、連れ出した。

錦帯橋

映像では、よく見るが
まだ、行ったことはない、

近場の"錦帯橋"に、母を連れ出した。

日本三名橋に、数えられており
5連の木造アーチ橋で、

全長193.3メートル、幅員5.0メートル、

主要構造部は、継手や仕口といった
組木の技術により、釘は
1本も使わず、造られていて当時、

橋を渡れるのは、

武士や一部の商人だけで
一般の人が渡れる、ようになったのは
明治に入ってから、との事だった。

晴天で暑かったので、橋の袂に
あるお店で、アイスクリーム買った。

その店は、なんと100種類もの
アイスがあり、珍しい物では
にんにく、醤油、七味..

などあったが、

珠美は、定番のイチゴ
母は、抹茶味を選んだ。

橋を渡ったら
武家屋敷の街並みがあり、

小高い山の頂には、"錦帯橋"を
見下ろすように山城があった。

山を登ったら、行けるとの事だが、

城を見るのは、止めた。

橋の近くに"岩国シロヘビの館”があり
見学した。

白蛇は、ルビー色の瞳をしていて
とても珍しいことから、縁起のいい
動物とされていて、

田んぼにいる、アオダイショウが
突然変異した、との事だった。

橋の近くに、岩国郷土料理の
押し寿司の、お店があり、

昼食は、岩国名物の押し寿司にした。

岩国名産の蓮根の
歯ごたえに、魅了された。

秋吉・秋芳洞

山口県には、秋吉台という
石灰岩で覆われた、

カルスト台地の地下に、

日本一の鍾乳洞、秋芳洞がある
母は、昔から"秋芳洞"を見るのが
夢だった。

又、鍾乳洞の上に広がる、

広大なカルスト台地を一目
見せてあげたかった。

国道2号線を使い、呉原から117クーペで
片道約3時間半かかる、

早朝に出発したら、昼前には着ける、

秋芳洞と秋吉台を見るのに
3時間近くかかる、近くにある
"湯田温泉"に一泊し、

呉原には、ゆっくり帰ろうと
珠美は、計画を立てた。

秋吉台を目指し、呉原を7時過ぎには
出発した。ガソリンメーターを見たら
半分以上有ったが、

ガソリンスタンドによって
満タンにした。

これで準備よし!

珠美は、村下孝蔵の好きな曲
"春雨”"をかけた。

『春雨』

作詞・作曲:村下孝蔵

『春雨』 リリース: 1981年

心を編んだセーター
渡す事もできず

一人 部屋で
解(ほど)く糸に
想い出を辿りながら

あの人が好きだった
悲しい恋の歌
いつも 一人 聞いた
古いレコードに傷をつけた

くり返す声が
今も谺のように

心の中で 廻り続ける
電話の度に
サヨナラ 言ったのに
どうして最後は黙っていたの
悲しすぎるわ

あの人を変えた都会(まち)
すべて憎みたいわ

灯り消して
壁にもたれ
木枯しは愛を枯らす

せめて もう少しだけ
知らずにいたかった
春の雨に 頬を濡らし
涙を隠したいから

遠く離れた事が
いけなかったの
それとも 夢が
私を捨てたの

もう誰も 私
見ないでほしい
二度と会わないわ
いつかこの街に帰って来ても

電話の度に
サヨナラ 言ったのに
どうして最後は黙っていたの
悲しすぎるわ

昼食には、早かったが休憩をとる為
宮島口の2号線沿いにある、

”あなごめし うえの”で
昼食をとった。

昼前には、秋芳洞に着いた。

洞窟の入り口は、思ったより狭く
岩肌に、亀裂が入ったように
パックリ空いていて、

洞窟から綺麗な、清流が川となって
流れ出していた。

母と入口にある、橋を渡り
鍾乳洞の中に入った。

広い!入口の狭さでは、
想像できない、大きな空間が
広がっていた。

見るのが夢だった母は、
スケールの大きさに圧倒されていた。

洞窟の中は、見学できるよう舗装した
歩道が、奥に伸びていた。

千枚皿

天井から鍾乳石が、ぶら下がっていた。

風景は一変し、池のように広がった
"千枚皿"という、空間が現れた。

目の前に広がる、見事な光景に
母もしきりに、見入っていた。

黄金柱

秋芳洞入口から約650m入った
ところに、黄金柱と呼ばれる巨大な
石灰岩の柱が立っていた。

高さ15m、幅4m、の巨大な石灰華柱で
巨大な柱の表面には、装飾模様のような
細かい、ヒダ模様が刻まれていて、

照明で、黄金色に輝いていた。

観光コースは約1kmで、所要時間は、
ゆっくり往復して、約90分。

洞内の温度は、
一年中、17℃と一定との事、

母も、思った以上のスケールに
圧倒されぱなしだった、

秋芳洞を出て、駐車していた
117クーペまで戻った。

燃料系を見たら、まだ半部近くあった。

秋吉台

お母さん、これから秋芳洞の上、
石灰岩が広がった
カルスト台地を走るよ!

一般道から、カルスト台地を横断する
道路に入った、そこは別世界だった..

目の前には、どこまでも続く
カルスト平原が、広がっていた。

人は、スケールの大きい物を
目の当たりにすると、

己の小ささに、気付くものだ。

特に珠美の場合、顔に痣があったせいで
生まれて18年間
人目を避け、小さな殻の中に、

ずっと、閉じこもっていた。

これまで、殻の中という
小さな世界の中で、生きてきた自分の

小ささを、心の底から実感した。

すっかり、心が大きくなった珠美は
今晩の宿泊先、

湯田温泉へと、車を走らせた。

湯田温泉

泉質:アルカリ性単純温泉

源泉温度63.6℃。開湯は、
約600年前とされてる。

白狐が、毎夜温泉に
浸かっていた、ところを、

権現山の、麓のお寺の
お師匠さんが発見したとされ

白狐が、温泉のシンボルとなっている。

田んぼの真ん中から
金色のお地蔵や、源泉が湧出したことが
「湯田」の、名前の由来とされ、

江戸末期には、幕末の志士たちが
集った事でも、知られている。

翌日、秋芳洞、秋吉台、湯田温泉を
満喫した、珠美は、

117クーペの、ガソリンを満タンにし
呉原への、帰途についた。

本州最西端への旅

珠美は、教科書で目にした
明治維新の中心となった長州(萩)に
一度は、訪れてみたかった、

それと、生まれてまだ見た事もない
日本海を、見てみたかった。

中国縦貫道を使えば呉原から230km
4時間弱で行くことができる、

その足で、日本海の青海島を見て
そこから川棚温泉で一泊し、

本州最西端(下関)を散策し
呉原まで、帰る旅のプランを練った。

善は、急げ!

母に、計画内容を話した
幼少のころ、萩には、
行ったことがあるそうだが、

全く憶えて、いないとの事、

それと珠美と同じく
日本海を見たこともなく、本州最西端に
行った、こともなかった。

二つ返事で
"本州最西端への、旅が決まった。

7:00に、呉原を出発すれば
萩に、昼前には着ける、

珠美は、燃料を満タンにし
萩に向け、117クーペを走らせた。

西の小京都 萩

広島に、居城を構えていた毛利氏は、
豊臣方、西軍の総大将として
関ヶ原の戦いで敗れ、

領地を削られ、

本州最西端の気候が、悪い場所に
追いやられたのが、萩である。

それから260年後、長州は、
薩長連合にて、徳川幕府を倒し
明治維新を、むかえることになる。

萩城
萩の土塀

その小さな、町の萩は、
吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作
木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文..

蒼々たる、幕末の志士を輩出した。

今でも、土塀が続く
城下町の、景観が残っていた。

松陰神社

教科書でしか、見た事はなく、

幕末より、明治期の日本を主導した
人材を、多く輩出した本物の松下村塾を
この目で、見てみたかった。

松蔭神社の境内に、ある実物の
松下村塾を目にし、

その小ささに、珠美は驚いた。

幕末当時の、塾舎が現存する建物は、

木造、かわらぶき
平家建(床面積45.51㎡)の小舎で、

八畳と、十畳半の部分からなっていて、

左側の十畳半は、塾生が増え
手狭になったため、後から塾生の
中谷正亮が設計し、

松陰と塾生の共同作業で、増築した
ものである、と言う事だった。

ここから、幕末より明治期の日本を
主導した人材を、多く輩出したとは..

