五章 使者あらわる
1.
一段落した輝明は、鉄板の焦げカスをこさげながら細かく顔に書かれたメッセージを、読み取ろうと、ゆうこの表情を見つめた。
ゆうこの方から話を切り出した。
「輝明さん、この1年で想像さえできないほど、私の人生は大きく変わり、将来という道が初めて見えた気がします。
こんなこと、生まれて初めてです……」
輝明には、ゆうこが話そうとしているその先のストーリーが手に取るように分かった。
表情を崩さず、ゆうこがいった。
「これから先もお世話になりますが、二十歳を節目とし、新たな人生に挑戦しようと思っています。 私、下山ゆうこは、西島ゆうこになり、大学で学び、最終的に西島食品への就職を目指そうと思いますが、許していただけますでしょうか?」
輝明としては、まったく持って想定していた内容であった。 輝明は頬を緩めいった。
「俺に反対する理由は全くない、お前の人生だ! お前が悩んで決めた事だ、環境が少し変わるが、俺はお前が立派に成長する土になるつもりだ。
立派な大輪の花を俺に見せてくれよな!」
最初の涙がこぼれてしまうと、滂沱(ぼうだ)と涙が
あふれ落ちた、もうとめどなかった。
涙をふくことなくゆうこは、輝明を見つめた。 もらい泣きしそうな輝明はグッと我慢をし、笑顔を作って、ゆうこにいった。
「娘を嫁に出す親父の気持ちって、こんな感じなのかなぁ……」
輝明はゆうこが、西島ゆうこになる決断したことを端的にまとめ、加奈子にメールを入れた。 翌日の朝、天気も良く優しい木もれ陽が店の中に降り注いでいた。
「輝明君、いる?」加奈子だった。
「メール有り難うございました。 徹社長がされた話をまとめてきました。 この度は、ゆうこちゃん、御英断誠にありがとうございます!
徹社長も大変喜ばれていました。 それより奥様の和子夫人は、躍り上がるように喜ばれていました」
加奈子がよそ行きの口調で、西島家について話し始めた。
「まず、千代子夫人と和子夫人の事から話させて頂きます」
「ちょっと待ってください、加奈子さん」
言葉を遮るように輝明がいった。
「長い話になりそうですね? お茶でも用意します」
ゆうこがとっておきのお茶をだした。
茶柱が立っている。
「これは、縁起がいい!」
とろりとした甘みとツーンとした、鼻をくすぐる香味から玉露だと気づいた。
加奈子の話は、63年前にさかのぼった。
「昭和20年(1945年)、8月6日午前8時15分、その日は晴天で、朝から暑い日だったそうです。 広島に投下された原子爆弾は、地上600mの上空で炸裂しました。
原爆により亡くなった人の数は、正確に分かりませんが、12月末までに、約14万人(±1万人)と推定されています。 千代子夫人、26歳のときでした」
爆心地から至近距離にあった相生(あいおい)地区の街並みは一瞬のうちに消え去り、祖父、祖母、兄弟4人、そして両親、未だに消息は不明です。 輝明もゆうこも、爆心地に近かった、相生地区が一瞬にして壊滅したことは、平和学習により知っていた。
「千代子夫人は、広島市立第一高等小学校の師範をされていて段原山崎町に所在していました。 校舎は原爆投下により被爆するも、倒壊を免れたそうです。
2階の空き部屋にいた生徒たちを隣の部屋に集め、『さあ国語にしようか? 算数にしようか!』授業を始めようとしたときだったそうです。
一瞬ピカ! っと、光ったかと思ったら、
凄まじい爆風に見舞われ、爆心に向いた窓ガラスが、全て砕け散り、顔から全身に無数のガラス破片を受けられたそうです。
同じく倒壊を免れ、近くにあった広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)では、『……水、水……水』
全身が焼けただれ、水を求めるうめき声が、いたるところから聞こえました。
救護所となり避難してきた多くの被爆者が、ここで息を引き取りました」
輝明が通っていた高校は、道を挟んで古いレンガ造りの建物が並んでいた。
広島陸軍被服支廠、別名出汐倉庫(でしおそうこ)である。 爆心地から2670mの距離にあり、鉄扉が歪むなどしたが倒壊はせず、被害者が殺到して臨時救護所となった。
子供の頃、被爆建物という認識は薄かった。
広島大学の寮や倉庫として使われていたこともあったが、1990年代後半からは、空き施設となり昼でも人通りがあまりなく、友達とよく忍び込んで遊んでいた。
かくれんぼをして遊んでいたとき、常に誰かに見られている様な気がして、速攻逃げ帰ったことが思い出される。
「被服支廠で治療を受けた千代子夫人は、自宅のある相生地区を目指し、さ迷うように歩かれたそうです。 途中倒壊した幟町(のぼりまち)尋常高等小学校で一生記憶に残る体験をされます。
倒壊した校舎の下敷きになり、助けを求める男子生徒がいました。
火の手は、校舎の瓦礫に燃え移ります。
