【blog小説】ウト・ガリアラカロ・ココ 第一章

目次

[エピローグ]

2010年冬、今年も正月休みが終わり、
憂鬱な高校生活が、また始まる..

何故憂鬱かって?

それは、小学時代含め、
今に至るまでクラスメイトから、
虐めを受け続けているからである。

僕の名前は、
対馬 和美(つしま かずよし)

幼稚園の頃から”かずよし”と、
まともに呼ばれた事はない。

大嫌いな名前だ!
先生を含め、僕の事を皆は、

“かずみ” と呼ぶ。

この女の子の様な名前のせいで、
僕は、いつも、からかわれた。

虐められるといっても、
暴力までは奮われない。

友達から仲間はずれにされたり、
何かあると悪者扱い
されたりするのだ。

僕は、野球が好きなのだが、
友達から野球に誘って
もらえないので、

学校から帰って来たら、

1人で公園に行って、
いつも、壁とキャッチボールをした。

小学校低学年の頃は、
友達と一緒に野球をした時期もあつた..

5年生のとき、
僕は、大きなエラーをしてしまい
試合にボロ負けをし、

チームメイト達に、大きな声で、
しつこく責められた。

「おめぇ、あんまりおだづ
(ふざける)なよ、

運動神経が、にぶ過ぎだっちゃ!

おめぇのせいで、
3点も取られたじゃねぇか!

負けたの
おめぇのせいだっちゃ!」

罵声をあびさせる続ける
チームメイトに、

笑顔で謝り続けたが..

僕は、野球に誘われなくなった。

「おめぇは、チームの足を
引っぱるから誘わねぇ!

かずみ・おめぇ、オカマか..
さっさどしゃれー!
(とっとと消えろ)」

と、言われた。

僕は、野球に、
誘ってもらえないのが一番、
辛かった。

そんなこともあり、
今に至るまで、親友と呼べる
友達は、
誰一人いない..

唯一、本が僕の親友だった。

なぜなら、
本は、僕を虐めないからだ。

中学生になってから、
虐めは、いっそう激しくなった..

[生い立ち]

僕のお父さんは、小学校2年のとき、
脳溢血でこの世を去った。
僕が7歳のときだった..

それから母ちゃんは、近くの缶詰工場で、
朝早くから夜遅くまで働き、
僕を育ててくれた。

中学になると給食がなく、
夜遅くまで働き、疲れているのに、

寒い日も、暑い日も、毎日毎日、
朝早く起き弁当を作ってくれ、
僕に持たせてくれた。

母ちゃんの手は、いつも、
ヒビ切れだらけ、だった..

缶詰工場へ行く時も、
父兄会で学校へ行くときも、

母ちゃんは、いつも台所にある油を
手にぬって出かけた。

「こいずしがいんんだがら仕方がない
(これしかないんだから仕方がない)」

って、大きな声で笑っていたけど..

僕は、どうしても 母ちゃんのように
笑うことができなかった、

そんな事を目にしている僕は、
どんなに生活が厳しくても母には、
感謝の気持ちでいっぱいだった..

毎日の様に、お店に飾ってある
ハンドクリームをながめては、

母ちゃんに、
プレゼントする日を夢見た。

買えるまでに10か月かかった..

130円ずつ子袋にいれ、
合計10袋を握りしめ、

夢にまで見た、
ハンドクリームを買いに

ダッシュで、お店に走った。

事件が起きた!

ハンドクリームは、
1280円だけど、

それに消費税64円、

買うには、合計1344円、
必要な事が、

お金を払うときに、

初めて分かった。

頭の中は、まっ白..
お金が足りない!

しかたなく、
ハンドクリームを
商品棚に、
返そうとしたそのとき、

店の叔母ちゃんは、

「5円玉ばかりのお金を見て、
あんだ、
ず~と前から、

このハンドクリーム見てたの
叔母ちゃんは、知っている..

消費税は、叔母ちゃんの
おまけだよ!」

と、僕にハンドクリームをくれた。

嬉しくて、紙袋に包んだ、
ハンドクリームを
握りしめ、
全速力で息を切らし、

家路に走った。

「ただいま!これ!」

って包みを渡したら、

母ちゃんは、

「なんだい?」

って、少し頭をかしげた。

母ちゃんの喜ぶ顔が見たくて!