珠美には、信じられなかった。

歴史の重みを、知らない人が見たら
ただの、ボロ小屋だと思うかも
しれないが、

珠美は、本物の”松下村塾”を
目の当たりにして、

興奮が、収まらなかった。

青海島

萩から、青海島までは、
国道191号線で
35分のところにある。

燃料計を見たら、
ガソリンは、十分にあった。

お母さん!
これから、日本海を見に行くよ!

珠美は
117クーペの、サイドブレーキを外し
青海島にむけ、走らせた。

日本海は、見なれた瀬戸内海とは、
全然違っていた。

崖が切り立ち、真っ青な海が広がり
波の高さは、瀬戸内海の倍はあった、

母と珠美は、恐怖すら感じた。

サザエのつぼ焼き

出店で
サザエの、つぼ焼きを食べた、

瀬戸内海の
サザエとは違い、日本海のサザエには、
角が、ある事を知った。

角はあったが、味は同じだった。

荒波の中で、生きていく為に
進化したのだろうと、思った。

川棚温泉

時計を見たら、午後4時を回っていた、

今夜宿泊する、川棚温泉までは
ここから、40分だ、

珠美は、
川棚温泉にむけ、車を走らせた。

川棚温泉は、泉質:放射能泉
(含弱放射能―カルシウム
・ナトリウム―塩化物泉)の
源泉かけ流しで、

日本温泉遺産を守る、会により
温泉遺産(源泉かけ流し風呂)に
認定されている。

瓦そば

何といっても
ここの名物は、”瓦蕎”である。

そういえば、

今日は、まともな食事を
していない事に気付いた。

呉原では、味わえない”瓦蕎”に
珠美とお母さんは、舌鼓を打った。

川棚温泉から
関門海峡までは、県道34、40号線で
1時間弱、あればいける。

珠美は、関門海峡に向け
117クーペを、走らせた。

関門海峡・関門橋

関門海峡は、諸外国との関係では、
交流交易や防衛の拠点、

国内交通では、本州と九州の結節点、

さらに、日本海と瀬戸内海をつなぐ
海上交通の要衝であり
しばしば、歴史の舞台となった。

関門海峡の最狭部である
下関市壇之浦と、北九州市門司区門司を
結ぶ海上橋で、

橋長1,068m、最大支間長712 m
昭和48年11月14日に開通、

関門連系線は、長さは64.2 km、

50万ボルト2回線で、関門海峡を横断し
九州の電力系統と
中国地方の電力系統とを、連系する。

壇ノ浦の戦い
平安時代の末期、長門国赤間関壇ノ浦で
行われた戦闘で、

栄華を誇った、平家が滅亡に至った。

治承・寿永の乱の
最後の、戦いがここであった。

栄華を誇った、平家が平安時代の末期
ここ、壇ノ浦で最後の戦いが
行われ、滅亡した。

平家物語「祇園精舎の一部」

(原文)

祇園精舍の鐘の声
諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、

ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひには滅びぬ
ひとへに風の前の塵に同じ。

(現代語訳)

祇園精舎の鐘の音には、
現象は、刻々に変化して同じ状態では、
ないことを、示す響きがある。

沙羅双樹の花の色は
盛んな者も、必ず衰えるという
道理を表している。

権勢を誇っている
人も長くは続かない、

まるで、春の夜のゆめのように
はかないものである。

勇ましく、猛々しい者も
結局は、滅んでしまう。

全く、風の前の塵と同じである。

海岸に近い山の梺には
壇ノ浦の戦いに、おいて幼くして
亡くなった、

安徳天皇を祀る、赤間神宮がある。

この神社は、平家一門を祀る塚が
あることでも有名であり、

『耳なし芳一』の舞台になった。

下関戦争

江戸末期には、
攘夷を主張する、長州藩は、
海峡に砲台や、軍艦を配備し、

5月には、アメリカ商船、フランス艦
オランダ艦などを砲撃した。

長州藩は、
アメリカ艦やフランス艦から
報復攻撃を受けたが、

海峡を封鎖し続けた、

海峡が通行不能となり
イギリスは、フランス、オランダ
アメリカとともに、艦隊を組織し、

集中攻撃を行い、陸戦隊を
上陸させて、占領を行った。

関門海峡 年表

1185年(元暦2年/寿永4年)
3月25日 - 壇ノ浦の戦いで

安徳天皇が入水、平家一門が滅亡
(治承・寿永の乱)

1612年(慶長17年)5月13日
宮本武蔵と、佐々木小次郎による
巌流島での決闘が行われる。

1863年(文久3年)7月16日
長州藩が、馬関海峡を通過する
アメリカ合衆国商船に砲撃を開始、

翌年5月の下関戦争(馬関戦争)
の原因となる。

1895年(明治28年)4月17日

日清戦争の講和条約(下関条約)
が、海峡に面した割烹旅館
「春帆楼」で調印。

1942年(昭和17年)11月15日
関門鉄道トンネルが開通。

1945年(昭和20年)3月27日から
7月11日 - 第二次世界大戦中、
アメリカ軍により
機雷敷投下が行われる。

1958年(昭和33年)3月9日
関門国道トンネルが、供用を開始する。

1973年(昭和48年)11月14日
高速道路の関門橋が供用を開始する。

1974年(昭和49年)7月、関門航路が
港湾法による開発保全航路に指定される。

1975年(昭和50年)3月10日
山陽新幹線の新関門トンネルが
供用を開始する。

春帆楼のふぐ

初代、内閣総理大臣を務めていた
伊藤博文公が、春帆楼に宿泊した折、

海は、大時化でまったく漁がなく
困り果てた、みちは打ち首覚悟で
禁制だった、

ふぐを御膳に、出したのが始まり。

ふぐ中毒が増加するなか、法律にも
「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と
定められていたが、

禁令は、表向きで、下関の庶民は、
昔から、ふぐを食していた。

若き日、高杉晋作らと食べ
その味を知っていた伊藤公は、

初めてのような顔をして
「こりゃあ美味い!」と賞賛。

明治21年には、山口県知事に命じ、

禁を解かせ、
春帆楼は、ふぐ料理公許第一号として、
広く、知られるようになった。

春帆楼は、関門海峡の近くにある。

お母さん、下関は、
何といっても、フグでしょう!

珠美は
春帆楼に、117クーペを走らせた。

本場で味わう、フグ刺しは、
新鮮で食感が全然違ってた、

珠美と、お母さんは、
本場の、フグの味を堪能した。

長年、顔の痣のせいで
人目を気にし
殻に、閉じこもっていた珠美は、

完全に殻を破り
人目を気にすることなく、

母を連れ出しては、どこにでも
自由に羽ばたいていった。

普通の人が、何とも思わず
当たり前に、味わう喜びは、

YUKIKO先生 含め、義直、慎吾
シンコ 、そして英心先生のおかげだ!

当たり前の、有難さを
心の底から、感謝した。

一般的に、成長する段階にて
共に新しい、世界を知り
触れ合いを重ね、

親子の絆が、形成されていく、

殻に閉じこもっていた、珠美は、
今、それを体験しているのである..

これまで珠美は、顔にあった
痣のせいで人目を気にし、

殻に閉じこもり、生きてきた。

今まで、目にした事のない
世界を、体感する事により
珠美を覆っていた殻は、

跡形もなく消え去り
別人の珠美へと、覚醒すると伴に
見事に、生まれ変わった。

それだけではない、

珠美を育てるために
ずっと苦労してきた、母と旅を
する事で、最大の親孝行という、

プレゼントを、贈る事ができた。

母と、一緒に過ごした時間は、
思い出となると伴に、

珠美は、一緒にいる
時間の大切さを、実感した。

YUKIKO先生の、117作戦の目的は、
ズバリ!親子の絆を
深めさせる、ことにあった。

「新人の先生」

8つ離れた弟の”義治”が、中学2年生に
進級し、初めての登校をした。

2年生になると、クラス替えがあり
担任が、変わるそうだ..

学校の正門を、くぐった桜の木の下に
田舎街では、見た事もない車が
止まっていて、

人だかりが、できていた。

人だかりの中に、2年生に なっても
同じクラスになった、浩志がいた。

「義治、この車、何という名前か
知ってるか?それにしても
カッコいい!車だよなぁ..」

車高が低く、カッコいい車だという事は、
わかったが、車に全く縁のない義治には、
何と言う車なのか、見当もつかなかった。

チャイムが鳴った、
ホームルームが、始まる時間だ、

義治は、
あわてて、教室にダッシュした。

みんな、おはよう!
先生は、まだ到着していなかった、

セーフ!