涙を流し、隙間から伸ばした、男子生徒の手を握りしめるのですが、容赦なく火の手は、燃え広がります。
しかし千代子夫人一人の力では、どうすることもできません……
『助けて下さい! 助けて下さい!』と、いう涙声は火の手が燃え広がると共に、聞こえなくなっていったそうです……
それはトラウマとして、カメラが物体を光と影の映像とし、機械的にフィルムに記録するのと同じように千代子夫人の大脳皮質に焼き付きファイル化されました」
隣にいるゆうこも、瞬きをするのも忘れ、聞き入っている。
「途中では、真っ黒に焼かれた遺体を無数に見たそうです。
髪の毛がぼさぼさで、着物の袖をたらし、さ迷う人と何度もすれちがいました。
着物の袖と思っていたのは、垂れ下がった人間の皮膚でした。
三角州の広島は、数多くの川があります。橋の上から見る川面は、数えきれないほど
の遺体で埋めつくされていました。
相生橋は全国でも珍しいT字状の橋です。米軍による恰好な原爆投下の目印になりま
した。 そのT字状の橋先にあるのが、相生地区でした。
かっては繁華街で賑わう街でしたが、現在は平和記念公園となっています。 そこには、平和に暮らす庶民の暮らしがありました。
千代子夫人は目を疑いました。 街は跡形もなく消え去り、瓦礫しか見ることができません。
いっぽう、駆逐艦雪風に乗艦し戦艦大和の最後を見取った忠則会長は母港呉鎮守府で、
陸上勤務にあたられていました。
昭和20年8月6日(月)晴天、呉も早朝より、夏の太陽が照りつけていました。
午前7時50分頃、突然空襲警報発令!
一旦防空壕に避難、午前8時5分頃空襲警報解除……
『ただし広島の上空には、敵一機が旋回しており警戒せよ!』とのこと、
ピカ!! 周りがフラッシュを焚いたように光ったそうです。 数人が指さしています。
『何だ? あの雲は!?』
見ると真っ黒い巨大なキノコ雲が広島方向の山並みから、空高く立ち昇っていました。
戦艦大和が爆沈したときに見たキノコ雲の大きさに、言葉を失いましたが比べ物にならなかったそうです。
原爆のキノコ雲は、呉市から撮影した写真を基に算出され、『雲頂高度8080m、横径約4500m』と推定されました。
『広島が、やられたらしいぞ!』
しばらくし緊急命令が下ります。
すぐさま忠則会長は、広島に支援に入られました。
どこもかしこも、言葉に表す事の出来ない惨状が、目の前に広がっていたそうです。
新型爆弾により壊滅的被害を受けた、爆心地付近の被害状況を調査しているときでした。
忠則会長の目にボサボサ頭でホコリだらけの恰好をし、包帯を巻き、いつまでも橋の向こう側を眺め続ける女性の姿が目に飛び込んできます。
『どうされましたか? 大丈夫ですか?』
それが、千代子夫人との出会いでした。
1947年、雪風による復員輸送任務を解かれた忠則会長は、2年前に出会った千代子夫人の消息を探されました。
探し始めて1年が過ぎ、あの日の暑い夏が、再びやってこようとしていました……
千代子夫人には夫がいましたが、南方戦線にて戦死されていました。
夫婦との間には、和子という6歳になる女の子がおり、1945年8月6日は、市外地の向原に疎開していて無事でした。
千代子夫人は向原の田舎で、子供と身を寄せ合い暮らしていました。
ちいさな畑で農作業する、千代子夫人の周りを、大きなフキの傘を被って遊ぶ子供がいます。 それが、和子さん9歳でした。
忠則会長を見つけた和子さんは、真っ黒い瞳で興味深そうに、『おじちゃんだれ?』と、見上げていわれたそうです。
忠則会長は、子供のころ読んだ、『風に乗ってくるコロポックル』と、いう小説を思い出されたそうです」
コロボックルとは、北海道アイヌの伝説に出てくる小人で、(フキの下の人)という意味で、竪穴の住居に住み、狩猟や漁労の技術にすぐれ、アイヌに友好的な人びとという伝説の妖精のことをいいます」
お茶を一口飲み、加奈子は話を続けた。
「忠則会長は、進駐軍の食堂で働かれていました。 鬼畜米英と教わった彼らは紳士的で、
優しかったそうで料理長のマークさんは、配給でもらったチョコレートを、いつも分けてくれたそうです。
大きなフキの傘をさしている和子さんと、目線の高さが合うように、しゃがんだ忠則会長は、『ハイ! これ!』と、満面の笑みを浮かべ、チョコレートを渡されたそうです。
受け取ったチョコレートを、千代子夫人に見せ、『これ、おじちゃんにもらったよ! 食べてもいい?』和子さんは、千代子夫人に懇願するよう視線を送ります。
『僕、進駐軍の食堂で働いていまして料理長のマークからもらいました。 決して毒など入っていません!』つぶらな瞳をした和子さんが、チョコレートを手にし、千代子夫人をじっと見つめています……
それまで厳しい目をし、農作業をしていた千代子夫人が微笑まれたそうです。
『おじちゃんが、遥々呉から持ってきたチョコレート捨てちゃぁいけんね!』
『母さん、もろてもええんよね!?』