「いいから早く開けてみてよ!
僕からのプレゼントだよ!」

と、母ちゃんに言ったら。

包みを開けると母ちゃんは、
こわい顔して僕に言った..

「和美、これどうしたの?
このハンドクリームどっから
たがいできたの?

なんぼ貧乏しても、人様の物さ
手をかけるような子さ、
育てた覚えはないよ!

情けねえべや!」

って震えながら、
ハンドクリームと僕をにらんだ。

「違うよ母ちゃん!
ぼく買ったんだよ..」

て、言ったら..

「うそをいいなさい!
お前さなして、ほだなお金があるの?
小遣いあげてんばだとないのさ..」

僕は、ハンドクリームを
手に入れるまでの
経緯を話した..

「毎日、牛乳代ってもらうから、
安い牛乳にして毎日5円づつ、

ずうっと前から、
貯めていたんだよ!

ハンドクリームを買いたくて、
母ちゃんを びっくりさせたくて、
内緒にしていただけなんだ..

僕、なにも悪い事なんか、
してないよ。」

しばらくの間、母ちゃんは、
黙っていたが..

ハンドクリームが入った紙袋の上に
大きなしずくが ポトポト落ちた..

「悪かったね」って、

いつまでも、僕に頭を下げた。

「すまなかったね」って、

いつまでも僕を抱きしめた..

僕は、生まれて初めて
母ちゃんの涙をみた。

それは、中学1年生の冬 だった..

僕は急に、
はらぴり(下痢)をもようし、

授業中トイレに行った。

その日から、

「だら(人糞)和美、

~菌が移る~!」

とか言われ、僕の触ったモノは、
避けられたり、僕と手が触れると

「うわぁ~、~菌が付いた!」

と、騒がれ、菌の移しあいをされ、
掃除のとき僕の机だけ
残ってたりされた..

母ちゃんが作ってくれた、
弁当を隠された事もあった。

弁当に、つばを
吐きかけられた事もあった。

そんな事を、されている
僕を見ても、

周りは、見て見ないふり、

関わりたくないのだ。
孤独で、仕方ない日が続いた..

くやしくて、くやしくて、
涙が止まらなかったけど、

母ちゃんが、悲しむ
顔を見たくなく、

その事は、言えなかった。

いちどだけ、

「和美と言う名前を、
付けられた おかげで、

いつも、からかわれて、
いるじゃないか!

何故こんな名前付けたんだ!」

と、母ちゃんに、
やつ当たりした事があった。

それを聞いた母ちゃんは、
その名前は、お前が、

お腹の中にいる頃から、
男の子女の子、
どちらが生まれても、

良いように、
死んだお父さんが、
何日も考えぬき、

「人間一人の力は、
たいしたこと無いけど、

一人一人の力が集まれば、
とてつもなく、
大きな事が出来る。

これほど美しいものは無く、
そんな人間に、
なってもらいたい!

と、付けた立派な名前だよ..」

と、言った。

今まで、いやで、
しかたなかった名前の由来を

聞いた僕は、

一気に雪解けするように
名前に対する拒絶感が、
急にしぼんで行った。

逆に、
誇らしく思えるようになった。

人間心の持ち方は大事で、
おそらく心に思っている事が、
態度に現れるのだろうと思う。

それからと言うもの
「かずみ」と、
からかわれなくなった。

言い忘れたが、
僕は、学校一の運動音痴で

運動神経ゼロ、

こればかりは、
先天的な事で、
努力のしようが無かった。

天は、誰にでも何か
『とりえ』を

与えている様で、

本が唯一の親友だったった為、

僕は、同学年の皆と比べ
頭の中は、知識が
いっぱいで、
たいていの事は知っていた。

一言で言えば、
運動神経の無い、根暗で、
人付き合いの出来ない、

頭でっかち人間だった。

[雨ふって地固まる]