カープが、ドラフト指名した
『津田恒実』投手、凄いらしいぞ!

みんなが、雑談をして
ザワツイていた..

ガラガラっと、音がした。

教室の扉が開き
みんなが、注目した。

それまで、騒がしかった教室は、
一瞬のうちに、静まり返った。

ショートカットで、
超美人の、先生がいた。

みんな、先生の美しさに
あっけにとられ、声も出ない..

教壇に、立った先生は、
教室を見まわし、言った。

「日直!今日の
日直は、誰なの!?」

義治も、あっけにとられ
呆然としていた..

くじ引きで
初日の日直に、なっていた事を
すっかり忘れていた。

あわてて、号令をかけた。

「起立!気おつけ!
礼!着席!」

先生は、順番に出席を取り始めた。

「最後.. 脇屋 義治 君!」

返事を、した僕に、

「あなたが、脇屋 義治 君か..
今日の、日直なのね?」

先生は、俺の事を
知っているの、だろうか..?

ケースから、白いチョークを取出し
黒板に、大きな字で、

自分の、名前を書いた。

先生の名前、珠美と言うんだ..

先生は、自己紹介を始めた。

「みなさん、お早うございます。

名前は、村上珠美と言います。
長年子宝に恵まれず、10年目にやっと
授かったそうです、

先生は、顔の左半分に
大きな痣をもって、生まれました。

しかし、両親にとって
珠のような、女の子だと、

”珠美”と言う、名前を、

お母さんが、つけてくれました。」

みんな、真剣に
珠美先生の、話を聞いていた。

「出身中学は、みんなと同じ
この呉原中学です。

先生は、
人目を気にし、極力目立たないように
一人ぼっちで、行動していました。

しかし、先生の周りには、
存在を認め、心から思ってくれる、

多くの人たちが、いたのです。

先生は、痣のせいで
ずっと、自分の殻に閉じこもって
いましたが、

その殻を、打ち砕いてくれたのが
周りにいた、友達であり、

同じく、この呉原中学を卒業し、

私の、担任だった大恩師、
YUKIKO先生です。」

珠美は、クラス一人一人の目を
見ながら、話しだした。

「幼いころ、不慮の事故で
お父さんを亡くし、経済的な問題もあり
大学への進学は、あきらめていました。

YUKIKO先生の、力添えの
おかげで、広島大学に進学できました。

又、広原高校3年生のとき
みんなも、知っている
呉原労災病院で、顔の痣を取り除く、

治療と、手術を受けました。

結果は、私を取り巻いてくれた
人々のおかげで、見ての通り
跡形もなく、

取り除く、ことができました。

先生は、ずっと
この世の中で、一人ぼっちだと
思っていましたが、

そうでは、なかったのです。

目標は、YUKIKO先生と同じ
国語の教師に、なる事でした、

If you act with hope, your dreams
will definitely come true.
(希望をもって、行動すれば
絶対に夢は、かなう!)です。

担当する、教科は、
英語ではなく、国語です。

初めて、担任として
このクラスを
受け持つ事に、なりました。

みんな、これから
ヨロシク、お願いします!

明日の、ホームルームからは、
みんなと、交換ノートを使い
コミュニケーションを、図ります。

口で言えない悩み、どんなに
小さなことでも、かまいません、

ノートに、書いてください。」

いつも、ふざけている
浩志が、真剣に話を聞いていた。

「今日の日直、脇屋 義治 君、
悪いんだけど、後で教員室に、
ノートを、取りに来てください。

何か質問は、ありますか..?」

みんな、超美人先生に興味津々だった
早速、浩志が質問した。

「珠美 先生、今朝、校門を入った
桜の木の下に、止めてあった車、
先生の、車ですか!?」

珠美は、チョークをケースに
しまいながら、答えた。

「そう!みんなの先輩であり
私の大恩師、YUKIKO先生から
ゆずつてもらって、

大切に乗っている車です。

いすゞ自動車の車で
117クーペと、言います。」

珠美は、教室を見渡して言った。

「他に、ありませんか?
先生が、答えられる事なら
何でも、答えます。」

今度は、石井明美が質問した。

「先生の得意な
料理は、ありますか!?」

珠美は、笑顔で即答した。

「卵焼きが、得意です。今度、
みんなに、ごちそうしますね!

他に、ありませんか?」

自動車に、興味のある
桧山 俊樹 が、質問した。

「珠美 先生の趣味は、何ですか?」

珠美は、俊樹に同じ質問を返した。

「俊樹君の趣味を
教えて下さい。」

俊樹は、中学生にしては、珍しく
『driver』(ドライバー)
と、言う雑誌を購読していた。

「僕の趣味は、車でdriverと言う
雑誌を、毎月読んでいます。

珠美 先生が、乗っている
いすゞ自動車の 117クーペ XCは、
すごく、高い車ですよね?

呉原全体でも、そんなに
走っていないと、思います。」

気にも、していなかったが
珠美は、初めて 117クーペは、
高価な車だと知った、

恐る恐る、価格を聞いてみた。

「俊樹 君.. 117クーペって
いくらぐらい、するの?」

俊樹は、自分が乗っている
車の価格を、

本当に、知らないかと思った。

不思議そうな、顔をして
答えた。

「マツダのサバンナRX-3が、87万円
珠美 先生が、乗っている
117クーペ XCは、148万円もします。」

(当時の教員の給料は、73,216円)

珠美は、話を聞いて
ビックリした。

所得が、向上したとはいえ、
珠美の給料は、107,120円..

年収より、高かった..

空間認識能力があり、
車を運転するのが、得意な珠美は、
B級ライセンスを取得し、

実は、117クーペで
ジムカーナを、楽しもうと
思っていた、ところである。

そんな、遊びに使う車ではない..

ジムカーナの事は、伏せた。

『ジムカーナ』

コースに、置かれたパイロン
(三角すいの置物)で作られたコースを
最も正確に、早く、ゴールする競技。

「先生の趣味は、親孝行、
母を連れ、117クーペで色んな所へ、
旅行する事です。

他に、ありませんか?」

音楽に、興味のある
藤井 智司が、質問した。

「珠美 先生の好きな曲は、
何ですか!?」

この質問にも、逆に質問した。

「智司  君の好きな曲は、
何ですか?」

智司は、躊躇ちゅうちょなく答えた。

「俺は、ギターを弾いて
歌うのが好きで、今は、松山千春 の
『長い夜』を、練習しています。」

珠美は、昔、修学旅行の準備係を
したとき、義直が
バスの中で、ギターを弾き、

クラス中が
超盛り上がった事を、思い出した。

「そっか~ 智司 君は、
ギターが、弾けますか!?

もうすぐある、修学旅行で
是非ギターを弾いて、

盛り上げて下さい!!

カラオケ

この年辺りから、8トラックの
カラオケマシーンが普及を始め
ギター伴奏により歌う事は
無くなって行った..

義直が、ギターを弾けたのも
カラオケが普及していなかった
事が、強い要因ではあるが、

芸は、身を助ける!

何か、特技を身につけて
頂きたい。

有名では、ないので
みんな、知らないと思いますが..

先生は、”村下孝蔵”の曲が好きで
いつも、聞いています。」

智司は、ただ物ではない..
という顔をし、答えた。

「珠美先生は、”村下孝蔵”を
知って、いるのですか!?

”村下孝蔵”は、絶対に
有名に、なります!!」

村下孝蔵

2年後、村下は、『初恋』と言う
曲が大ヒットし、TBS系

『ザ・ベストテン』で
6週間、ベストテン入りした。

このとき、村下は、
肝臓病の治療専念中により、
同番組には、

一度も出演しなかったが、

ロングヒットとなり
この年の、年間ランキングで、

6位に、なっている。

1999年6月20日、
「高血圧性脳内出血」で倒れ、

6月24日に死去、46歳だった..

「他に、ありませんか?
先生が、答えられる事なら
何でも、答えます。」

田村 隆司 が、元気よく質問した。

「珠美 先生は、
好きな人は、いますか!?」

その質問には、少し時間を
おき、笑顔で答えた。

「田村 君は、痛いところを
突いてきますねぇ..