それを聞いた和子さんは、大きなフキの傘を上下させ、全身で喜びを表されたそうです。
一口食べ和子さんは、息を弾ませ目を丸くして喜ばれます。
『わぁー チョコレートって、こんなに甘く美味しいんじゃ! 生まれて初めて食べた!』
口の周りにいっぱいチョコをつけ、和子さんの屈託のない、満面の笑顔が広がったそうです」
戦後の食糧難、チョコレートなど夢のまた夢の話だった。
「こんなことが続き…… 2年後、千代子夫人と忠則会長は結婚されました」
針一本落としても聞こえるほど静まり返っている。 何かいおうとしている輝明を、制するように加奈子が続けた。
「じつは、この話には続きがあります……」
「続きがある?」
輝明が思わず身を乗り出した。
「徹社長ですが、忠則会長と千代子夫人の、養子です!」
一階の茶の間には、時を刻む柱時計の音だけが響いている、養子という言葉に、ゆうこは、無言で反応した。
『民法第734条』直系血族又は、三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。 ただし、養子と養方の傍系血族との間ではこの限りでない。
「相手が養子になり、戸籍上親族関係になっても結婚が認められます。
徹社長の妻は、和子さんです!」
「と、いう事はタダ爺と徹社長、和子さんは赤の他人だということですよね?」
目を大きく見開き輝明が加奈子に確認した。
「ハイ! その通りです。 だから徹社長も、ゆうこちゃんを養女として向かい入れる決心をされたのでしょう」
話を聞いた、ゆうこも再確認した。
「徹社長は千代子夫人も含め、西島家とは、何の関係もない……」
「その通りです! 徹社長は肉親がまったくいらっしゃらない原爆孤児です。
だから、ゆうこちゃんも施設で暮らしたことで、少しも後ろ向きの考えをする必要は、ないのです。
未来を決めるのは今、この時です。幕末の志士、坂本龍馬の言葉にこんな言葉があります。『未来を変えるのは今日の行動、今日の行動を変えるのは、今この瞬間の決断ぜよ!』
ゆうこちゃん! 今からは、私たちと一緒に歩みましょう、だから安心して、西島家の養女になって下さい!」
ゆうこは、夕立の後のような清々しい眼差しで、一気に不安が消え去った表情をみせた。
2.
敷地入口にあるインターホンを押した。
「ハイ! 西島です」
声の雰囲気から、察しがついた。 82歳、最年長千代子夫人の声がした。
「私、五百旗頭輝明と申します。 この度は、ゆうこが大変お世話になります!」
「よくいらっしゃいました、お待ちしておりました」
「アウト!!!」
上品に微笑んでいる千代子の横で前掛けをしたタダ爺だった。
「日本海軍では、予定の10分前集合が決まりじゃ! これが戦時中じゃったら、お前は、これでもか! と海軍精神注入棒でケツを叩かれた!」
恐縮した輝明に、タダ爺が笑顔でいった。
「冗談じゃよ…… 今日はワシが作った海軍料理を食べてくれ、戦艦大和で出された来賓用のメニューを用意しちょる!」
「ごゆっくりしていって下さい」
気品高く千代子夫人が笑顔でいわれた。
入口に最も近い下座には、スーツを着た、竈門(カマエツ)と加奈子が、すでに座っていた。
奥の正面がタダ爺、奥右側は、千代子夫人、その隣にゆうこ、奥左側は、徹社長、その隣に和子夫人、隣が輝明の席だった。
「なんか緊張するなぁ……」
輝明は心の中で思った。 ところがどうだ、 千代子夫人の隣に座っている、ゆうこは、
こっちを向き、ピースサインをしている。
「コイツ絶対に大物になるわ!」と、続けて思った。 タダ爺がいった。
「秋葉君、今日のメニューを、皆さんに配って下さい」
「……下さい? タダ爺ってまともな言葉が使えるんだ?」と輝明は思った。
加奈子が二つ折りにしたメニューを配った。
『お品書き』
カボチヤクリームスープ
伊勢海老サラダ
ヒラメのムニエル
牛フィレ肉のポワレ黒胡椒のソース
オムライス
苺ジェリーパイ
桃のアイスクリーム
雪風の戦闘食(握り飯の、とろろこんぶ巻)
赤飯の握り飯
「忠則会長、これら現代でも高級ホテルで出されているメニューその物じゃないですか!
戦艦大和でこれらの料理、出されていたのですか? 輝明はビックリした」
ゆうこも、カマエツもメニューを配った、加奈子も同感だ……
「忠則会長じゃない、タダ爺とよんでくれ!」そう前置きをしタダ爺は話し始めた。
「これらのメニューは、戦艦大和で実際出されていたものに間違いない、烹炊所は後部の右舷と左舷にあり、右が兵員用の烹炊所、左が下士官級以上の烹炊所じゃった。
兵員用の烹炊所では、主計兵たちが調理するが、士官級以上の烹炊所では、民間の調理人を雇って調理しちょった。
又、連合艦隊の旗艦である大和は、来賓用の食事もここで調理され、高級料理が臨機応変に作られた」
どうりで、タダ爺が作るメニューも、高級ホテルで出されるものと、変わりないんだ!
