二章 訣別
1.
レッドゾーンの一員となった智吉は、東雲1丁目にある、五百旗頭の住むメゾン桜602号室に居候した。
「智吉、この月刊オートバイ買ったのか?」
五百旗頭は高校を中退し金を貯め、手に入れた、憧れのNC36の記憶が頭をかすめた。
「Vmax、そろそろ点火プラグ替えんといけませんね。これを食ったらプラグ替えましょう!」
「智吉のおかげで絶好調だ!
それと、いつも磨いてくれて有り難うな!」
輝明はいつものフルフェイスヘルメットをかぶり、智吉専用の星が描かれたヘルメットを渡した。
「よし、今からテスト走行だ、乗れ!!
桜が見ごろだ! 今から黄金山公園まで、ぶっ飛ばすぞ!」
2.
黄金山公園では、千本桜が咲き誇り、眼下には、自然と人工物が調和した絶景が広がっていた。輝明がVmaxのエンジンを止めいった。
「智吉、普通自動二輪の免許取得したんだったよなぁ……
ガタガタだが、俺が乗っていたNC36、お前に譲るから、整備して乗ってみるか?」
智吉は、純粋な子供のように目を輝かせた。
「ワシなんかが輝明さんのNC36、乗ってもエエんですか!」
「もちろんだ! だが、NC36酷使して、そうとうガタがきている」
「ワシ! 絶対に蘇らして見せますけん!」
輝明は、苦労しNC36を手に入れたときの自分を思い出した。無邪気に喜ぶ智吉を見て理由はわからないが、幸せな気持ちでいっぱいになった。
それから4か月経った……
ピカピカに整備され新車に生まれ変わった、NC36に乗り智吉が現れた。
「輝明さん! エンジンもオーバーホールして53馬力出ることを確認しちょります。メーター周りも多機能メーターに取り替えました。
ほんまに(ほんとうに)ワシ、これに乗ってもエエんですよね?」
「もちろんだ! しかしコイツを思うように乗りこなすには伎がいる、NC36を得意とする川柳に、特訓してもらう必要がある!」
そういうと輝明は、川柳に電話をかけた。
「……川柳、頼みがあって電話入れた。
昔、俺が乗っていたNC36、智吉が見事に蘇らせた。そこでだ、NC36を生かす乗り方を、智吉に教えてやってもらえないだろうか?」
「了解しました。 今から向かいます!」
川柳のNC36が、水冷とは思えない渋い排気音を轟かせ現れた。一目見るなり川柳がいった。
「これ本当に智吉が蘇らせたのか? まるで新車だ、俺のNC36より断然いいじゃないか!
お前すごい才能あるなぁ……
五百旗頭さん分かりました! 俺が責任をもって、乗りこなせるようコイツを指導します!」
2週間が経った頃だった、智吉が川柳を抜き去りどんどん加速して行く……
「智吉! スピードの出しすぎだ!!!!」
上り下り4車線ある広い交差点に凄まじい衝撃音が響いた。
次の瞬間、宙高く放り出された智吉が回転しながら、まさに空から降ってくるように、路面に叩き付けられる様子が川柳の目に飛び込んだ。
呆然と立ち尽くすトレーラーの運転手、
智吉はピクリとも動かない、けたたましいサイレンを響かせ救急車が到着した。
警察官が交通整理をしながら、現場検証を行っている。救急隊員が脈拍を確認した。
「隊長、心拍数0です!]
救急隊長がすばやく指示を出す。
「ADE(自動体外式除細動器)を使う!」
隊員が携帯用ADEの蓋を開けスイッチを入れ、智吉の胸に電極パットを貼った。隊員が呼称した。
「ショック釦ON!」
体が跳ね上がったが、心肺停止のままだ、脈拍が回復しない……
「心臓マッサージを続けろ!」
智吉がストレッチャーに乗せられ、救急車に運び込まれる。救急隊員がいった。
「同乗される方はいませんか!」
川柳が同乗した、救急隊員は電話で受け入れ先病院を探していた。
「受け入れてくれる、病院が決まりました。搬送時間は約8分!