正直に言います..
ずっと、片思いの人がいました。

でも、私の気持ちには、
気づいて、もらえませんでした..」

こんな、綺麗な先生の事を
気づかないなんて. .

教室中が、ざわついた。
とんでもない!

義治も、そいつは
どんな、ヤツなんだ!
と、思った。

「他に、ありませんか?..
時間も来たので、今日の
ホームルームは、これで終わります。」

今度は、忘れずに号令をかけた。

「起立!気おつけ!
礼!着席!」

珠美は、超美人オーラを
放ちながら、教室を後にした..

先生が、いなくなると
一斉に、雑談が始まった。

「乗ってる、車もカッコいいし
珠美 先生.. 超美人だよなぁ.. 」

教室の、あちらこちらから
声が、聞こえていた。

僕は、約束のノートを受け取りに
職員室に、向かった。

職員室の、扉を開けた。

一番後ろの島に、真新しい
教員机があり、

珠美 先生は、机の整理をしていた。

手提げ紙袋に、新品のノートが
20冊づつ、2袋に
分けられ、入っていた。

僕を見つけるなり、
「義治 君!こっちこっち
重いけど、大丈夫かなぁ~」

持ち上げてみたら、1つの紙袋が
3kgくらい、あった。

大丈夫です..

手提げ綬が、手に食い込んだ、
結構な重さだ..

思い袋を、両手に持ち
教室に、向かおうとした。

整理中の、机の上から、

積み上げられていた、本が
床にすべり落ち、

無造作に、置かれてた117クーペの鍵も
本とともに、床に転がり落ちた。

「やべ~え、机に
あたったかな?」

慌てて、義治 が本と、
鍵を拾ろった..

鍵には、見た事のない
真っ赤な、キーホルダーが、
ついていた。

「珠美 先生..
これ、珍しい、
キーホルダーですね?」

珠美は、鍵についている
キーホルダーを、
見つめながら、言った..

「珍しいでしょう..

りんご飴の、キーホルダーなの、

私が、ずっと好きだった
片思いの、彼にもらったの.. 」

珠美は、
愛おしいそうに言った、

『これ、先生の大事な

大事な、宝物なの..

窓の外では、満開に咲き誇った桜が
春風に吹かれ、心地よく揺らいでいた..

【End】

『ALL FOR YOU』

作詞 : P.O.S.
作曲 : SKY BEATZ/FAST LANE/
CHRIS HOPE/J FAITH

歌 : GENERATIONS from EXILE TRIBE

/p>

『ALL FOR YOU』
リリース: 2016年

All for you…
Anytime 一人きりでもきっと
僕は生きてゆけると 強がりを並べた
Now I know 思い描いたほど
強くない自分が Won’t let me cry

気付けば Fallin’, I’m fallin’
また Slippin’
夜の狭間 ふと顔上げたら
君のそのまなざしが 僕に語りかけた
“Don’t you cry, Don’t you cry”
(Let’s do it baby)

I’m tryin’
いま手を繋いで 歩き出す
I’m tryin’
どんな壁でも超えていけるから
All for you…

孤独だった夜も
その声が背中を押してたから
Tryin’, Tryin’ いつも
All for you…

Far away たよりなく揺らめく
未来の灯火が 消えそうになる度
Here we go 重ねた手のひらで
僕に守らせてよ Right by your side

始まる Story, your story
いま slowly 歩き出した
この道の途中
また君がその笑顔を 忘れそうな時は
Make you smile, Make you smile
(Don’t worry baby)

I’m tryin’ 夢見てた明日へ
歩いて行く

I’m tryin’ どんな時でも君を守るから
All for you…

くじけそうな時も
その姿近くで見守るから
Tryin’, Tryin’ いつも

僕の強さや弱いところも
すべて君が受け止めてくれたから
僕はもうごまかさない I’ll be myself

I’m tryin’…
I’m tryin’…

I’m tryin’
いま手を繋いで 歩き出す
I’m tryin’
どんな壁でも超えていけるから
All for you…

孤独だった夜も
その声が背中を押してたから
Tryin’, Tryin’ いつも
All for you…

【English】

All for you…

Anytime, anytime I'll be by your side
Only you are always on my mind
Baby tell me you feel the same
Now I know I will never ever be alone
All the sad days gone away, we'll be alright

Look at me I'm fallin' I'm fallin' and I'm slippin'
I don't know where to go
Well this is all yesterday
Cause suddenly you gave me one more chance
I heard your soft and tender voice
“Don't you cry, don't you cry”

I'm tryin'
I'm standin' up with you again
Don't wanna give up
I'm tryin', I'm tryin' to breakthrough
I promise I'll be brave for you
I will never get back to the lonely nights
You're the one that I can trust forever
So I will keep on tryin', tryin' all for you

Far away when everything is far away
When you can't believe in your future
Remember I'm here for you
Here we go I'm holdin' your hand tightly
This is our fate
Gotta stay right by your side

This is my story, your story begins slowly
A long long way to go
The sun is shinin' brighter now
But when our hope's behind the clouds
I'll give you everything that you need
Make you smile, make you smile

I'm tryin'
I'm searching for the higher ground
Always with you
I'm tryin', I'm tryin' to make you proud
I promise I'll be a hero
I will never let you down baby
Wanna be the one to show you a better world
So I will keep on tryin', tryin' all for you

No nothing can hurt us
No one can bring us down
We're free to do what we love
We found each other in the dark but now
We're together we're stronger more than yesterday
I'll be myself

I'm tryin'…
I'm tryin'…

I'm tryin'
I'm standin' up with you again
Don't wanna give up
I'm tryin', I'm tryin' to breakthrough
I promise I'll be brave for you
I will never get back to the lonely nights
You're the one that I can trust forever
So I will keep on tryin', tryin' all for you

「その後..」

(YUKIKO先生)

呉原市中心の、街にある
呉原中央中学に、移動となった。

YUKIKO先生は、藤井YUKIKOと
名字が変わった。

中学校教諭一種免許状の先生は
管理職への、話があったが
現場に拘り、

主幹教諭として、活躍している。

尚、英心先生は
呉原労災病院、形成外科部長として
後進の指導に、当たられるとともに、

医療功労賞
全国表彰を、受賞された。

(慎吾)

平成8年、山本慎吾は
呉原基地を母校とする
掃海隊群第1輸送隊、

おおすみ (輸送艦・2代)へ乗艦、

東南アジア諸国連合地域フォーラム
災害救援実動演習に参加するため
ヘリコプター等を搭載し、

呉基地を出港したが
東日本大震災が、発生したため、

任務変更、

横須賀基地で、救援物資を積みこみ
仙台港への、輸送任務にあたった。

平成28年(2016年)熊本地震発生!

修学旅行の、ときに見た
熊本城の無残な
姿が、慎吾の目に飛び込んできた。

発生時刻 震央地名 マグニチュード 最大深度
4月14日21時26分 熊本県熊本地方 6.5 7
4月14日22時07分 熊本県熊本地方 5.8 6弱
4月15日00時03分 熊本県熊本地方 6.4 6強
4月16日01時25分 熊本県熊本地方 7.3 7
4月16日01時45分 熊本県熊本地方 5.9 6弱
4月16日03時55分 熊本県熊本地方 5.8 6強
4月16日09時26分 熊本県熊本地方 5.4 6弱

4月16日(土)呉原基地にて
救援物資を搭載し
熊本県八代新港に、向け出港、

八代新港へは、17日(日)
15時ころ入港、

道路が寸断され、孤立した現地では
ヘリコプター輸送にて
救援物資を、非難所へ輸送した。

このとき慎吾は、二等海佐として
救援物資を各非難所に
配給する、指揮を取っている。

(シンコ)

山本慎吾と結婚した、シンコは
山科信子から、山本信子と
名字が、変わった。

持ち前の、リーダーシップと
センスを発揮した、シンコは、

現在、総務 次長として
人材発掘 及び 社員教育を
行っている。

(珠美)

村上珠美 辛い経験した、ことを財産に
人前で、話す事のできない子供たちに
今でも、珠美ノートのやり取りを行い
意思の疎通を、図っている。

珠美には、独特なオーラがあった、

虐められた、トラウマから
不登校になり、誰が話しても
部屋から出てこない、少女がいた。

珠美は、水の入ったペットボトルを持ち
彼女が、閉じこもっている
ドアの前に、立った。

珠美は、生い立ちや
これまで受けた、境遇を話した、

自分の存在を認め、心から思ってくれる
仲間にも恵まれ、大恩師である
YUKIKO先生が、目標となり、

中学の国語教師に
なったこと.. など話した。

少女の名前は、彩香 と言った。

「先生は、奇麗ごとは言いません、
ここに、水があります!