人生何が幸いするか判らない、

虐められ、
孤独で本を読んだおかげで、

2009年4月、街一番の進学校、
石巻原高等学校(石高)に
入学する事ができた。

僕には、経済的に
公立の高校に入るしか、

進学の道は無かった。

僕は、家から
往復10kmの道のりを

オンボロの自転車で、

高台にある学校まで
息を切らしながら通った。

[石高(せきこう)]
北上川の河口に臨む丘陵、
名勝日和山に続く

『南鰐山』の一角にあり、

周囲は閑静な住宅街で、
近隣には、官公庁や
学校が点在している。

校舎から南側眼下に
太平洋の大海原を
見下ろし、

東方はるかに、
霊峰『金華山』
を、
望む景勝の地に位置している。

大正12年、宮城県石巻原中学校
として開校された。

卒業生には、
中村雅俊さん がいる。

これで母に迷惑かけずに済んだと、
思えた事が一番嬉しかった。

しかし、これから、
虐められずに、すむと言う

僕の期待は、入学し1学期にして、

はかなく崩れた..

入学した、石高は、
進学校で有りながら、

ラグビー部は、過去4回、
花園での、
全国大会に出場している。

クラスにラグビー部の
クラスメイトがいて、

僕は、恰好の
虐めの対象になった。

休憩時間にいつも、
そのグループ全員の
パンを、
売店に買いに行かされた。

「ゴラ!“ジャラ男”この金で
俺たちのパンと、
牛乳を買ってこい!」

彼達のリクエストパンを
買えなかったら、
ひどい目に会う為、

僕は、授業終了の
チャイムが鳴ると同時に、

ダッシュで売店に、
走る毎日だった。

先生の授業が、休憩時間にかかった
ときなど、最悪だった。

休憩時間は10分!

そのあいだに、1Fの売店まで走り、

大勢の列に並び、牛乳6本と、
やつらのリクエストパン6個を

買わなくては、いけない。

又、ピッタリの釣り銭を
渡さなければ、
いけない為、

お釣りは、
全て10円玉で受け取り

“ジャラジャラ”、音をたてながら
ダッシュで3Fの
教室に戻る毎日だった。

僕には、休憩時間と
呼べる物がなかった..

僕は、
そのジャラジャラする音から

“ジャラ男”と呼ばれていた。

ある日、彼達のリクエストパンを
買う事ができなかった..

よってたかって、
プロレスの伎をかけられた。

体育の時間には、
服を隠され、
パンツ一丁にさせられた。

仕方なくそれ以降の授業は、
体操服で受けた。

クラスメイトの笑いの種になった。

帰るとき自転車を見たら
“サドル”がなかった。

どれだけ探しただろう..

どぶの中に、サドルは
捨ててあった、

グランドの水道で、
泥だらけのサドルを洗った。

それを見て、
ラクビーの練習をしていた、

やつらは腹を抱えて笑っていた..

くやしくて、くやしくて、
涙があふれた。

こんな、高校生活が続いていた..

[交換ノート]

僕は、机の中に
ピンク色のノートが、

ある事に気付いた。

恐る恐るノートを開いてみた。

そこには、
ほのかな薔薇の香りと伴に、

女の子らしい、
丸文字が書れてあった。

始めまして、

「私、青木 早苗
(あおき さなえ)」

この学校の夜間部に
通っている22歳、

昼間この机にどんな人が、
座っているのかな..?

仕事と勉強は正直つらいけど、
それを吹き飛ばす、
呪文を持っているの

『ウト・ガリアラカロ・ココ』

迷惑でなければ、
返信待ってま~す。

2010年1月27日

僕は、直ぐに返信をノートに書いた。

僕の名前は「対馬 和美」
この名前のせいで今まで、
散々からかわれた。

「和美」とかいて「かずよし」

でも今は、死んだ親父が
付けてくれた
有り難い名前だと
誇りに、思っています。

昼間の学校もつらい事、
色々あるけど、

じっと耐えながら毎日、
通学しています。

2010年1月28日

「ウト・ガリアラカロ・ココ」

そうか、昼間の学校でも、
つらい事が色々あるんだ..

でもね、
明けない夜は無いよ!

きっと近いうちに
いい事があるって!

ちなみに「和美」君の夢は何?

人はね、3の約束をして
この世に生まれてくるんだ。

「和美」君の場合、
ぜったい、
その約束を
守らないといけないんだ。

きっと近いうちに
いい事があるって!