「タダ爺とよばせていただきます。 どのようにして戦艦大和のメニュー調理法を、学ばれたのですか?」
タダ爺は思い出すように話し始めた。
「戦艦大和から雪風に近藤主計長(中尉)が艦移動になられた。
海軍経理学校出身のインテリじゃった。
ワシらのような年少兵が、戦艦大和にも、乗艦しちょってのぅ…… ことあるごとに、
『死ぬんじゃないぞ、絶対に生きて帰れよ!』といっておられたそうじゃ。
それが幹部の耳に入り、最前線の足軽雪風に左遷(させん)されたそうじゃ」
「そんなことくらいで……」と、三人とも思った。それを察しタダ爺がいった。
「大竹海兵団のときじゃった、海兵団長から『戦場における、軍人精神の真髄は何か?』と、問われ答えられず教班長に呼び出され、
『何で貴様は天皇陛下のために、死ぬと答えなかったか!』と……
罰として夕食抜きとなった。
当時は言論の自由などなかったのじゃよ、しかし運命はどう転ぶかは分からん、不沈艦といわれていた大和は沈み、足軽として真っ先に沈むはずだった雪風は生き残った。
左遷されたことで近藤主計長は、戦死をまぬがれることになった。
その近藤主計長の部下として、共に雪風に乗艦されたのが、鴇田(ときた)烹炊長じゃった。
さて、今回のメインディッシュ! 牛フィレ肉のポワレ黒胡椒のソースを食べてくれ」
ゆうこが真っ先に質問した。
「タダ爺、ポワレってどういうこと?」
「フランス語じゃ、下味をつけ、適量の油でカリッと焼く調理方法を『ポワレ』という。フライパンを使用し素材をできるだけ動かさず、高温で手早く焼くのが基本じゃ。 このほどは、牛ヒレ肉をポワレした。 ソースはシンプルに黒胡椒のソースじゃよ。
フライパンにはうま味成分が付着しちょる。赤ワインを注ぎ入れデグラッセする」
「デグラッセ?」
輝明の声が聞こえた。 タダ爺が答えた。
「デグラッセとは、ワインを加えフライパンに残っている旨み成分を、こそぎ取ることじゃよ」
「特別な肉は使用しちょらん、どこでも手に入る国産牛のヒレ肉じゃが、煮詰めてうま味を凝縮した赤ワインとフォンドボーのソースが、いい仕事をしちょる!」
限りなく黒に近い赤、中央に窪みのある真っ白な皿、それにクレソンの緑、コントラストは見事ととしか、いいようがない、ミディアムレアの焼き加減もちょうどよく、口の中にいれ、一噛みすると肉汁がパッと、口中に広がった。 煮詰められ美味が凝縮し、ほのかに香る黒胡椒の風味、バターのコクがソースに止めを刺している。
とても普通に手に入る、国産牛のヒレ肉とは思えなかった。
ゆうこも「ひと噛みひと噛み」味を確かめるように味わっている。
下座で味わっていた加奈子が思わずいった。
「美味しすぎて、飲み込むのが、もったいない」その一言が、全てを表していた。 その光景を目にし、満足そうにタダ爺がいった。
「確かに手間と時間さえかければ、美味しい物は作れる。
ただ、思い出にかなう味はない!」
「思い出の味……?」
輝明はその意味が知りたかった。 それを察するようにタダ爺がいった。
「思い出の味、例えばおふくろの味、婆ちゃんの味などそれにあたる。
ワシにとっては、戦友と食べた雪風のオムライスがそれにあたる。
そんなわけで今日は、駆逐艦雪風のオムライスを準備した」
「オムライス! 大好物!!」
ゆうこが子供のようにはしゃいだ。
「そうか、大好物か! じゃが(だけど)普通のオムライスじゃ、さっきいったように、
思い出という、旨味エキスを加える必要がある!」
そういうとタダ爺は、思い出を語り始めた。
「チキンライスという食べ物は、海軍に入隊し初めて口にしたものも多く、ワシら田舎者兵員に人気のメニューじゃった」
ゆうこがいった。
「今日のメニューは、チキンライスじゃなくてオムライスですよね?」
想定通りの反応だった。
「上官級以上に人気で、ワシら兵員に憧れだったのがオムライスなのじゃ、さてここらで、思い出のうま味エキスの注入としよう」
「タダ爺、待っていました!」
元気のいい輝明の声だった。
オムライスは、中学入学で学生服を買うとき、八丁堀にあるデパートの食堂で食べさせてもらい、あまりの美味しさに感動したのを思い出した。
「タダ爺、オムライスは俺にとっても思い出の味です!」
「それはよかった!」
満足そうに、タダ爺は続けた。
「1943年(昭和18年)トラック諸島に停泊していた戦艦大和、鴇田寛郎(ときたひろお)烹炊長に連れられ見学にいった。