これから広島赤十字・原爆病院に向かいます!!」
けたたましい救急車の、サイレンが鳴り響いた。車内では心臓マッサージが、休むことなく続けられている。
同乗した川柳に隊員がいった。
「心停止から8分を超えると死亡する可能性が高まります。 非常に厳しい状況です!」
国泰寺(こくたいじ)交差点にさしかかった、信号は赤だ、救急隊員がマイクを握った。
「救急車が左折します!
お気負付けください!」
救急車は止まることなく赤信号を左折した。車内にある脈拍計は、0のままだ!
救急隊員がいった。
「後、600mです!」
救急車は、東棟1階救急玄関に滑り込んだ。待ちかまえていた医師が脈拍を確認、着ている服をハサミで切り裂く!
大きな声で処置の指事が響いた。
「アドレナリン、アミオダロン、リドカイン、マグネシウム投入!!!」
智吉は、3FのICUに姿を消した……
五百旗頭の携帯が鳴り響いた。川柳からだった。乱れ興奮した声から、ただ事ではない事がヒシヒシと伝わってきた。
「五百旗頭さん! 今、広島赤十字・原爆病院、東棟3FのICU救急病床にいます。
智吉が、智吉が……
大型トレーラーと衝突し救急車で搬送されました!」
五百旗頭は、全身から血の気が引くのを、感じた。
「なに! それで、智吉の状態は、どうなんだ!?」
「……」川柳の声が途絶えた、
「おい! 川柳!!!!!」
絞り出すような声で川柳がいった。
「NC36、形が有りません……
心肺停止の状態です」
「わかった直ぐ行く! 千田町(せんだまち)広島赤十字・原爆病院東棟3FのICU救急病床だな!」
「中央時間外出入口の突き当りに、エレベーターがあるので、それで3Fまで上がってきて下さい」
廊下の長椅子に座り血の気が引き、青ざめ項垂れている川柳を見つけた。
五百旗頭を見つけ川柳が、嗚咽をもらしながらいった。
「智吉、亡くなりました、即死に近かったそうです……」
大きく目を見開いた五百旗頭は、適切な言葉が見つからない!
「事故を起こしたのは、出汐(でしお)交差点で駅方面に右折しようとしていた、大型トレーラーに、猛スピードの智吉が突っ込みました」
しばらくの沈黙の後、振り絞るように川柳がいった。
「五百旗頭さん、智吉はいっていました。『ワシまじめに勉強して、整備士になろうと思うんじゃ』と……
『絶対輝明さんに、恩返しするんじゃ』と……」
五百旗頭は核ミサイルを撃ち込まれ、止めを刺されたかのように固まった。
「自分がついていながら、五百旗頭さん申し訳ありません!
俺はこれ以上、レッドゾーンで走ることはできません!!」
五百旗頭の携帯電話が鳴った。
丹波からだった。丹波は諭すようにゆっくり話し出した……
「のう、五百旗頭、ほんまに(ほんとうに)高橋智吉…… 残念じゃったのぅ、ほいじゃが(だけど)道交法を無視し、ワレらが、追い求めたドラックレース、いかに速く走るかを目的にしたレッドゾーンという集まりは、何じゃったんかの?
そのザマ(結果)が、これじゃぁなぁんか……?
広島市暴走族追放条例が4月から施行じゃ! ええ加減足を洗えや……」
丹波のいうことに1mmも、反論することができなかった。
レッドゾーンを襲った仲間の死、
智吉を失ったショックは原爆以上の破壊力があった。五百旗頭は20歳になっていた。
2002年5月、レッドゾーンは、解散届を県警に提出し一切の活動を終えた。
五百旗頭は、勤めていた板金屋に退職届を出した。
お世話になりっぱなしの高山がいた。
「高山さん、今まで本当にお世話になりました。 実家のお好み焼き屋を、手伝おうと思っています」
首にかけたタオルで汗をぬぐいながら高山が口を開いた。
「五百旗頭のショックは、痛いほどわかる、これからは智吉の分まで生きろ!」
高山がVmaxのナンバープレートを外し始めた。
「五百旗頭、Vmaxも今日をもって引退だ、社長と話した、このVmaxは、俺たちの記憶として会社に飾ることにした。こいつに会いたくなったらいつでもこい! タクシーを呼んでいる。
実家に帰ったら頑張るんだぞ!」
10分程度でタクシーが到着した、荷物は手提げカバン一つだけだった。
輝明は、タクシーの運転手に行き先を告げた。
「段原(だんばら)2丁目、お好み焼きふみちゃん……」
3.