2010年1月29日

そん気楽な返信に、
僕は、憤りを隠せなかった。

僕に夢なんかないさ!

明けない夜は無い..

10年だよ!

毎日、ラクビー部のやつらに
パンを
買いに行かされ、
この前は、
プロレス伎を掛けられた!

体育の授業で服を隠された事も
あった!

3つの約束?

知っているなら、僕がどんな約束を
しているのか教えてよ。

何が、
「ウト・ガリアラカロ・ココ」
だよ、
なにが呪文だよ!

「早苗」さんは、気楽なものだよ。

2010年1月30日

「早苗」さんからの返信は、
1週間以上なかった..

「ウト・ガリアラカロ・ココ」

「和美」君 あんた、
甘えるんじゃないよ!

10年間虐められ続けている!?

毎日パンを買いに行かされている!?

プロレス伎を掛けられた!?

夢がない!?

虐めに対して一度でも
抵抗した事がある?

ほかに 虐められてる人を見て、
一度でも助けた事がある?

世の中にはね、あんたよりつらい目を
している人が沢山いるんだ!

私が知っている、
3つの約束は、何か教えてよ?

それは、わかる日が必ず来るから
教えられないな~

自分がした約束だよ、
自分の頭で考えなよ。

2010年2月10日

それを最後に、
早苗さんから変事は無くなった..

2011年3月11日(金)

早いもので、
あれから1年以上経過した。

僕は「青木 早苗」彼女に、
直接会ってみたくなった..

そのときだった!

2011年3月11日14時46分18・1秒
東日本大震災が突如、
僕の住む宮城県を襲った!

揺れている最中は、
この世の、
終わりだと本当に思った。

校庭に避難したが、
校庭で液状化現象が見られ、
アスファルトの駐車場へ避難。

3時20分ごろ、
本校そばを流れる北上川を

逆流し、

津波が「石校」を襲った。

2階の視聴覚室へ避難し、
駐車場にあった、

車が水没するのを、
目の当たりにした。

避難所としての、
生活が4月15日まで続く..

それまで約1ヶ月間、
ボランティアの方など、

多くの人から、支援をいただいた。

僕は、心配で母ちゃんの携帯に
何度も電話した。

電池が切れては、
充電し電話をかけ続けた..

しかし、
何十回、何百回かけても

つながる事はなかった。

ラジオの内容、及び、
テレビが映し出す、
街並みを見て、

僕は、言葉が出なかった。

大津波が、僕の住む町を
飲み込んでいた。

ことごとく、破壊していった..

僕の家は、どうなったんだ!
母ちゃんは??

一面、海になった街に、
僕は、呆然とした。

様子を、
見に行く事さえできなかった。

学校の隣にある運動総合公園が、
自衛隊や消防の基地となった。

被害が少なく、高台にあった
石校は、
緊急避難場所となり、
夕方には、
近隣の住民を受け入れた。

校舎内に、
約300名の避難民がいた。

食事を提供してくださる、
ボランティアの方、

暖かい食事はおいしかった。

僕達、生徒も懸命に働いた。

虐めとかそんな事、
どうでも、
よくなっている自分がいた..

僕に毎日パンを買いに行かせた、
ラクビー部のグループ、
そのほかのクラスメイト..

みんな一つになって働いた。

大津波は、
街を破壊しつくして行ったが、

それと同時に、石高から
虐めも流し去って行った。

もしかしたら、
これが自然の力、

神の力なのかも知れない。

心の中では、母の事が、
心配で心配で仕方なかった。

みんな同じだった..

僕は、無心で働いた。
体を動かしているときは、
母の事を忘れられるからである。

早いものであの日から一週間たった。

同窓会館の被災者に、
ペットボトルの麦茶を

配っていた、その時だった。

「かずよし」..

僕は、聞きなれた声に振り向いた。

そこには、手足に包帯を巻き、
自衛隊の医務官に付き添われた
母の姿があった。

心配で心配で、
母も僕を探し回っていたらしい..

それまで張り詰めていた心が、
いっきに崩れた、

母ちゃん!!周りを気にすることなく、
無意意識に母に抱きつき、
泣きじゃくる僕がいた。

とめどもなく、涙があふれた..