米、麦、味噌、醤油、塩、砂糖、油、などが3か月分蔵置され、又、電動リフトで烹炊所のある、上甲板まで運ばれるようになっちょった。
これだけの食料が保存でき、高機能で巨大な調理器具を使った大和では、豊かな食生活が送れた」
「ええええ……」目を見開き輝明がうなった。
「それだけじゃない、ラムネやアイスクリームの製造機、納豆、豆腐、こんにゃくなど、
作る設備まで完備しちょった」
ゆうこも、驚いてきょとんとしている。
ビックリし、輝明がいった。
「まるで現代の高級ホテルと、変わらないじゃないですか! いやそれ以上ですね!!」
「その通り! ワシらは大和ホテルとよんじょった。
寝るのはハンモックじゃなく寝台、雪風では想像もできない事ばかりじゃった。
大和に乗艦されていた鴇田烹炊長は、人脈も広く、雪風の皆に戦利品を持ち帰った」
興味深く輝明が聞いた。
「どんな戦利品ですか……?」
タダ爺は誇らしげに親指を立てていった。
「卵、400個じゃよ!」
「卵……ですか……」
「その日の夕食、雪風に乗艦する兵員全員にオムライスが提供された。
近藤主計長が艦内放送で号令をかけた、
『総員、オムライス食い方用意!』と、冗談交じりの号令じゃった。
兵員みんな爆食した。 それが、思い出のオムライスじゃよ」
テーブル右奥に座っていた、千代子が微笑みながらいった。
「それが、思い出のうま味エキスですか?」
「そう! それが思い出のオムライスじゃ、秋葉君みんなに、お出ししてくれるかのぅ」
タダ爺が笑いながら号令をかけた。
「総員、オムライス食い方用意!」
「タダ爺、美味しい!」
一口食べゆうこが、いった。
「あっ! と声を出してしまいそうなほど、美味しい、トマトソースの香ばしさが、たまらないですね!」と、輝明、
「そうじゃろ? トマトケチャップに醤油を加え焼き、酸味を飛ばし、焦げ醤油の香ばしさを引き出しちょるからな。 決め手はウスターソースのパンチじゃよ!」
輝明は6年生のとき、お袋とデパートの食堂で食べた、香ばしいオムライスの味を思い出した。 貧乏だった……
お袋が、コツコツ貯めた貴重なお金のエキスが加わった、オムライスの味が、忘れられない。
なんで、オムライスを食べただけなのに、こんなに涙が出るのだろう?
力強く輝明は、いった。
「タダ爺、今日食べた中でこのオムライスが一番うまいです!」
「そうじゃろう! 金に糸目を付けない料理は確かに美味い、しかし、愛情というエキスが加わった料理には絶対に勝てん! 西島食品が目標としちょるのは、その愛情というエキスが入った食品じゃ! のぅ、徹!」
ふたつ折りにしたナプキンの内側を使い、口を拭き徹が話した。
「忠則会長が目標としている食品を、加工製造し全国の家庭で愛用されるよう、西島食品は味を追及しています。
広島弁でいわせてもらいます。
「ゆうこちゃん、輝明君、やっちゃろうや!」
輝明は、興奮し胸がぞくぞくと高鳴った。
「ゆうこ、やっちゃろうや!」
「目指す目標が一致しましたね!」
徹は拳が白くなるほど手を握りしめた。
満足そうにタダ爺がいった。
「千代子、用意しちょった手提げ袋を持ってきてくれ!」
千代子夫人が手提げ袋を4つ持ってきた、思い出すようにタダ爺がいった。
「戦闘配備が敷かれると、ワシら烹炊員は、食管に、竹の皮に包んだ戦闘食を詰め込み、
鉄兜を被り各持ち場に配った。 腹が減っては戦にならん!
輝明、秋葉、竈門、そして、ゆうこちゃん、雪風の戦闘食(とろろこんぶ巻)じゃ! 小腹がすいたたら食べてくれ、
「それと……」タダ爺が言葉に詰まった。
重苦しい表情をしている、タダ爺に輝明がいった。
「それと…… 何ですか?」
「昭和20年(1945)4月7日、14時23分、不沈艦といわれていた戦艦大和は、
乗組員3332人と共に、ワシの目の前で沈んで行った。 生存者は、たったの275名」
タダ爺は打ちひしがれたように、じっと目を、落としたまま黙り込んだ……
しばらくして、声を振り絞るように話しだした
「4月7日、その日の夕食でだされるハズじゃった、メニューが赤飯なのじゃよ、
赤飯を握めしにした」
タダ爺は、一人づつ希望を込め、手提げ袋に入った雪風の戦闘食とろろこんぶ巻と、赤飯の握り飯を渡した。
威圧されたのか、輝明と竈門は、敬礼をし受け取った。
3.