五百旗頭の母、文子が経営するお好み焼きふみちゃんには、昔から通う近所に住む常連客がたくさんいた。
同じ南区にある西島食品に勤めている秋葉加奈子(あきばかなこ)、目と鼻の先に住み、子供のころから通う村品孝蔵(むらしなこうぞう)も常連客の一人だった。
加奈子は着飾ることに全く興味が無く、赤渕眼鏡をかけ地味で何をやってもドンくさく、社長秘書をしていたが、あだ名は『カメ子』と呼ばれ、コピーやお茶くみの雑務ばかりの日々を送っていた。
一方、中年サラリーマンの村品は、趣味がギターの弾き語りで髪の毛を8:2に分け、ふっくらした絵にかいたような、中年サラリーマンそのものだった。
文子は、日頃から輝明の事を「バカ息子!」と、呼んでいた。
輝明にとって、お好み焼きふみちゃんは、100mくらい敷居が高かったが、レッドゾーンを解散し目標もなくなり、
思い切って大きな決断をする覚悟で暖簾(のれん)をくぐった。
5年ぶりだった、文子は無言でお好みを焼いている……
焼けた香ばしいソースの匂いと共に店は、張り詰めた空気でいっぱいになった。時間にして数分の沈黙であったが、輝明には1年以上にも感じた。
気まずい空気に我慢ができず、席を立ち、外に出ようとしたときであった。 お好みを焼きながら文子が小さな声でいった。
「輝明! お前、何しに帰ってきた?」
「おばちゃんが、いつもいっているバカ息子の輝明ってこの人なん?
それにしても新選組の副長、土方歳三に似たエラいイケメンじゃねぇ……」
「かなちゃん、何をいようるん?
コイツは、バイク欲しさに勝手に高校を中退し、出て行った大バカもんよね!
今更どの面下げて……
ほんま(ほんとうに)情けないわ!」
加奈子は、まったく空気が読めない。(ふりをした)焼きあがったお好みに、青海苔を振りかけながら文子がいった。
「することがないんか!? どうしようもないバカ息子じゃわ、バカタレが! やることがないんなら、そこのキャベツでも切っちょけ(切ってろ)!」
「輝明さん、土方歳三に似ちょるけん、今度から『としぞう』って、よんでもエエよね!」
輝明は複雑な気持ちだったが、目の前に、そびえる高い障害物を、超えられた安ど感で、胸のうちのどこかが、ほっとゆるんだのがわかった。例えようのない温かいお湯のようなものが、全身をゆっくりとめぐった。
しかし、現実は甘くなかった。
退屈でしかたがない、一日が1カ月のように長い……
「輝明! おまえキャベツをきざむのにいつまでかかっちょる!?」
文子は、輝明がきざんだ、山盛りになったキャベツを手に取った。
「輝明! もっと幅広に切れと、いったじゃろ? それと長さが短い!
芯を落としたら下にして、繊維を断ち切るように、扇型に切る感じじゃと、お前なんべんいったらわかる!
ほいで、全体を混ぜあわせたんか?」
文子が手荒い動作で呆然とし、身じろぎもしない輝明の手から、むしり取るように包丁を奪った。
「おまえこの包丁、いつ研いだ!」
「……昨日かのぅ?」
「バカタレ! 切る前に包丁を研ぐように、ゆうちょるじゃろうが……
切れん包丁で切ったら細胞が潰れて、うま味がのうなる、お好みはキャベツが命なんじゃけん!」
頭の中は完全に混乱していた。 様々なことが一気に脳の中で氾濫し、輝明は文子がいっている事を何一つ把握できない状態だ、
「こがな事、やっちょれるか!」
輝明は、外した前掛けを乱暴にたたきつけ、出て行った。時計を見ると、8:00を回っていた。店は、9:00開店だ、台所から聞こえる文子がきざむキャベツの音が、切なく聞こえていた……
こうべを垂れ台所の扉を開けた。文子がいった。
「おまえ、今まで、どこをほっつき歩いちょった?なんぼ(いくら)、小まいお好み焼き屋でも、プライドがある!