母ちゃんの温もりと、懐かしい
母ちゃんの臭いを体全体で感じた。

そのとき、何かが僕の手に触れた?

それは、僕が中一のとき、
母ちゃんにプレゼントした、
あのハンドクリームだった。

ハンドクリームは、買ったときと同じ
新品のままだった。

母ちゃんが言うには、
使うのがもったいなく、

お守りとして肌身離さず
身に付けているそうだ。

そこまで、大事にしてくれた事と、
あれから4年も経っているのに
新品のままだった事に、

ぼくは、驚いた..

後に僕は、不幸な真実を知った。
ハンドクリームを売ってくれた
衣料品店の叔母さんは、

店ごと津波に流され、
亡くなられたそうだ..

落ち着いた所で、
今日までの、経緯を母に聞いた。

地震にあって、
缶詰工場は、倒壊したらしい..

その後、津波に
缶詰の材料に使う、
魚を入れていた、

発砲スチロールに捕まり、
山際まで流されたそうだ。

母が助かったのには、
いくつかの

奇跡が重なっていた。

缶詰の材料が、発砲スチロールに
詰められて、
いたからこそ、
助かったと言える。

無数の瓦礫(がれき)が流れ着き、
瓦礫の下敷きになり、

身動きが、
取れなかったと言う事だ。

しばらくして、流れ着いた
ガスボンベから、

瓦礫に火が燃え広がり、

ハンドクリームを、
握りしめながら、

死を覚悟したそうだ。

そんなとき、消火に当たっていた
消防団員に
見つけられ、運よく
助け出されたと言う事だった。

母が言うには、足元が確保できず、
瓦礫の上に梯子を載せ、

自分の命を顧みず
命がけで、
救出して頂いたそうだ。 

しかし、母ちゃんは、
手足にひどい火傷をおった。

母ちゃんは、駆けつけた
自衛隊の医務管に

治療してもらい、

命を助けてもらったそうだ。

命は、助かったが、
手足におった火傷のせいで

今まで通り働く事は、
ムリだと言われたそうだ。

もっとも、
この有様では、働く工場など無い..

母が心配したのは、自分の事より
経済的な理由から、

僕を大学に行かせて、
やれなくなる事だった。

石高は、宮城県教育委員会の定めた
4月21日に始業式・入学式を実施し、
学校を再開、

しかし、生徒の半数が
被害を受けており、

教科書や学校指定の制服が、
そろえられない生徒もいた。

また、市内の学校で
被害が大きかった、

石巻原市立女子商業高校の
3年生120名が、

本校を間借りし、
5月9日から、
学校を再開する旨を伝えられた。

又、本校同窓会館にいた
避難民100名は、
市内の別の避難所へ

移動予定であったが、
難航し、5月中旬まで、
移動はずれ込んだ。

石校は、5月9日から
通常授業がスタート。

その後、いくつかの学校行事は、
見直されたが、
高校総体や中間考査など

予定通りに実施され、
夏休みを迎えた。

5月に学校がスタートすると、
隣の運動総合公園の駐車場予定地に、
ガレキが運ばれるようになった。

そのガレキからの臭いやほこりで
窓が開けられない、

プールの授業ができない
などの問題が発生。

又、ハエが大量に発生し、教室に
ハエ取り紙を何本もつるした。

しかし、ちょっとした雨でも
大潮と
重なると
道路が冠水した。

がれき置き場の臭いや、
ハエの大量発生の問題は、
解消したが、

ねずみが発生し、ほこりで、
校舎を汚すことが問題となった。

又、石巻原管内や宮城県内の
求人状況は、

厳しく就職できない..