片づけを終えた ゆうこがよび止められた。
「ゆうこちゃん、少しいいかな?」徹だった、
「そこに座ってください」
3人掛けソファーに案内された。 徹は応接テーブルを挟み、向かい側の3人掛けソファーの真ん中に腰を掛け、左隣に和子が座った。
コーヒーのいい香りがした。
「コーヒーでもどうぞ」
コーヒーを運んできた千代子夫人が、徹の右側に腰かけた。
ゆうこを正面にテーブルを挟み左側に和子、中央に徹、右側に千代子という形だ、一口、コーヒーを啜り徹が話し始めた。
「私は、和子と同じ9歳のとき、原爆で家族全員失いました。
育ったのは、広島戦災児育成所です。
育成所は被爆から3カ月後、孤児たちの様子に心を痛めた、僧侶の山下義信(やましたぎんし)氏により創設されました。
原爆で親を奪われた原爆孤児は、2000人いたとも、6500人いたともいわれています。
頼る親戚もなく、たばこの吸い殻を拾ったり靴磨きなどをして暮らしました。 育成所は多くの孤児を抱え、食糧の確保が最大の悩みでした。
貝掘りなどできることは何でもし、食べられるものは何でも食べました」
夢中で聞いている、ゆうこに続けていった。
「ゆうこちゃんは、施設で暮らし19歳まで貴船原少女苑に居たのですよね?
戦後の食糧難は荒ましいものがありました。
餓鬼のように食うことばかり考える毎日でした。 私は生きるためになんでもしました」
徹の記憶が、昨日の事のように鮮明によみがえった……
腹が減りたまらなかった徹が、露店に売られていたリンゴを盗み、貪るようにかじっていたときだった。
正面のベンチにすわり、美味しそうな握り飯を食べている叔父さんと叔母さんがいた。
あっけないほど、リンゴを平らげた徹は、指をくわえ握り飯を見つめていた。
そんな徹に気づいた叔父さんが、手招きをした。
「そうとう腹が減っちょるんじゃの?
ほら食え!」
「私の頭をポンポンと叩き、叔父さんが握り飯をくれました。 取られてはいけない!
私は握り飯を口いっぱいに押し込みました」
それを見ていた叔母ちゃんは、
「ここにもあるけん、ゆっくり食べんさい!」と、優しくいってくれました。
私は握り飯を食べながら3日飯を食っていないこと、これまでの一部始終を叔父さんに話しました。
着ている服はボロボロでシラミだらけでした。じっと話を聞いてくれた叔父さんが、しばらくして私にいいました。
「……そうか坊主、ワシの家は呉なのじゃが、呉で一緒に暮らすか? 千代子エエよの!」
天涯孤独の徹にとって、そのとき忠則は、神のように映ったに違いない。
「ゆうこちゃん、その叔父さんこそが西島忠則だったのです。
叔父さんの家は、呉海軍病院に近い高台にあり、私は着ている衣類を全部脱がされ、熱湯でシラミの撃退から始まりました。
夢にでてくるぐらい、毎日芋ばかり食べました。
叔父さんがタマに持って帰る牛肉の缶詰は、最大の御馳走で、そのときはじゃがいもを使って、駆逐艦雪風の肉じゃがを作り食べさせてくれました」
隣にいる和子と目を合わせ、徹が思いを込めいった。
「私たちの思い出の味は、駆逐艦雪風の肉じゃがです! 昭和31年(1956年)11月、
呉から進駐軍が撤退したのを気に、私たちは、広島市に移り住みました。
当時、広島市内は原爆で倒壊した建物が、そこら中にあり、道路も舗装されていませんでした」
ゆうこは、自分の境遇はひどいものだと思っていたが、レベルが違うとつくづく思った。
「焼き尽くされ、打ちひしがれた広島の娯楽といえば、唯一の市民球団『広島カープ』でした」徹が苦笑いをしながら話をつづけた。
「弱くて弱くて負け続けました……
広島市に移り住んだ翌年、広島市民球場が、完成しました。
中国地方初のナイター球場です!」
徹は、胸の詰まる思いで感傷に浸った。
「球場の建設予定地とされた基町(もとまち)には、原爆で住む家を失った人たちに、緊急住宅対策として通称『十軒長屋』と呼ばれる市営住宅が作られていました。
住人達は、『自らの住む住宅を潰してまで、ナイター球場を作るのは不当だ!』と、激しく反発!」
「生活が、かかっているのですから当然ですよね、でも市民球場は、存在しますよね?」
ゆうこは、球場を作った解決内容が知りたかった。
「ゆうこちゃん、答えは……」
そういって徹は口をつぐんだ。
「徹社長!?」
催促するように、ゆうこがいった。
考え込んでいた徹が話し始めた。
「解決策は、今の市営基町高層アパート群です!」
「基町にある高層アパート群?」
基町は広島城城郭内に当たり、近くには、原爆ドームがある。
原爆スラムと呼ばれ、住宅密集地基町不良住宅街は、多くの火災が発生し、路地が細くて消防車が入りにく大火事が多発した。
徹が思いをたどるように話し出した。
「目標は、不良住宅街の撲滅でした。 朝鮮戦争特需に始まり、戦後日本の高度成長期、多数あった掘っ立て小屋含め取り壊し、構想から10年をかけ目標は達成されました」
徹が顔を伏せた、目には光るものがあった。顔を上げ、徹は涙声でいった。
「ゆうこちゃん、広島市民球場は復興のシンボルなのです……
家族全員被曝し、疎開していた私だけが、生き残りました。
忠則会長と巡り合ったのが、この場所なのです」
ゆうこは、野球観戦に何度か訪れたことがある。 市民球場が、復興のシンボルだということを初めて知った。
何も知らなかった自分が腹立たしかった。
「カープが結成されたとき谷川昇(たにかわのぼる)衆議院議員会長は、『カープは県市民のものであり成長に伴って立派な衣装をつけたい』と、いわれましたが、谷川さんも草葉の陰で喜んでおられると思います」
ゆうこは、負け続けても市民が応援する理由が分かったような気がした。
「7月22日の照明点灯式は、感慨ひとしおでした。
昼間のように、明るく照らされた照明は、完全に広島が原爆から立ち上がったのだ!