まともにキャベツも切れんで、お好み焼き屋を手伝おうと思っちょるんか?
広島のお好みを、舐めちゃぁいけんよ!」
最初は雑用ばかりで、鉄板の上でちゃんと焼かせてもらえるようになるまでに、2ヶ月かかった……
4.
輝明は心を入れ替え、一生懸命に技の取得に励んだ。刻んだキャベツを、手に取り文子が優しくいった。
「輝明、今までよう辛抱した、たかがキャベツを刻むだけじゃが、美味しさの半分はこれで決まる!
後は3つじゃ、
1、土台になる生地の伸ばし、
2、キャベツを蒸らす時間、
3、こまめな火加減の調節、
この3つさえ押さえたら、どこへ出しても通用するお好みが焼ける。
これは、何枚も焼いて体で覚えるしかない、まずは、土台になる生地を引くところからじゃ。
同じようにやってみい!」
文子はボールから、おたま八分目ですくい、クレープのようにいとも簡単に伸ばした。同じようにやっているつもりだが、なんど伸ばしてもムラになり綺麗に伸ばせない……
「やってみたら難しいじゃろうが?
人が時間をかけできるようになったものを、数回やっただけで、できたら失礼に当たる!
今日からは、生地を引く練習じゃ!」
「ちくしょう!」なんどやってもできない、どこが違うんだ? 引きはじめて、1時間が過ぎようとしていた。
低い位置から鉄板に落とし、引いた……
均一の厚さで見事に広がった。
何度やつても上手くいく、大声で文子を呼んだ。
「見てくれ! まともに引けるようになった」
昔、この光景を見た記憶があった、そうだ、小学4年生のとき、逆上がりが、出来るようになって、嬉しくて、文子を呼んだときだ!
10年以上前のことが、鮮明に映像になった。
無意識に涙が溢れる、思えば苦労し育ててくれた文子に、迷惑のかけっぱなしの人生だった。 糞親父と何も変わらない自分に腹が立ってしかたがなかった……
横を見ると自分の事のように、喜んでいる文子の姿があった。 文子が前掛けのポケットから古い紙切れを取出した。
「これ、時効かね……?」
それは、輝明が小学2年生のとき文子に、プレゼントした肩たたき券だった、画用紙を切って書いた汚いクレヨンの字には参った。
「お袋! 時効なんかありゃぁせん!
永久に有効じゃ!!!」
丸椅子に座らせ文子の肩を叩く……
後ろ髪をアップしたうなじに、細く光る白髪が、切ない……
溢れ出る涙をこらえるのが必死だった。
「お袋! 迷惑ばかりかけてすまない、
これからは親孝行するからな!」
輝明は、消え入りそうな声でいった。
それが精一杯だった。本当の意味で、親子が和解できた始まりだった。
5.
輝明は、今日、葉を摘んでも明日には芽が出る明日葉(あしたば)のように、メキメキ腕を上げていった。
昼食に加奈子が訪れた。鉄板の対面に立つ輝明を見つけ、加奈子がいった。
「初めて店に帰ってきたときには、どうなるんか心配しとったんよ、ちゃんとお好み焼けるようになったんじゃね!」
横にいた文子が嬉しそうにいった。
「かなちゃん、まだまだじゃけど、こいつが焼くお好み、食べちゃってや!」
加奈子はヘラを上手に使って、食べやすくカットし、口の中にほうりこんだ。
「美味い! おばちゃん、としぞうが焼いたお好み焼きも、ぶち(すごく)美味いわ!それと、ここのキャベツの甘さ、最高じゃけんね!」
そうこう話しているところへ近所に住む、村品がやってきた。 文子は暖簾をくぐった、村品にいった。
「あら! 村品さん久しぶりじゃね! 今日は昼間っからどしたん?」
「今日は僕、有休をとって会社休んで曲を仕上げていました」
「そうか! 村品さんの趣味は、曲を作ってギターの弾き語りじゃったね! ほいで曲は、できたん?」
頭をかきながら村品はいった。
「加奈子さん、もうチョットです……」
常連客の村品と加奈子は顔見知りだった。村品は、鉄板の向こうに立っている顔に、見覚えがあった。
「あれ? もしかして君は、鼻水を垂らし、かけ回っていた輝明君か!!!」
微笑みながら文子がいった。
「村品さんこいつが、その輝明です!」
6.