この水は、あなたを
広い世界に、解き放つ
魔法の水です、

彩香 ちゃん、

一口、この水を
飲んで、みませんか?」

何の、反応もない..

10分以上、経っただろうか
ガチャっと、音がしたと思ったら、

扉が、少し開いた..

暗い顔をし、うつむいた少女がいた、
少女は無言で、珠美から
ペットボトルを、受け取った。

次の日、クラスには
これまで、誰が話しても
決して、部屋から出てこず、

不登校を続けていた
”彩香”の姿があった。

彩香に、珠美ノートを渡した。

「彩香ちゃん、あなたは
決して、一人ぼっちじゃありません、

私がいます..

このノートに、思ってることや
悩み事があったら、どんな些細な事でも
いいの!書いてください。」

そんな彩香も、今では
元気に、介護士の仕事をしている。

経済的に、何の問題がないのに
給食費を払おうと
しない、保護者を注意したら、

「義務教育だろう
何で払う、必要があるのか!」

と、言い張り、

生徒に、教室の掃除をさせたら、

「強制労働だ!」

と、クレームを言ってくる、親..

自分達の価値観が、全て正しいと
国旗・国歌斉唱しない教職員..

私たちの、中学生時代では
考えられない事に、

いちいち、屁理屈をつける、
息苦しい、学校になってしまった。

何で、こんな世の中になったのか?
平和ボケ、なんだろう..

会津藩士・基礎の心得
「ならぬことは、ならぬものです。」

慎吾には
わかって、もらえると思った。

日本は、経済大国と言われているが
子どもの、7人に1人が
経済的な、負担を背負っている。

経済的な理由で、塾にも通えない子供や
落ちこぼれの、生徒を集め
放課後、補習授業を試みたが、

PTAから、差別だとの非難を受ける、

もう、そんな事に
へこたれる、珠美では
なかった。

日本語芸術クラブと、名を変え
顧問となった、珠美は
補習授業を始めた、

さすがに、クラブ活動という
名目では、反対できず、

心に、病をかかえた
子供たちの、指導を続けた。

持ち前の、美貌も有り
日本語芸術クラブは、人気を博し
数えきれない、

子供たちを、救済している。

珠美は、117クーペの
オーディオを、CD対応に交換し、

隣町、広原からの通勤時間は
15分程度であるが、
学生時の思い出の曲で、

『ふたりのラブソング』
キャンディーズ
『思い出は美しすぎて』八神純子
『オリビアを聴きながら』杏里
『時間よ止まれ』矢沢永吉
『白いページの中に』柴田 まゆみ
『いとしのエリー』
サザンオールスターズ、

『異邦人』久保田早紀
『真夜中のドア』松原みき
『リンダ』アン・ルイス
『Lost In Love』Air Supply、

を、聴きながら通勤した。

特に、珠美には
心に残る、曲がある。

それは、殻を破り呉原から羽ばたいた年
広島大学に入学した、1年生のとき、

クリスマスイルミネーションに
彩られた商店街から、この曲が
いつも流れていた..

『How deep is your love』
愛はきらめきの中に
ビージーズ、

である。

又、気分を向上させたいときは
あえて、遠回りの海岸線を
ぶっ飛ばし、

Shakatak の『Nightbirds』
『サマー・サスピション』
杉山清貴&オメガトライブ、

を、聴いた。

海は、マイナスイオンがいっぱいで
音の、波動も関係するのだろう..

海岸線を走り、
特に、Shakatak の軽やかで
テンポのいい『Nightbirds』

と、いう、曲を聴くと
心が、すっきりした。

(義直)

最後に、脇屋義直
YUKIKO先生が購入した、いすゞ自動車の
初代117クーペは
独特な、デザインをしていた為、

量産できず、職人による
1台ずつ、ハンドメイド(手作り)
だった。

量産車は、平板鉄板を一発で
成型できる、金型を使い
プレス機に、セット成形し、

それら、各パーツを溶接し
組立て量産を、おこなっている。

ちなみに、俺が就職した
広島の、自動車関連中堅企業は、

開発コードRX87
(ルーチェロータリークーペ)の
プレス金型製作に、成功していた。

いすゞ自動車から、デザインが
酷似していた、117クーペの
金型製作の、依頼を受け納入した、

それにより、117クーペの量産が
可能となり、YUKIKO先生が購入した車は
俺の、会社が製作した

金型により、生産された車である。

 

開発コードRX87
(ルーチェロータリークーペ)

俺は、量産部門ではなく
自動車会社へ、生産設備を造り納入する
部署への、配属となった。

偏に、電気と、
いっても、

電気を作る、発電所(強電)から
コンピューター(弱電)まで
範囲が広い、

俺が、取得した
資格も、習った内容も
強電だったが、

仕事内容は、まったく畑の違う
電気制御設計を、行っている。

世界中、色んな国に行ったが
メキシコでの、体験は、

忘れ、られない。

出発する前、パスポートの有効期限が
切れそうなので、更新した。

今までに、行った国の中で
暑い、サソリがいたるところにいて
刺されたら、死んでしまう、

治安が悪い、不衛生、貧困国..

イメージ的に、メキシコは
印象が、悪かった。

又、破傷風、A型肝炎、B型肝炎
腸チフスのワクチン接種 、

4本もの、予防接種注射をされ、
俺が、行く場所は
どんなところ、なんだとビビった。

日本から、直に行ける
飛行機は、なく
米国で一泊し、メキシコに入った。

成田空港を、出発したのが
午後の、3時過ぎ、

西海岸の、ロサンゼルス空港に
着いたのが、その日の、3時過ぎ..

いったい俺は、今まで
何をして、いたんだろう..

わけが、わからなくなった。

空港の入国審査で、聞き取れない
英語で、ごやごちゃ聞かれたが
菊の紋章の、威力は絶大で、

トランジット!と、言ったら
すんなり、10日のビザをくれた。

空港を、出た..

これが、ロサンゼルスの臭いか、
ゴミ箱の、臭いがした。

タクシーで、30分ほど走り
一泊するホテルに着いた。

チェクインをし、鍵をもらい
部屋に入った、
部屋は、すごく広かったが、

浴槽はなく、シャワーを浴び
旅の、疲れを癒した。

晩飯を食いに、ホテルの
レストランに行った、日本とは
違い、食品サンプルなど無く、

英語で書かれた、メニューを見ていたら
向かいの席で、美味そうなロブスターを
食べていた、客がいたので、

俺も!という意味で
Me too !と言ったつもりだが、

2つ持って、きやぁあがった。

ロブスターって、誰も食わない
茹でた、大きなザリガニじゃん!

フライドポテトと、塩バターソースが
ついて、いたので
つけて食ったら、美味かった。

バドワイザービールも注文し
飲み食いしたら、結構
酔っぱらってしまった..

この前、スエーデンに
行ったときには、チップなど
必要なかったが、聞いていた通り、

食事代金の、10%渡した。

ロサンゼルス空港から
メキシコの、エルモシージョまで、

5時間、かかった。

近代的な、メキシコの街並みが
見えた。これから俺は、
4か月、ここで暮らすのか..

空港の、入国審査で
色々、聞かれたが、

母方の、苗字も書いてくれ!

と、言われたのには、
戸惑った、文化の違いなのだろうか..

空港から、タクシーで
4か月宿泊する、ホテルに着いた。

チェックインをして、部屋まで荷物を
運んで、くれたボーイに
チップ、50ペソ渡した。
(日本円で、220円)

ホテルの前に、あった屋台で
タコスを注文した。

グランデとか、チカとか、
わけのわからない、スペイン語を
話してくるので、

Do you speak English?
(英語は話せますか?)

それさえも、通じない..

俺も英語は、全然だめだが
メキシコ人は、あんな顔を
してるくせに、

日本人以上に、まったく
英語が、通用しない..

仕事では、通訳がいたが
俺が、言ってる電気の専門用語を
理解できず、

全然役に、立たない..