と、心の底から思いました」
話を聞いたゆうこは、万感の思いだった。
「さて、西島食品ですが……」
コーヒーを飲みほし、徹がゆっくりと話しだした。
「翌年昭和32年、西島忠則は、瀬戸の小魚と海苔を使い、味噌を基本とし味付けした、
『ふりかけ茶漬け』を作り、家族全員で売って回りました」
ふりかけちゃづけ? ゆうこは、初めて耳にする名前だった。
徹が作り方の説明をした。
「基になるのは、乾燥させた鰯( いわし )と、あおさ、そして乾燥玉葱です」
「乾燥させた玉葱ですか?」
ゆうこが興味深そうにいった。
「最大の目的は甘味『砂糖の代わりに使う!』です。 苺より甘くなります」
ゆうこも熱を加え、水分を蒸発させることで、糖分が凝縮し甘くなることは知っていた。
「当時の食糧事情はまだ悪く、砂糖は高価でした。 一般家庭では、米、麦7:3を主食とし食べていました」
「麦ご飯というやつですね?」
ゆうこは以前、輝明から聞いた事があった。徹が自信ありげに、にこりと笑った。
「干すことで、ツーンとした刺激硫化アリルが分解され、甘味調味料になります。
又、味噌味は麦ご飯と相性抜群なのです。価格も安く栄養価が高い『ふりかけちずけ』
は、飛ぶように売れました。
西島食品は、高度成長の流れに乗り大きく成長しました。
ご存じの通り千代子叔母さんの連れ子が、ここにいる和子です」
和子が親しみを表わすように、黙ってお辞儀をした。
「私たちにとり西島忠則は、情けをかけ力になってくれた人、命の恩人なのです!
今度は、私たちが恩返しする番です。
ゆうこちゃん、力を貸してください!」
ゆうこは、なぜこれほど自分が期待されているのか全く分からなかった。
「ゆうこちゃんに、大事な話が有ります」
徹の横で一部始終話を静かに聞いていた、千代子が口を開いた。
「あなたは、親に捨てられ、養護施設で育ったと思い込んでいると思いますが、そうではないのですよ!」
「えっ……」
今までゆうこが、ずっと思い続けていたことが紙細工のように、簡単に崩壊していった。
千代子の話は原爆被災し、決して忘れることができない幟町尋常小学校で経験した記憶に戻った……
「自宅のある中島相生(なかじまあいおい)地区を目指し、さ迷うように歩き続けました。
途中倒壊した幟町尋常高等小学校で校舎の下敷きになり、助けを求める男子生徒がいました。 彼の名前は、下山清(しもやまきよし)君、
当時11歳、その人が、あなたのお爺さんだったのです!」
この話は加奈子にも聞いていたが、ゆうこには、想像さえもつかない展開だった。
一呼吸おき、千代子が話し始めた。
「鎮守府がおかれていた呉からは、西島忠則 含め多くの人が救助に入られていました。
後で夫から聞いて知ったのですが、同じ部隊の人によって下山清君は、助け出されていました。
私はその話を聞き、心の底から歓天喜地(かんてんきち)するのも無理はありませんでした。
ずっとトラウマとして、こびりついていた錆がとれたように、心が晴れたからです。
両親家族全て原爆で失った、下山 君は、山県郡加計町(やまがぐんかけちょう)にあった、親戚の家に引き取られます」
ゆうこは、食い入るような眼差しで千代子の話を聞いている。 ゆうこに、千代子が優しい眼差を投げかけた。
「田舎の農作業に没頭され、時は流れ清君は、26歳になられていました。
4歳年下の幸子さんと結婚され二人は男の子を授かります……
名前は平和の和をとり、和彦(かずひこ)と名付けられました。その和彦さんこそが、ゆうこちゃんのお父さんなのです!」
和彦、ゆうこが初めて聞く名前だった。
「24歳になられた和彦さんは、3歳年下の恵子さんと結婚されて2年後授かった、珠のような女の子こそ、あなただったのです!」
ゆうこは、微動だにせず話しに聞き入っている。 千代子が何かを決断したかのように、話し始めた。
「昭和63年7月20日の午後から局地的に、1時間20mm前後の強い雨が、降り続けていました。
雨足は強くなり、短時間の豪雨で谷を下る水は、土砂とともに渓岸をえぐり、立木をなぎ倒し砂防ダムを乗り越えました。
加計町は、死傷者25人という甚大な被害を被ったのです。
下山家はあなただけを残し、一家全滅されました。 当時1歳のあなたには全く記憶がないことだと思います。
奇跡的に救出されたのは、あなただけだったのです。 その後、全肉親を失ったあなたは養護施設で暮すことになります。
世の中、不思議なものです。
偶然ではなく、必然な事だと思っています。
私たちは、出会うように約束してこの世に生まれてきたのです。 下山君の大事な大事な、お孫さんであるあなたを、養女に迎い入れることができ、感謝してもしきれません!」
ゆうこの生い立ち全てが、明らかになった。これまで、全く誤解し続けていたのだ……
何も知らなかった自分が、悔しくてしかたがない、
『ある日突然、道はパっと開ける!』
見たこともない光景が眼前に広がり、新しい風が体の中を駆け巡り、目の前の霧が晴れていく……
後悔しているハズなのに不思議だ、
清々しい気持ちで満ちあふれた。
4.