2005年、息を吸い込むと、空気で鼻がつんとくる冬の日だった。 この世に、たった一人しかいない大事な母、文子が寒い台所でお好みの仕込み中に倒れた。脳動脈瘤破裂、くも膜下出血だった。
智吉と同じ広島赤十字・原爆病院に運ばれたが、昏睡状態から一度も意識を回復することなく亡くなった。
台所には文子が仕込んでいたキャベツが、そのままの状態で散乱していた。
なぜ異変に気付けなかったのか……
加奈子も、村品も、訃報を聞き駆けつけてくれた。 特に母と従う文子を亡くし、加奈子のショックは、計り知れないものがあった。
後悔という悔しさに、溢れ出る涙を止める事ができなかった。気づけば辺りは、すっかり明るくなっていた。
窓からは、温かい朝日が差し込み、外からは何事もなかったかのように、元気なスズメの鳴き声が聞こえていた。
箪笥の中には、文子が普段、身につけていた服が几帳面にたたまれ収納されていた。
単純にそれを目にするだけで、熱い物がこみ上げてきた。一番上の引き出しを開けた。
引き出しには、売り上げの記録が書かれた帖簿があった。
わずかな儲けだった……
それとは別に俺に渡そうと思っていたのか、バインダーに挟んだA4の帳面を見つけた。お好み焼き屋ふみちゃんで使う材料の種類、仕入れ先から下ごしらえのしかた、お好みの焼き方がまとめられ書いてあった。
文子の生前、唯一親孝行らしきことをした肩たたき卷も、大事にバインダーに挟んであった。
輝明は、同じ引き出しの中に、記憶のある紙袋を見つけた。
それは輝明が中学2年のとき、文子にプレゼントしたものであった。
テレビのスイッチを入れたように、当時の記憶が鮮明に映像として、頭の中に映し出される。
中学になると給食がなく、休むことなく働き、疲れているのに暑い日も寒い日も、毎日毎日、朝早く起き弁当を作り、輝明に持たせてくれた。
文子の手は、ヒビ切れだらけだった……
文子は、お好み焼きに使う油をいつも手にぬっていた。
「これしか、ないんじゃけん仕方ない」って大きな声で笑っていたけど……
輝明は、どうしても笑うことができなかった。そんな事を目にしている輝明は、どんなに生活が厳しくても文子には、感謝の気持ちでいっぱいだった。
毎日の様に、近くの洋品店に通い、飾ってあるハンドクリームをながめては、文子にプレゼントする日を夢見た。
買えるまでに10か月かかった……
130円ずつ、子袋に分け、合計10袋を握りしめ、夢にまで見たハンドクリームを買いにダッシュで、お店に走った。
事件が起きた!
ハンドクリームは、1280円だけど、それに消費税38円、合計1318円、お金を払うときに必要な事が初めて分かった。頭の中はまっ白、
『お金が足りない……
もう一週間、ためたら買える!』
しかたなくハンドクリームを商品棚に返そうとした、そのとき店のおばちゃんは、5円玉ばかりのお金を見て、
「輝ちゃんがズーと前から、ハンドクリーム見ちょったん、おばちゃんは知っちょる……
消費税はおまけじゃ!」と、輝明にハンドクリームをくれた。
嬉しくて嬉しくて、紙袋に包んだ、ハンドクリームを握りしめ全速力で家路に走った。
「ただいま! これ!」
息を弾ませ包みを渡したら、文子は、
「なんねぇ……?」って、少し頭をかしげた。お袋の喜ぶ顔が見とうて!
「早よう開けてみてや!
ワシからのプレゼントじゃ!!」と、元気よくお袋にいったら、包みを開けた文子は、こわい顔して輝明にいった……
「これどうしたん! このハンドクリームどっから盗んできた!!