業を煮やし、通訳抜きで
直接、メキシコ人と話した。

 

 

路度留負尾(ロドフフォ)

漢字が珍しいようで、ヘルメットに

「自分の、名前を
漢字で書いてくれ、」

と、言うので
名前を、聞いたら、

”ロドルフォ”とか、”ペラルタ”とか
言うので、適当に当て字で
書いていたら、長蛇の列ができていた。

まずは、番号と色の
スペイン語を憶えた、図面を見ながら
身振り手振りで、1か月..

少し、スペイン語で
意思の疎通が、取れるように
なっていった。

1・2・3 すら、話せなかった
スペイン語が、3か月経ったころから、

仕事も含め、

店での買い物、食事、銀行での両替
日常会話程度は、問題なく
話せる、ようになった。

生活が、かかっているから
出来るもので
背水の陣、というやつだ。

スペイン語の、
パターンが見えてきた。

スペイン語には、
男性/女性名詞がある。

名詞の最後が A で終われば
女性名詞だ。

例えば、エレーナ(A)、カーニャ(A)

俺の名字は、脇屋(WAKIYA
メジャモ・ワキヤ

いつも、お前は
オカマか?と言われた。

基本的に、スペイン語はローマ字読みで
したすみやすく、2か所違うだけ、

J は、H で発音し、Hは、発音しない
ただ、これだけだ。

例えば、HIROSHIMA は、
イロシマ と発音する。

動詞は、状況により変化して
持つは、テンゴ と言うが..

私が、持っている場合は、

テンゴ

あなたが、持っている場合は、

ティエネス

我々が、持っている場合は、

テネモス

つまり、日本語のように
私が、あなたが、我々が..
と、言わなくても、

テンゴ・ティエネス・テネモス と
言えば持っている、状況が伝わる。

食堂の事を、コメ・ドール
ビス回しは、サルマ・ドール
ライターは、エンセンデ・ドール、

とにかく、ドールを
つけておけばよい、

御願い、するときは、
ポルファ・ボールと、言って
おけばよく、

「勘定御願いします。」は、

「セニヨール・ラ・クエンタ・
ポルファ・ボール」

と、言っておけばよい、

発音も、英語とは違い
ハッキリしていて、間違って
2つ、持ってくることはない。

一番最初に、覚えたのは、
セルベッサ・ポルファボール
(ビール、下さい!)かな..

仕事中に、よく言われるのが
ケ・パサ?、この地方の方言では
ケ・オンダ?

日本語で言ったら、どうかした?
と、言う言葉で
何百回も、聞かされた。

言葉なんて、音楽と一緒だ、

珠美が昔、言っていた、
「わかろうが、わかるまいが
最後まで聞くの!」
と、いう意味がわかった。

俺は、現地にいる日本人より
メキシコ人と、仲良くなっていった。

昼になると、バモサ・コメール!
(飯、食いに行こう!)
と、言ってくるので、

彼らと、飯を食いに行った。

食堂では、日本人が固まって
飯を食っている、中、

俺だけが、いつも
メキシコ人と、飯を食っていた。

メニューは、全て
スペイン語で、書かれていて
生きるために、食べ物の名前を憶えた、

理由が、無いものを
憶える事が、超微苦手の俺が
憶える、意味があるため、

直ぐに、憶えられた。
こんな、感じだ..

日本語 スペイン語
バカ(Vaca)
セルド(Cerdo)
ポヨ(pollo)
ペス(pez)
たこ プルポ(Pulpo)
海老 カマローン(camarón)
アロース(Arroz)
ウエボ(huevo)
牛乳 レチェ(Leche)

家にも、招待された
画面が、ひん曲がって
何が映ってるのか、わからない、

テレビを見ていたし、洗濯機は
なく、洗濯板を使い
洗濯を、していた。

チワウエイニョと、いう犬を
飼っていたが、どう見ても
日本で、飼われている、

メキシコ原産の、チワワだった。

小っちゃい、くせに
すごく、獰猛な犬である。

家で飼っている、ドン や 権八 の方が
はるかに、従順だ..

メキシコの、お母さんが、

洗面器に、白身魚、アボガド、レタス
タマネギ、トマトを刻んで、ぶちこみ、

ライムの絞り汁に、胡椒・チリソース・
砂糖で、味付けをした
食べ物を、作ってくれていた。

それを、トウモロコシの粉を揚げて
作られた、チップに乗せて
食べるのだが、

これが、結構いけた。

そういえば、
「いつも何を食っているんだ?」
と、聞いたら、

バナナとミルクだと、言っていたのを
思い出した。

彼らの、生活水準を考えると
高価な、客をもてなす
特別な料理だと、気づき、

その気遣いが、凄くうれしかった..

酒は、地酒のテキーラ
(サボテンの焼酎)だが、強くて
3杯飲んだら、出来上がった。

ぼろい、ギターがあったので
『上を向いて歩こう』を歌ったら
すごく、受けた。

音楽は、万国共通である
何かしら、芸を身につける事の
大事さを、心から感じた。

街から、100km以上あるのかなぁ..

車で120km/h・1時間40分くらい
ぶっ飛ばした所に、バイア・キノという
海の、避暑地が有り、

休日には、よくでかけた、

道は、直線で
海に着くまでに、カーブが3か所しか
なかった、

地図を確認したら、バイア・キノの海は
カルフルニア湾だと、わかった。

湾なので、波は穏やかだが
瀬戸内海とは、全く違い
島など無い..

磯が、あったので潜ったら
いつも見る、風景とは全然違い、

カラフルな、熱帯魚が
いっぱい、泳いでいた。

サザエらしき、ものは
無いかと探したが、シャコ貝だらけで
サザエは、見つからなかった。

ただ、ウニだらけで
一つ、取って食して見たら
やはり、ウニだった。

現地人は、食べない..

ウニだらけの、はずである
美味いので、現地人に
食べさせようと、したら。

「お前!そんなもの
食べたら、死ぬぞ!」
と、言われたが..

確かに、ウニの味だった。

そう言えば、日本から持ってきた
こんにゃくを、食べさせた
ことが、あるが、

「何だこれは?
プラスチックじゃないか!」
と、超不人気だった..

又、海苔を
食べる、文化もなく、

「日本人は、アロース(米)に
黒い紙を、巻いて食べるんだ!?」
と、当分の間、言われた。

あの、美味い
干したスルメも、匂いを嗅ぎ、

拒絶された、

海には、動物園で見る
ペリカンが、たくさんいた。

メキシコの動物園で、ゴキブリを
飼って、いたのには驚いた..

こんな、クソ暑く
乾燥した場所では、ゴキも
生息できない..

4か月いたが、雨が降るのを
一度も、見ることは
なかった。

メキシコ人は、超親日家で
底抜けに明るく、いいヤツばかりだが..

時間を守ると、いう観念が
全くなく、仕事では
日程が立たず、よく怒った、

「道具を貸してくれ」
と、言われるのだが、

貸したら最後、戻ってくることは無い..

彼らの口癖は
「アスタ・マニャーニャ」またあした..

「日本人は、すぐ怒る!そんなに
怒ったら、体を悪くするぞ!
それより、ビールを、
飲みに行こうぜ!」だった、

よく考えたら、彼らの
いう、通りかも知れない、

できたときが、納期、
そうでなければ、ピラミッドなんか
作れる、はずがない ..

彼らは、ウサ(USA)米国人が
大嫌いだった、

日本が、江戸時代、

現在ニューメキシコ州、
カルフォルニア半島、
ロサンジェルス(西海岸)、

一帯は、メキシコの領土であり
戦争で、奪われた歴史がある。

その、クソっタレ米国と
戦争をしたのは、日本だけで
超親日国だった。

俺が、日本の広島から
来たという事で、酒が回ると、

「ウサの野郎に、原爆を落とされ,
ひどい目に、遭ったのに、
よく、米国人と仲良くできるな..?」

が、口癖だった..

最初、屋台で タコスを買ったとき
グランデ、チカ という言葉さえ
わからなかったが、

帰国するときには、日本語で
大きい?、小さい?か
聞いて、いたのだとわかった。

英語は、読めたり書けたりするくせに
話す、ことが出来ない..

スペイン語は、生きていくため
体で覚えた。

話す、ことはできるが
読み書きは、できない..