カマエツは、ゆうこを県立広島大学、略して県大(けんだい)の中央に位置する中庭に連れてきた。
「ここが、君の目指す県大です!」
ゆうこは、正面の鼓のような、円形の形で、4階建てと思われる、特徴のある建物に目が留まった。
カマエツが、少しじらすようにいった。
「この建物は県立広島大学付属図書館です。敷地の狭さから圧迫感を軽減するため、円形を選択したと聞いています」
「中に入って見ましょう!」
ゆうこが、恐る恐る聞いた。
「入ってもいいのですか……?」
何もかもが初めてで新鮮だった。
ゆうこの持っている潜在能力 及び、センスは飛びぬけていた。
平成21年地域創生学部地域創生学科健康科学コース、配点1000最高762、最低625・4平均691・2、西島ゆうこは、最高得点762にて見事に合格した。
B型の特徴なのか興味のないものにはまったく取り合わないが、ひとたび興味を示した物に取り組む姿勢は、目を見張るものがあった。
人とは違う視点から見る能力も高く、無限に吸収していった……
広島キャンパス平成25年3月22日(金曜日)10時00分~11時30分大競技室、卒業者・修了者数250名、ゆうこは万感の気持ちでいっぱいだった。
祝辞の最後に赤岡功(あかおかいさお)学長がいわれた。
「社会は皆様の活躍を待っています。
ご卒業おめでとうございます」
その言葉が、ゆうこの心にいつまでも響いた。 4月5日晴れ、ゆうこは西島食品へ入社し社会人としての道を歩み始めた。
それから約1か月後、ゴールデンウイーク明け、ゆうこは大きく深呼吸をし、岡山県で受験した、管理栄養士国家試発表のホームページを開いた。
注意書きの下に、受験した地域のリンク先一覧名が表示された。 自信があるはずなのに、胸がどきどき張り詰めてくる……
覚悟を決め『岡山県』をクリックした。
「自信はあるのだ! 不安な気持ちはキャンセル! キャンセル!」
結構、切れ目なく番号が続いている……
00187、00189、00190、00191、00192
「あったー!!!」ゆうこの声が、部屋中にこだました。
これまでのことが、脳内を駆け巡る……
施設育ちだとレッテルをはられ、事件が起きればいつも、ゆうこが疑われた。
一時は傷害事件を起こし、貴船原女子少年院ですごした。
学歴は中卒、そんな自分が、気づけば県大の創生学部を卒業し、こうして管理栄養士国家試験に合格している。
最大の変化は、下山ゆうこから、西島ゆうこになった事だ!
自分は、親に捨てられたわけではなかった。
身におこる全てが奇跡的な事だった。
比治山公園で丹波がいった、
「ゆうこちゃん、コイツがあんたの保護司とは、運がエエのぅ……
流れ星の五百旗頭、期待しちょるで!
この子を立派に更生せえよ!」
感謝しかない……
有難さを全身で感じた。
合格率は、74・6だった。
輝明はというと、嬉しいはずなのに何故かゆうこが、どんどん自分の手の届かない遥か遠い所へいくようで、心にポッカリ空いた、大きな穴を感じた。
この時点で輝明は、ゆうこ、加奈子、カマエツと力を合わせ西島食品の、新主力食品開発に貢献する事など知る由もなかった。
『はじまりのとき』
歌 : 絢香
作詞・作曲:絢香
リリース: 2012年
【ストーリー 5】 著: 脇 昌稔
【ストーリー 6】へ続く..
この小説はフィクションです。
実在の人物や団体などとは、
関係ありません。
戦艦大和に関しては、
大和ミュージアム見学により、
執筆しました。
先の大戦で亡くなれた先人の方々に、
心より哀悼の誠を捧げます。
原爆被災された方々には、
心から哀悼の誠を捧げます。