なんぼ貧乏しちょっても、人様の物に手をかけるような子に、育てた覚えはないけん! ほんま、情けないわ!!」と、震えながらハンドクリームと輝明をにらんだ、
「違うよ、お袋!
ワシ、買ったんじゃ……」
「うそをいいんさんな!
お前に、なんで、こんなお金がある?
小遣いなんか、やったことないじゃない!」
輝明はハンドクリームを手に入れるまでの経緯を話した。
「毎日牛乳代ってもらうけん、ワシ安い牛乳にして毎日5円づつ、ずっと前から貯めちょったんよ!
ハンドクリームを買いとうて、
お袋をびっくりさせとうて、
内緒にしていただけなんじゃ……
ワシ……
なんも悪い事なんか、しちょらんけん!」
しばらくの間、文子は黙っていたが……
ハンドクリームが入った紙袋の上に、大きなしずくがポトポト落ちた。
「悪かったね!」って、いつまでも輝明に、頭を下げ続けた。
「すまんかったね!」って、いつまでも輝明を抱きしめた……
親父にどんなにされても涙を見たことのない、お袋の涙を輝明は生まれて初めて見た。それは、中学2年生の冬だった……
そのハンドクリームは、新品のままだった。紙袋の中には、輝明が書いたメモ紙が、そのまま入っていた。
「お袋いつもありがとう! 学校を卒業したら働いて、お袋を絶対に楽にするけん! それから、人の役に立つ大人になるけん!」
今思えば、たかが1300円のハンドクリームだが、お袋が宝物のように、大事にしていてくれたことが、嬉しくてたまらなかった。気がつけば、輝明は文子にいつも連れてきてもらった、比治山(ひじやま)公園の遊具広場にある、ベンチにすわり呆然としていた。
「おい! おい!……
五百旗頭じゃぁないか!?」
輝明を呼ぶ大きな声に我に返った。
白い息を吐き犬を連れ、ダウンジャケットに身を包んだ丹波だった。
「あっ! 丹波さん……」
「犬を散歩をしょうたんじゃが、誰かと思うたで、おい! 権八、静かにしちょけよ……」
近くにある、ジャングルジムに犬を繋ぎ、焼きたての、芋を与えた。
熱くはないのか? 一瞬で平らげた。
言葉が分かるのか、よくしつけられた柴犬だ、丹波は隣に腰かけた。
「五百旗頭、神妙な顔してどしたんなら? この下で焼き芋をしちょって、もろたんじゃが熱いうちに食え!」
丹波は焼きたての芋を半分に折り、輝明に渡した。
「焼きたてじゃけん熱いで!
気を付けて食え!」
「昔、お袋たちが清掃し、集まった落ち葉で、焚火をしました。焼き芋懐かしいです。丹波さんのご自宅、この辺ですか?」
「おぉ、ワシか?
産業会館の近くの比治山本町(ひじやまほんまち)よ」
うなだれた、五百旗頭の手元に雫が落ちた。
「どしたんなら? 五百旗頭……
なんかあったんか?」
「3日前、母が亡くなりました。迷惑ばかりかけ心配させ、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
剛腕デカといわれている、丹波が優しくいった。
「ほうか、そりゃー寂しゅうなったのぅ…… ワシも一昨年、肺炎で母親を亡くした。89歳じゃったが同じくらい寂しい、あれもしてやればよかった、これもしてやればよかったと後悔ばっかりじゃ……」
五百旗頭は、中学1年のときにプレゼントしたハンドクリームを文子が使わず、大事に持っていたこと、又、そのとき書いたメモ紙の内容を話した。
神妙な顔をし、最後まで話を聞き終えた、丹波がいった。
「人の役に立つ大人になるとのぅ……
五百旗頭、今でもその気持ちは変わらんか?」
丹波が遠くを見つめていった。
「流れ星の五百旗頭! お前にしかできんことがある!」
「俺にしかできないこと……?」
「ほうじゃ! お前にしかできん」
丹波の目には、一点の曇りもなかった。
「保護司じゃ! 流れ星の五百旗頭といわれちょった、お前がやるけん意味があるんじゃ」
保護司? 初めて聞く言葉だった。
丹波がいった。
「お前、何歳になる?」
「11月で23歳になりました」
「ほうか! 更生保護という言葉、聞いたことあるか?」
「分かりません、初めて聞く言葉です」
丹波が、かみ砕くように説明した。
「更生保護とは、人の立ち直りを支える活動のことじゃ、犯罪や非行をしたヤツも、何らかの処分を受けた後は地域社会に戻り、社会の一員として生きていくことになる。
そいつらを見守り、更生させる手助けをするんが、民間のボランティアといわれちょる保護司じゃ!」
丹波は続けた。
「そこら辺の会社員や自営業、真っ当な生活をしてきたもんじゃ重みがない!