しかし、これが本当の
外国語、学習だと思う。

確かに、治安は悪く
郵便なんか、配達率が30%以下だ、

つまり、10通、郵便を出して
まともに、届くのは、3通と言う事だ。

メキシコの貧困率は、44%と高く
月収が24,000円くらいだ、

幼い子供まで、働いている。

スーパーに行くと、レジの後ろに
子供がいて、客が買った商品を
袋詰めに、してくれる。

目的は、袋に詰める事により、
釣銭の、小銭を
もらうのが、目的だ、

5歳くらいかなぁ..

俺が、商品を買って
会計を済ませると
レジ袋に、詰めてくれた。

少女に、小銭を渡そうとしたら
「どこからきたの?」と棒状の
チョコレートを、食べながら言うので、

「日本から来たよ..」て言ったら、

嬉しそうに、彼女は、
食べかけの、チョコレートを
俺に、くれた、

おそらく、彼女が、
チョコレートを、手に入れるまで
何十回も、袋詰めを したのだろう..

俺は、その気持ちが嬉しくて
持っていた、500ペソ(2700円)
を、彼女に渡した、

彼女にとって、500ペソは、
1か月袋詰めをして、得られる
くらいの、金額なんだろう..

驚いた顔をして、俺が
渡した、500ペソを見つめていた..

月日が、経つのも早い物で
8月初旬に行って、12月に入り
帰国する日が、やってきた。

友達も多くでき、今まで行った
国の中で、メキシコが
一番大好きな、国になった。

日本へ帰国するとき、空港まで
送ってくれた、彼達が、

「日本に帰らず、ずっと、
ここにいろよ..」

と、涙を流していたのが、
忘れられない..

しんみりした、話になってしまった..

ロサンゼルス から、成田 まで
JAL に乗ったが、

スチュワーデスさんと、日本語で
話せる事の、有難さが身に染みたし、

機内食で出た、日本そばを
口にしたときには
涙が、出そうになった..

帰国してからも
全国の自動車製造工場は、基より、

全世界を、飛び回っている。

落ちこぼれで、梯にも棒にもかからず
「一族一の、大バカ者!」と言われ、

英語など、できない俺がである..

後書き

気づかないだけで、誰しも
何某かの、素晴らしい
能力を持ち、生まれています。

生まれたときには、純粋な、
心で生まれてきます。

それが、知識や世間の
色に染まり、
濁って、いきます..

学問が、出来るという事は、
人より、数歩前にいて
今は、人よりかは知っている、

ただ、それだけの事です。

それは、やる気の問題だけであり、

できなければ、学習すれば良い、
だけの、ことなのです。

大愚たいぐ大賢だいけんに勝る

(大バカ者という事は、時として
非常に賢いと言う事に勝る)

『一族一の、大バカ者!』
と、言われ、

余計な、知識に色付け
されておらず、

義直は、純粋な人間でした。

義直は、感情を隠さず
ストレートに、生きます。

珠美の、痣の事など
気にも、留めていません..

幼稚園からの、幼馴染みだった珠美が、
からかわれている現場に遭遇し、
感情を押さえることなく、

傷害事件を、起こして、
しまいます。

そんな、義直の行動から、
この物語は、進展していきます。

痣の、あった珠美は、
人目を避け、殻に閉じこもり、

心に、ポッカリと、
大きな、穴が空いていました。

実は、心に穴が空いているのは、
珠美だけでは、ありません..

この世に、生まれたときは、
誰しも『心の穴』
など、ありませんが、

現世(仮想現実の空間)に
長くいると、一人一人が、
分離された、

個人だと、いう認識に、
なってしまいます。

分断された、個人という恐怖により
『心の穴』が、形成されて
いきます。

その恐怖とは、一人一人が人間という、
殻の中に存在していて、

自分と違う人とは、意思の疎通が、
とれません。

意思の疎通を、とる道具は、
言葉や、文字になりますが、

狭い、視野でしか見ることができず、

発する、言葉により相手を、
傷つけたり、
争いの、素になります。

つまり、『わかり合えない、』
という事が、最大の原因なのです。

人間の本質は、『愛』です。

病を克服したり、人が幸せに、
なって行く姿を見て、感動する半面、

平気で、殺戮も起こします。

それは、お互い、
わかり合えないという
誤解や、恐怖が原因です。

困難を乗り越え成功を、
勝ち取っていく、ストリーや、

貧乏の、どん底から這い上がり、
大金持ちに変身する、シンデレラ
ストリーに、感動するよう、

誰かが、プログラムして
いるんじゃないか?と、思ったり
することがあります。

全ての、物質が原子核を中心とし、
その周りを規則正しく電子が回り続けて
いるのも、不思議です..

その原子核を、さらに分解すると、
陽子と中性子に、分かれます。

その陽子・中性子を分解したら
どうなるのでしょう?

質量(重さ)があり、
常に振動している、物理量の、
最小単位である、量子になります。

光(光子)も、質量を、
もった波の量子です。

宇宙には、無数の星がありますが、
星の最後、爆発するとき、
夥しい衝撃波が、宇宙に広がります。

その衝撃波は、
ニュートリノ(素粒子)
と、呼ばれています。

カミオカンデ

岐阜県の神岡町にある装置で、

“神岡”という地名と、
Nuclear Decay Experiment
(核子崩壊実験)“NDE”という

名前の頭文字の名前で、
くっつけると、“KamiokaNDE”
となり、ローマ字読みして、

“カミオカンデ”と呼ばれています。

カミオカンデのタンクは、直径
約約40m、内側には高精度な
光センサーである光電子増倍管

(PMT)が取り付けられていて、
水槽は、内水槽と外水槽に分かれ
それぞれ、

32,000トンと、
18,000トンの純水を蓄え、
外水槽は、直径8インチ(20.32cm)

PMTが1,867本、内水槽には、
直径20インチ(50.80cm)PMTが
11,146本、取り付けられています。

この水槽の水分子と、ここに
飛び込んできたニュートリノとが
衝突して発生する光を、

PMTで観測します。

ニュートリノの大きさは、
0.0000000000000001cmで、

0.0000000000000001cmというのは、
1cmの1億分の1の、そのまた、
1億分1の大きさで、

地球と太陽(約1.5億km)の間に、
ただよう “髪の毛” 1本の大きさです。

宇宙空間には、このニュートリノ粒子が
充満していて、僕たち、

体の中を、1秒間に何兆個もの
“ニュートリノ”が通過しています。

宇宙に、ある物質や僕達の、
体も原子核を、電子が回っている、
分子の固まりで、構成されています。

ニュートリノの、大きさからすれば、
原子核と、電子の間を通り抜ける、
ことなどあたりまえの、ことです。

光も、光子という粒ですから、
暗いところで懐中電灯で、
手のひらを照らすと、

手の、ひらを通して光が見え、
これは、光の粒子が、体の中を
通っていると、いうことです。

光の、スピードは、
水中では、遅くなります。

しかし、”ニュートリノ” の場合、
あまりにも、小さすぎて水の中でも、
速度は、落ちません..

つまり、水中だと”ニュートリノ”は、
光よりも速くなると、いうことで、

水中で、光の速度より、
速い粒子があると、

その、ショックで衝撃波が、出ます。
その時に、チェレンコフ光と呼ばれる、
光が発生し、”カミオカンデ”では、

取り付けられている、高精度な、
光センサーで、その、光を捕らえる
ことができます。

小柴昌俊さんは、世界で始めて
その、光を捕まえる事に成功し、
ノーベル賞をもらいました。

その様な、背景もあり、
我々、魂の正体も『素粒子』じゃ
ないかとも思ったりします。

時間は、過去から未来に流れていて、
同じ、一直線上に我々は、
存在していると、思っていますが、

上図のように、存在している、
現世(次元)は、違います。

目の前の、あたかも存在して、
いるように感じている、世の中は、

仮想現実の、世界であり、
我々の意識とは、別次元にあります。

我々から、見える仮想現実の
世界は、一瞬の世界であり、

後ろを見ると、それは、
『過去という記憶』であり、

前を見たら、
『未来という思考』の
仮想現実と、なります。

常に現世は、動いていて、

我々の意識は、

その一瞬(微分)にしか
存在して、いないのですから、

量子が、固まってできた肉体と、
魂は、『別物』だと、いうことです。

よって物体として、存在していない
『心の穴』を、埋める事は、

できないのです。

『心の穴』を、埋める事は、
できませんが、穴に、蓋をする事は
できます。

それは、簡単なことで、
物欲を、手放す事、

ありのままの、自分を認める事です。

仏教の世界では、
このことを『さとり』と呼んでいます。
俯瞰的に見て下さい。

お金が大事ですか?
金が大事ですか?
ダイヤモンドが大事ですか?