多くの学生は、
親の経済状況が厳しく

進学も難しい、
状況に追い詰められた。

このような状況の中、
学習環境は、
決して良いとは言えないが、

生徒は、学習に部活動に頑張った。

医務管との出会い

僕の母を、治療し
助けてくれた人は、

防衛医科大学病院に勤務している。

藤井 竜二(ふじい りゅうじ)
と、言う人だった。

僕は、この大震災のおかげで、
人間として大きく成長した。

この震災を通じ、
僕は、将来、

人の幸せに役立つ仕事に
付くことが、
最大の夢となった。

僕の家も、津波に流されたが、
母が、
無事生きていてくれた、

事の喜びに、
勝るものは無かった。

今まで名前が女の子のようで、
小学生の頃から、
ずっと虐められた事、

まったく自分は、運動音痴な事、

親父が小学校2年生の時に死に、
母が苦労して育ててくれた事、

高校に入っても、虐められ続け
その中で震災にあった事、

将来人を直接、幸福にできる
人間になりたい事、
経済的に大学に行くお金などない事。

今、思っている事を
藤井さんに話した。

しばらく沈黙した後、
藤井さんが口を開いた。

僕の夢

藤井さんは、防衛大学医学科に
進む事を、僕に提案してくれた。

藤井さんは、防衛大学医学科
卒業後、
現在、

防衛大学医科病院で、医官として、
任務にあたっている
事を教えてくれた。

又、防衛大学医学科について、
詳しく説明してくれた。

「防衛大学医学科

学生の身分は、防衛省職員、
(特別職国家公務員)であり被服、
食事等は、すべて貸与又は支給、

在校中は、毎月所定の学生手当が、
支給されるほか、年2回の期末手当支、

入校の際の入学金及び、
授業料等は徴収なし、

本人の医療費は、防衛省の病院等で
受診した場合すべて国が負担、

学生は、防衛省共済組合の
組合員となり

その給付が受けられる、

各種の福祉制度有り、

医学科学生は、卒業後、
直ちに医科幹部候補生(曹長)
と、なって約6週間、

各自、
衛隊の幹部候補生学校において、

幹部自衛官として、
必要な教育訓練を

受けたうえ、

医師国家試験に合格した者には、
医師免許が与えられるとともに
幹部自衛官(2尉)となる。

医学科の卒業生は、卒業後9年間を
経過するまでは、隊員として、

勤続するよう、
努めなければならず、

この期間内に離職する場合には、
償還金を、
償還しなければならない。

それは、まるで僕のために、
あるような内容だった。

藤井さんは、
さらに、学生生活についても
教えてくれた。

防衛大学医学科は、基本は、
国防であり、
単純にそれに

医学の学科が、ついていると
思えばよいと言われた。

<学生生活>

起床:6時30分、

日朝点呼:6時40分、

朝食:6時45分~7時35分、

国旗掲揚:8時、

朝礼:8時~8時30分、

整列:8時20分、

午前授業:8時30分~11時50分、

昼食:11時50分~12時40分、

午後授業:12時50分~17時、

国旗降下:17時15分、

夕食:17時30分~16時30分、

入浴:17時~20時40分、

日夕点呼:20時50分、

消灯:24時、

「春教育」

基本団体行動教育、射撃、
空挺団実習、硫黄島研修、
沖縄所部隊研修、医療機関等研修、

「夏教育」

陸・海・空自衛体部実習、
富士野営、総火力演習研修、
陸上自衛隊実習、水泳訓練、
海上実習、スキー訓練、

僕が想像していたものとは、
まったく違っていた..

学生なんかじゃない!

医学を、
教えてもらえる自衛隊員だ!

僕は、給料がもらえる事、
食費から、

すべて、無料である事の、
意味がわかった。

正直、運動神経ゼロの僕に、
勤まるのか不安になった..

しかし、給料までもらえ、
食費・着る物・寮費全てが無料、

それと最大の夢、
直接、
人の幸福に、

たずさわれる、仕事につける!
僕には、これ以外の道はなかった..

防衛大学医学科に入学する事が、
僕の最大の目標となった。

東日本大震災は、
死者・行方不明者 18,502人、

建築物の全壊・半壊は、
合わせて、
40万0,410戸が
公式に確認された。

世界銀行の推計は、
自然災害による、

経済損失額として、
史上1位となった。

石巻原市は、本震災最多の
3,700人以上の犠牲者を出した..

『逢いたくていま』

歌 : MISIA

作詞:MISIA 作曲:Jun Sasaki

リリース: 2009年

【第一章】 著: 脇屋 義直

【第二章】へ続く..


この小説はフィクションです。
実在の人物や団体などとは、
関係ありません。

東日本大震災については、
歴実に基づき
執筆しました。

被災された方々には、
心からご冥福をお祈りいたします。

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