さっきいったように、流れ星の五百旗頭といわれちょったお前がやるけん、意味があるんじゃ! それとのぅ、23歳で保護司になったら日本最年少じゃ!」
頬を緩め、諭すように丹波がいった。
「元、族上がりの保護司!
それも日本最年少!
亡くなられたお袋さんも喜ぶと思わんか? まぁ、よう考えてみい……
その気があったら、電話くれぇや、
ワシが責任をもって段取りをしちゃる!」
丹波は、ジャングルジムに繋いでいた犬のリードを外した。先程まで伏せ、目を閉じていた犬が、目を見開き立ち上がった。
「おい! 権八、いぬる(帰る)で、流れ星の五百旗頭! お前がやるけん価値があるんじゃ!」
再びそういい残し、丹波は来た道を下って行った。
「その通りだ!」このまま落ち込んでいても決してお袋は喜ばない。明日からは、お好み焼きふみちゃんを始めよう!
店の引き戸を叩き続ける音がした。
時計を見たらまだ7:00にもなっていない、
「誰なんだ? こんなに朝早くから……」
「はーい!」開錠し引き戸を開いた。
見るからにホームレスと思われる、お爺さんが立っていた。 細かな作業ができるよう、両手にはめた軍手の指先はカットされ、レジ袋を下げた右手には、小指と薬指がなかった。
「見かけないお爺ちゃんだね、こんなに朝早くから何か?」お爺さんは、五百旗頭の質問に笑顔で答えた。
「あんたが五百旗頭さんか!?
珍しい苗字じゃのぅ……
ワシは気ままに生きちょる、西島忠則(にしじまただのり)
仲間は、『タダ爺』と呼んじょる。
実はのぅ、ここのお好み焼き屋では広甘藍を使っちょると聞いてきた」
五百旗頭は、お爺さんに合わすように広島弁でしゃべった。
「お爺ちゃんは、呉広地区で作られちょった広甘藍を知っちょるんね?」
「生まれは、群馬県桐生じゃが、呉にずっと住んじょって、広甘藍は当たり前のキャベツじゃった。じゃが、今では見かけることがのうなった。甘味があって瑞々しい味が懐かしい」
お爺さんは続けていった。
「その、広甘藍があると聞いてきた。呉から東へ海岸沿いに行ったところに、安芸津(あきつ)という町がある。
そこで作られちょる『あきつ美人』というジャガイモが最高に美味い!
ここに少しじゃが持ってきた。 これと、広甘藍を交換してもらえんじゃろうか?」
そういうと、お爺さんは、レジ袋を差しだした。
冷蔵庫に新聞紙で包み、保存していた広甘藍をタダ爺に渡した。
「すまんのぅ……
それと、広甘藍の保存方法が完璧じゃ!」
タダ爺は包んでいた新聞紙を広げ、広甘藍を取り出し、目を閉じ葉先を噛みしめた。
「これじゃよ! これ! この甘さじゃ! それとぶち瑞々しい!」
お爺さんが、当たり前のように食べていた、広甘藍の話を聞かせて下さい。
「お爺さんじゃのうて(なくて)タダ爺と、呼んでくれ! それと五百旗頭さんは、何という名前なんかの?」
「てらすの輝、明るいと書いて、輝明と申します」
「てるあきか…… 良い名前じゃ!」
『ありがとう…』
歌 : KOKIA
作詞:KOKIA 作曲:KOKIAリリース: 1999年
【ストーリー 2】 著: 脇 昌稔
【ストーリー 3】へ続く..
この小説はフィクションです。
実在の人物や団体などとは、