残念な事に、それらには、
全く価値は、なく『心の穴』に
蓋をする事は、できません。

人間にとって大事な物は、
お金、金、ダイヤでもなく、いつも
身近にあって、日頃、価値に気付いて
いないものです。

それは、

水であり、
空気であり、
生きるための食事であり、

人が持っている『愛』なのです。

義直、慎吾、シンコ、珠美が、
修学旅行の準備で集まり、
珠美アパートで、同じ食事をします。

それは、美味しい食べ物を、
みんなで、分かち合って食べると
いうことは、

愛の交わりを、表しています。

これらの、行為、
(無形の物)こそが、

姿なき、『心の穴』を塞いで、
いく事になります。

痣をもって生まれた、珠美は、
成長するとともに、人の目を気にし、
自分の殻に、閉じこもって行きます。

人から、目立たないように
自分を殺す事、
人の障に、ならない事、

珠美は、それこそが正しい事だ、
という、価値観を、
もち続けていました..

それを、打ち壊したのは、
YUKIKO先生でした。

「珠美、あなた、まわりのこと
全然、見えていない!
みんな、った珠美が見たいの!

あなたが苦しければ、私も苦しい..
あなたが嬉しければ、私も嬉しい..

それが、愛というものなの、

何のために、お母さんがこれまで
苦労されてきたのか、

あなた、全然周りが見えていない!

いいかげん、殻に閉じこもっていないで
抜け出しなさいよ!」

の言葉です。

珠美は、これまでずっと
逃げてきた、自分に気付き、

自分を受け入れ、生きて行こうと、
心が、変わっていきます。

『心の穴』が、塞っていくと、
未来が、想像できるように、
なっていきます。

「竜馬がゆく より

後ろを、向いている限り
前へ、進むことは、
できんぜよ、

未来を、変えるのは、
今日の行動 今日の行動を

変えるのは、今、この瞬間の、
決断ぜよ!

行動しなかったら、成功の、
可能性は、

ゼロ!

一番、後悔するのは、
行動しないことぜよ。

発菩提心ほつぼだいしん

珠美の、姿を見ることにより、
慎吾も目覚め、珠美が成長する事で、

慎吾の『心の穴』も塞がって、
行きます。

何も、しなくてもいい..

あなたが、存在している事、
それも、立派な、

発菩提心 です。

発菩提心とは、
自分、以外のために願い、
行動することです。

人は、『心の穴』を、
物理的に、埋めようとしますが、

人間に、とって一番大事な物は、
お金を出し、買える物ではありません。

それは、肉眼で見ることができず、
形のない物です、

人は、満たされないとき
物を買ったり、娯楽で
紛らわせた、りしようとしますが..

誰しも、持っている
『心の穴』を、埋める事は、
できません。

満たされるのは、一瞬で、
どんな地位に、着こうと、

自由に使える、お金が
いくらあろうと、

決して、満たされることは、
ないのです。

何故なら、前に述べたように
我々は、常に変化し、動いている、

一瞬にしか、存在して、
いないからです。

人は、何のために生きる?

一言で言えば、自分以外の、
人々の、ためです。

言い方を、変えれば、
他の命を、生かす為です..

人は、逆境や困難に合うほど、
その人にしか、見えない風景を、
見ることができます。

竜馬の言葉に、

「風に向かっていく時、
鳥は高く舞い上がる。

問題に、ぶつかっていく時、
人は、大きく飛躍するんぜよ!」

と、いう件があります。

珠美が、持って生まれた痣は、
珠美にとって逆境の、原因ですが、

裏を返せば、珠美にしか見えない、
世界を彼女に見せる、事になります。

それこそが、人より優れた、
珠美を、生みます。

優れたと表現しましたが、
それは、人より多くの物を見る力です。

人は、一人では、
生きて、いけません..

食物連鎖しかり、私たちは、
単体(己)だけでは、
生きていけません、

誰かが、作ったものを消費し、
私が、作ったものを、誰かが
消費する事により、

生かされて、いるのです..

新薬の開発に、してもしかり、
実験動物にされた、ネズミの目に
色んな、薬品を点眼し、

どれくらいの、濃度であれば、
失明するとか..

どの、薬品を使えば、
改善するとか..

普通、何気なく使っている、
目薬でさえも、

貴重な、命の上に成り立っている、
事を忘れては、いけないと思います。

英語で、ありがとうは、
Thank you、あなたに、感謝する。

日本語では、有り難う、
(あることが、むつかしい)と
書きます。

日本語の ”ありがとう” は、
全然違います。

これは、有ることが難しい、
という日本独特な、分化です。

世界、75億人いる中で、

同じ次元で、YUKIKO先生、義直、慎吾、
シンコ 4人が、巡り合います。

これは、有り難う、
(あることが、むつかしい)
奇跡なのです。

珠美は、4人の力を借り、
見事、殻を破り広い世界に、
羽ばたいて、いくのですが、

発菩提心..

珠美自身が、成長する事により
4人に、絶大な恩恵を、
与えているのです。

65歳後、「黄金の18年」

多くの人は、急激に生活環境が変わり、
とまどいます。

仕事から解放され、最初のうちは、
開放感に、包まれます..

月日が、経つにつれ、
思うように、自由のはずの
開放感が苦痛に、変わってきます。

いくらかの、趣味が
あったとしても、
埋め合わせる事は、困難です。

家族、孫がいる人、一人暮らしの人、
関係、ありません..

心に、ポッカリ空いた穴は、
何なのでしょう..

この心に、ポッカリ空いた穴は
年老いたから、空いた穴ではなく、
時間的、金銭的に余裕ができ、

昔から、空いていた穴を、
痛感するように、なったのに
過ぎません。

人間だれしも、心に穴が、
あいていますが、

アフリカなど、その日の食料を
確保する事に、必死な人は、
穴を覗く、余裕さえありません..

私たち、日本人は、
格差が、あるとは言え、

その日の、食料に困り果てる事は、
ありません..

若い頃は、プラスの人生で、
家族が増え、日々の生活に追われ
穴が、空いていることを

認識する余裕は、ありませんでした。

あるところを、起点に仲間が死に、
兄弟が死に、親が死に..

マイナスの、人生に変化して、
いきます..

そのような、事が積み重なって行くと、

ポッカリ心に、穴が空き、
憂鬱になり、充実感が得られなくなり、

空虚を、感じるとともに、
虚しさを、感じます。

自分は、何のために、
生きて、いるんだろうか?

そのように、思い始めます..

これは、あなただけではありません
万国共通、人間みな感じる事です。

さて、マイナスの人生とは、
暗黒の、人生なのでしょうか?

答えは、”NO” です!

人は、快楽を求めるため、
美味しい物を、食べたり、

欲しい物を、手に入れたり、
音楽を聴いたり、

又、見えない将来の不安から貯蓄を、
したりして、プラスの人生を送ります。

これは、入れるばかりの快楽です。

同窓会の電話が、シンコから、
かかってきます、

義直は、トイレを我慢し、
我ここにあらずと、話を聞いています、

電話が終わり、用をたしたとき、
”開放感”という、快楽を体験します。

マイナス人生の、最大の武器は、
人生の、終末が計算できることです。

今まで、入れるばかりしか
頭になく、将来の不安から、

出す、(与える)ことを、
考える余裕が、ありませんでいた。

人間、ためる事、
口から入れるばかりでは、
病気に、なってしまいます。

実は、入れる快楽より、
出す(与える)ことの
快楽の方が、大きいのです。

与える事により、人と人との繋がりの、
輪が、拡大していきます。

これを充実させて、いくことこそが、
心に空いた穴を、
塞いで、いく事になるのです。

義直は、メキシコに行ったとき貧しい、
少女から食べかけのチョコレートを、
もらい感動します。

与えるのは、物量ではありません、
心なのです。

この物語では、YUKIKO先生、義直、
慎吾、シンコ、そして 英心 先生、

みんな、出す(与える)ことの
快楽の道を、歩んでいくストーリに
しました。

心の穴を、塞ぐ事とは、
発菩提心!All for you だったのです。

2021年 11月 著者 : ドングリ爺  

スポンサーリンク

Copyright© ドングリ爺のblog , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.